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第23話 兆候

 それは、昼食のときだった。

 ユミナが書庫塔から戻ってきた。いつもより早い。午後の鐘がまだ鳴っていなかった。部屋の扉を開けて入ってきたユミナの顔色が——白かった。白いのはいつものことだが、今日の白さは血の気が抜けた白さだった。唇に色がない。


「早いな」


「ええ。少し……切り上げました」


 ユミナは椅子に座った。座るとき、机に手をついた。支えがないと座れなかったのだ。恒一はそれを見ていた。


「飯にしよう。パンを買ってある」


 恒一は机にパンと干し果実を並べた。学院通りのパン屋で買った丸パン。蜜入りではない、普通の硬いパン。ユミナの部屋にあるハーブ茶を淹れた。苦い茶。二人分。


 ユミナがパンをちぎった。一切れ口に入れた。咀嚼が遅かった。いつもは三回ほどの咀嚼で飲み込むユミナが、七回、八回と噛んでいる。飲み込むのに時間がかかっている。


 二切れ目のパンに手を伸ばしたとき、ユミナの鼻から赤い筋が垂れた。


 一瞬だった。ユミナ自身が気づくより先に、恒一が見た。鼻の穴から唇の上に向かって、細い血の線が一本。


「ユミナ。鼻血だ」


 ユミナの手が鼻に触れた。指先に赤がついた。ユミナはそれを見て、表情を変えなかった。手巾を取り出して鼻を押さえた。白い布に赤い染みが広がった。


「……すみません。少し、魔力の消耗が」


「少し、か」


 恒一の声が、自分でも思ったより硬かった。


 ユミナが鼻血を出すのを、恒一は初めて見た。顔色の悪化。食事量の減少。研究時間の短縮。それらは数週間かけて徐々に進行していた。しかし鼻血は——段階が違う。身体が限界を示している。


「ユミナ」


「はい」


「どこまで悪いんだ」


 ユミナは手巾で鼻を押さえたまま、恒一を見た。琥珀色の瞳。その目に、いつもの平静があった。二十年間の平静。


「大丈夫です。再構築の消耗が長引いているだけで——」


「大丈夫じゃないだろう」


 恒一は自分の声に驚いた。踏み込んでいた。ダラとの会話の翌日——いや、あの会話がなくても、今日この場面では踏み込んでいただろう。目の前で人が鼻血を出して「大丈夫」と言うのを、黙って聞いていられるほど、恒一は鈍くない。


「顔色が悪い。パンが一切れから半切れに減ってる。書庫塔に行く時間が短くなってる。そして今、鼻血だ。——これのどこが大丈夫なんだ」


 ユミナの手巾を持つ手が、微かに強張った。


「恒一さんは、よく見ていますね」


「観察が趣味だからな。——いいから答えてくれ。どこまで悪い」


 沈黙が落ちた。窓の外で風が吹いた。書庫塔の壁面の文字列が光っている。昼の光の中で、その光は薄い。


 ユミナは手巾を鼻から離した。血は止まっていた。手巾を折り畳んで、机の上に置いた。赤い染みが白い布の中に閉じ込められた。


再構築(リライト)の消耗は、想定より——回復が遅れています」


「想定より、ってことは、回復するはずだったのか」


「はい。通常であれば、数週間で魔力は安定します。しかし……今回は二度目の再構築ということもあり、消耗が深い」


「どのくらい深い」


「……日常生活には支障ありません。研究の時間が短くなっていますが、それは調整で対応できます」


 答えになっていなかった。恒一は気づいていた。ユミナは「どのくらい深い」に対して、深さを数値で答えず、影響範囲を限定する形で答えた。嘘ではないが、真実でもない。境界線の内側に入れてもらえない。


「対処法は」


「時間です。魔力の自然回復を待つのが基本です。ただ——」


 ユミナはそこで言葉を切った。切ったことに、恒一は気づいた。何かを言いかけて、やめた。


「ただ?」


「いえ。時間をかければ、回復します」


 嘘だった。あるいは——全部を言っていなかった。「ただ」の後に続くはずだった言葉を、ユミナは飲み込んだ。


 恒一は追及しなかった。追及できなかった——わけではない。今日は踏み込めた。顔色のことも、パンのことも、鼻血のことも言えた。しかし「ただ」の先にあるものを、ユミナが自分から言わない限り、無理にこじ開けるべきではないと、恒一は判断した。


 踏み込むことと、こじ開けることは違う。

 境界線を越えることと、壁を壊すことは違う。


「わかった。——ただ、俺にできることがあるなら言ってくれ」


 ユミナは恒一を見ていた。長い、静かな視線だった。


「……心配しないでください」


 その声は——いつもの「大丈夫です」とは少し違っていた。平静ではあった。しかしその平静の下に、薄い膜のようなものが張っている。その膜の向こうに、ユミナが隠しているものがある。恒一にはそれが見えた。見えたが、手は届かなかった。


「心配してる」


 恒一は言った。今度は嘘をつかなかった。数日前の夕食で、恒一は「心配はしてない。観察しただけだ」と言った。あれは嘘だった。今は——嘘をつかなかった。


 ユミナの目が、一瞬だけ揺れた。膝の上の手が、きつく組まれた。


「……ありがとうございます」


 その声が震えていたかどうか、恒一にはわからなかった。聞き取れないほど微かな震えだったかもしれない。あるいは、恒一がそう聞きたかっただけかもしれない。


 昼食の続きを食べた。ユミナはパンの二切れ目を半分だけ食べた。恒一は残りを食べた。甘味のないパン。苦い茶。窓から午後の光が差している。


 恒一は茶を飲みながら考えていた。ユミナが言いかけてやめた「ただ」の先。消耗の回復が遅れている。時間をかければ回復する、とユミナは言った。しかしその前に「ただ」があった。

 時間だけでは足りない何かがあるのではないか。


 恒一にはまだ、その答えが見えていなかった。


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