表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
21/56

第21話 最適解

 護衛依頼は、掲示板の白い紙の中では報酬が高い部類だった。

 学院の調査隊がエリン近郊の遺跡を調べに行く。その往復の護衛。日帰り。危険度は低いとされていたが、冒険者の同行が義務づけられている。遺跡周辺には変異動物——この世界の野生動物が魔力の影響で変質したもの——が出ることがあるからだ。


 恒一はその依頼を取った。書庫整理を五回こなし、ギルドの仕組みと報告書の書式に慣れた後の、初めての屋外依頼だった。

 ユミナが同行を申し出た。恒一は断らなかった。


 朝、エリンの東門を出た。調査隊は三人。学院の研究者が二人と、記録係が一人。全員がローブを着ている。荷物は記録用の道具と冊子。護衛は恒一一人だった。低危険度の依頼には、冒険者一人で足りる。


 ユミナは護衛ではなく、調査隊の同行者として参加していた。導師が遺跡調査に同行することは珍しくないらしい。研究者の一人がユミナに敬意を払い、もう一人は距離を置いていた。いつもの二面性だった。


 エリンの街を出ると、景色が変わった。石畳が土の道になる。両側に冬枯れの草原が広がる。遠くに低い丘が連なっている。空が広い。街の中では建物に遮られていた空が、ここでは地平線まで続いている。

 風が冷たかった。草の匂い。土の匂い。枯れ草の乾いた匂い。三週間嗅いでいた石と紙とパンの匂いとは違う。


 恒一は歩きながら、周囲を見ていた。道の両側。草の高さ。地形の起伏。風向き。前世の会社員には不要な情報だったが、護衛としては必要だった。何かが出てきたとき、どこから来て、どこに逃げるか。

 地下のゴーレムと違って、屋外には空間がある。空間があるということは、選択肢がある。


 遺跡は二時間ほど歩いた場所にあった。草原の中に石の構造物が半ば埋もれている。壁の一部と、階段の入口。調査隊はそこで記録を取り始めた。ユミナも遺跡の壁面に手を当て、文献魔法(アーカイブアーツ)で何かを読み取っていた。


 恒一は遺跡の周囲を歩いて地形を確認した。遺跡の北側に岩場がある。東側は草原で見通しがいい。南側に低い木の茂みがある。西側は緩い斜面。

 茂みが気になった。視界を遮る。何かが隠れるとしたら、あそこだ。



 帰路で、出た。


 復路の半ば、エリンの城壁が遠くに見え始めた頃。恒一の左前方——道の南側の茂みから、がさりと音がした。


 恒一の足が止まった。自分の意思で止まった。ゴーレムのときとは違う。音を聞いて、判断して、止まった。


「止まってください」


 恒一は調査隊に声をかけた。低い声で。三人が足を止めた。


 茂みが揺れた。何かが出てきた。

 四足の動物だった。犬に似ている。しかし肩の高さが恒一の腰ほどある。毛皮が灰色で、背中に沿って青い筋が走っている。魔力の影響だろう。目が——二対あった。四つの目が、恒一を見ている。


