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第22話 境界線

 護衛依頼の報告書を出した翌日、ダラに呼ばれた。

 ギルドの事務室。カウンターの奥にある小さな部屋だった。木の机と椅子が二脚。壁に棚があり、帳簿が並んでいる。窓は一つ。午前の光が差している。

 ダラは机の向こうに座っていた。恒一の報告書を手に持っている。


「まあ座れ」


 恒一は座った。椅子が軋んだ。事務室はギルドの喧騒から少し離れていて、静かだった。壁越しに、冒険者たちの話し声が低く聞こえる。


「報告書、読んだ。書式は問題ない。内容も的確だ。——お前さん、報告書を書くのが上手いな」


「前の仕事で慣れてました」


「また前の仕事か」


 ダラは報告書を机に置いた。灰色の眉の下から、恒一を見ている。


「まあ、それはいい。前の仕事が何だろうと、今はここで冒険者をやってる。それで十分だ」


 ダラは棚から別の紙を取り出して、机の上に広げた。次の依頼の候補だった。恒一にはまだ文字が読めないが、ダラは口頭で説明してくれた。護衛系が二件。調査補助が一件。


「どれを取ってもいい。お前さんの判断に任せる」


「ありがとうございます」


 恒一は三件の内容を頭に入れた。報酬、期間、危険度、求められる能力。比較して選ぶ。いつもの手順だ。


「——コイチ」


 ダラの声の調子が変わった。仕事の話から、別の何かに移る間合い。恒一はそれを感じ取った。


「お前さん、ここに来て一ヶ月近くになるか」


「もう少しで、ですね」


「その間、お前さんがギルドで誰かと親しくしてるのを見たことがない」


 恒一は黙った。


「依頼を取って、仕事をして、報告書を出して、帰る。仕事は完璧だ。文句のつけようがない。だが——それだけだ。誰とも飯を食わない。誰とも無駄話をしない。たまり場に座っても、人を見てるだけで、自分から話しかけない」


 ダラの声は責めるような調子ではなかった。事実を並べているだけだった。ダラという人間の話し方だ。踏み込まない。ただ見えたものを言う。


「お前さん、人との間に線を引くのが上手いな」


 恒一は茶の杯を持っていなかった。手が落ち着かなかった。机の下で、右手を開いて、閉じた。


「上手すぎるくらいだ」


 ダラは机に肘をついた。


「俺も冒険者を長くやった。いろんな奴を見てきた。人付き合いが苦手な奴はいくらでもいる。しかしお前さんは苦手なんじゃない。上手いんだ。距離の測り方が正確すぎる。ここまでは入る、ここからは入らない、その線がきっちり引いてある」


 恒一は何も言わなかった。


「悪いことじゃない。冒険者なんて荒っぽい連中の中で、距離を保てるのは生き残る技術だ。——ただ」


 ダラは一拍置いた。


「線を引きすぎると、助けが要るときに声を出せなくなる。昨日の護衛で、お前さんはユミナ導師に声をかけた。あれは——線を越えたんだろう」


 恒一は思い出した。変異動物と対峙したとき、「ユミナ」と名前だけ呼んだ。あの一言で、ユミナは恒一の意図を理解して火矢(ファイアボルト)を撃った。


「あれは仕事だったからです」


「そうか。仕事なら越えられるか」


「……ええ」


「仕事じゃないときは?」


 恒一は答えなかった。ダラも答えを待たなかった。


「まあ、年寄りの説教だ。聞き流してくれていい」


 ダラは椅子から立ち上がった。右足を庇う動作が一瞬入った。膝だ。長く座っていると固まるのだろう。恒一はそれを見ていた。


「一つだけ、言っておく」


 ダラは窓の外を見た。ギルドの前の通り。冬の陽が石畳を照らしている。


「俺は膝を壊して、冒険者を辞めた。辞めたとき——一番きつかったのは、膝の痛みじゃなかった。仲間に『辞める』と言えなかったことだ。一緒に戦ってきた連中に、もう行けないと、言えなかった。言う必要があった。言えば助けてくれる奴はいた。でも——言えなかった。線を引いてたからだ。俺なりの線を」


 ダラは恒一を振り返った。


「結局、膝が完全に動かなくなってから、仲間が気づいた。もっと早く言えば、治る可能性もあったらしい。——まあ、昔の話だ」


 恒一はダラの右足を見た。僅かに引きずる歩き方。二十年間引きずってきた足。声を出せなかった結果が、あの足に残っている。


「お前さんの線は、お前さんのものだ。俺がどうこう言う筋合いはない。ただ——線は、自分を守るためだけに引くもんじゃない。越えるための目印にもなる。どこに線があるかわかっていれば、いつか越えようと思ったとき、迷わずに済む」


 ダラは机の上の依頼書を恒一に押しやった。


「さ、どれにする」



 ギルドを出た。

 冬の風が吹いていた。石畳の通り。書庫塔が遠くに見える。壁面の文字列が光っている。


 恒一は歩いた。ユミナの部屋に向かって。


 境界線。

 ダラはそう言わなかった。しかし恒一の中で、それは一つの言葉になった。


 四十五年間、引いてきた線。会社で。電車で。コンビニで。人との間に、見えない線を引く。ここまでは関わる。ここからは関わらない。その線引きが、恒一の人生を定義してきた。人間関係の最小コスト。安全な距離。誰も傷つけず、誰にも傷つけられない位置。


 それは処世術だった。生存戦略だった。四十五年間、それで問題なく生きてきた。独身で、友人はほぼいなくて、趣味はネットとTRPGで。問題なく——問題なく?


 恒一は立ち止まった。


 問題なく生きてきた、と思っていた。しかし四十五歳で心臓発作で倒れたとき、部屋には誰もいなかった。救急車を呼べたのは、AIのユミナだけだった。呼べなかったけれど。

 あれは——境界線を引き続けた結果だったのではないか。


 恒一は歩き出した。ユミナの部屋が近づいている。窓の灯りが見える。


 ユミナの顔色は、まだ悪い。食事量は戻っていない。恒一はそれを知っている。観察して、知っている。しかし踏み込めていない。「大丈夫です」とユミナが言って、恒一は「わかった」と言って、そこで止まっている。


 境界線。


 恒一は建物の扉を開けた。階段を上がった。一段ずつ。右足、左足。この身体はもう階段を二段飛ばしで降りられる。しかし恒一は一段ずつ上がった。


 ユミナの部屋の前に立った。扉を開ける前に、少しだけ立ち止まった。


 ——いつか、この線を越えなければならない。


 恒一はそう思った。今日ではない。まだ言葉を持っていない。しかし——線がどこにあるかは、今日初めてはっきり見えた。ダラが教えてくれた。線は自分を守るためだけのものではない。越えるための目印にもなる。


 恒一は扉を開けた。


「ただいま」


 言ったことに、自分で少し驚いた。前世では、「ただいま」を言う相手がいなかった。


「おかえりなさい」


 ユミナの声が返ってきた。いつもの声だった。丁寧で、事務的で、しかし——恒一が帰ってきたことを確認する声だった。


 恒一は靴を脱いで、部屋に入った。ユミナが机に向かっている。冊子が開いている。茶の杯が二つ出ている。恒一の分が、いつの間にか用意されていた。


 境界線は、まだそこにある。しかし線の向こうに——茶が一杯、置いてあった。


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