 変異動物。一頭。


 恒一の身体が——動こうとした。


 あの感覚だった。足が勝手に角度を決めようとする。膝が曲がろうとする。身体が最適な行動を選択しようとしている。馬車のとき。ゴーレムのとき。三度目。


 恒一は——逆らった。


 足を踏みしめた。膝を自分の意思で固定した。身体が動こうとする衝動を、意識で押さえ込んだ。

 身体が抵抗した。筋肉が震えた。走り出そうとする脚と、止まろうとする意志が拮抗して、恒一は一瞬だけ石のように硬直した。


 ——待て。考えろ。


 恒一は息を吸った。変異動物は動いていない。恒一を見ている。四つの目。威嚇の姿勢だが、まだ飛びかかってはいない。距離は十五歩ほど。


 考えた。四十五年間の思考回路で。

 戦う必要があるのか。目的は調査隊の護衛だ。調査隊を無事にエリンに戻すことが仕事であって、変異動物を倒すことではない。


 恒一は後ろを振り返らずに言った。


「全員、ゆっくり後退してください。走らないで」


 調査隊が後ずさりを始めた。恒一は変異動物と調査隊の間に立ったまま、動かなかった。


 変異動物が唸った。低い音。喉の奥から出る警告音。恒一に向かって一歩踏み出した。


 恒一は——横に動いた。

 右に二歩。変異動物の正面から外れる。変異動物の視線が恒一を追う。首が動く。その動きで、変異動物の注意が調査隊から恒一に集中した。


 位置取り。恒一がやろうとしたのは、それだった。全力で戦うのではなく、相手の注意を自分に固定し、調査隊の退路を作る。


 変異動物がもう一歩踏み出した。恒一はさらに右に動いた。道から離れる方向。調査隊が退避する道の反対側。変異動物が恒一を追えば追うほど、調査隊からは遠ざかる。


「ユミナ」


 恒一は名前だけ呼んだ。


 ユミナは理解していた。恒一の左斜め後ろから、青白い光が走った。火矢(ファイアボルト)。変異動物の足元の草を焼いた。当てたのではない。地面に着弾させた。小さな炎が上がり、煙が立った。


 変異動物が跳ねた。炎に驚いて、後方に二歩退いた。恒一は動かなかった。変異動物と恒一の間の距離が広がった。


 もう一発。今度は変異動物の右側の地面。炎。煙。変異動物の退路を左側——道から離れる方向——に限定する。


 恒一は身体の衝動を感じていた。飛び込め、と身体が言っている。あの速度で走り込んで、急所を——。しかし恒一はその衝動を押さえていた。走り込む必要はない。相手を追い込めばいい。退路を塞いで、自分から離れる方向に誘導すればいい。


 会社員時代の交渉術と同じだった。相手を力で押し切るのではなく、選択肢を限定して、こちらの望む方向に動かす。リスクを最小化し、損害をゼロに近づける。全力で戦って勝っても、こちらが怪我をしたら依頼としては失敗だ。


 三発目の火矢(ファイアボルト)。変異動物の真後ろの草を焼いた。変異動物は四つの目を忙しなく動かし、炎と煙に囲まれた状況を判断して——茂みに戻った。がさがさと草を揺らしながら、遠ざかっていった。


 恒一は息を吐いた。


「……行った」


 調査隊が二十歩ほど後退した場所で固まっていた。恒一は手を振って合図した。ユミナが隣に来た。


「大丈夫ですか」


「ああ。——助かった。火矢の位置取り、完璧だった」


「恒一さんの誘導に合わせただけです」


 ユミナの声は平静だった。しかし目に、微かな驚きのようなものがあった。



 エリンに戻った。調査隊を学院に送り届け、ギルドに報告書を提出した。カウンターで処理を待っていると、奥からダラが出てきた。


「護衛依頼、完了か」


「ええ。変異動物が一頭出ましたが、追い払いました」


「追い払った? 倒したんじゃなく?」


「倒す必要がなかったので。注意を引いて位置取りして、ユミナの火矢(ファイアボルト)で退路を限定して、自分から離れさせました」


 ダラは恒一を見ていた。灰色の眉の下の、小さくて鋭い目が。


「お前さん、戦い方が冒険者じゃないな」


「そうですか」


「冒険者は——特に若い奴は、出てきた敵は倒す。それが一番わかりやすいし、腕を見せられるからな。お前さんはそうしなかった。最小限のリスクで、目的だけ達成した」


 ダラは腕を組んだ。


「……商人か、将校の動きだ。お前さん、本当に何者だ」


「ただの冒険者です」


「ただの冒険者は、十四歳であの判断はしない」


 恒一は黙った。四十五歳の会社員です、とは言えない。


「まあいい。結果が出てる。書類もちゃんと出してる。——次の依頼も護衛系を取るか?」


「そのつもりです」


「なら、もう少し難度の高いのを回してやる。お前さんなら、やれるだろう」


 ダラは事務室に戻っていった。右足を僅かに引きずりながら。


 恒一はギルドの椅子に座った。茶を注文した。苦い茶。飲みながら、右手を開いて、閉じた。

 今日、身体が走り出そうとしたのを、止めた。初めて。意識で、身体の衝動を押さえた。完全に制御できたわけではない。身体は最後まで抵抗していた。しかし——恒一の意思が、身体の自動判断に優先した。


 これが、第一歩だった。

 身体と意思が別々に動く。それを——一つにする。この身体を自分のものにする。そのために、まだ時間がいる。まだ経験がいる。

 しかし今日、恒一は初めて自分の意思で戦い方を選んだ。身体が選んだ最適解ではなく、恒一が選んだ最適解で。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