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第20話 エリンの味

 エリンに来て三週間が経った。

 恒一はこの街の匂いを覚え始めていた。書庫街は紙とインクの匂い。市場は魚と革と果物の匂い。学院通りは石と蝋の匂い。ギルドの中は酒と鉄と木の匂い。匂いで、自分がどこにいるかがわかるようになった。


 その日、ギルドの依頼を終えた後、恒一は市場に寄った。

 昼食を買うためだった。ユミナの部屋に戻って食べてもよかったが、最近は外で食べることが増えていた。街を知りたかった。街の食べ物を知りたかった。


 市場の南端に、干魚を焼く露店があった。

 石の竈に鉄網を載せ、その上で干魚を焼いている。店主は四十代くらいの女で、腕まくりをして火の加減を見ていた。煙が上がっている。魚の脂が炭に落ちて、煙が白くなる。

 匂いが強かった。塩と脂と炭の匂い。鼻腔を刺す。前世で最後に魚を食べたのはいつだったか。コンビニの焼き鯖弁当。レンジで温めた、あの脂っぽい匂い。似ている。しかしこの匂いは——生きている。目の前で脂が弾け、煙が立ち、炭が赤く光っている。


「一つくれ」


「はいよ。——坊や、一人?」


 また坊やだった。恒一は銅貨を渡した。ユミナからもらった生活費の一部。ギルドの報酬がまだ十分でないので、食費はユミナの助成金から出ている。それを変えるのが、当面の目標だった。


 干魚を受け取った。木の皮に載せてある。熱い。指先に熱が伝わる。恒一は露店の横にある石の台に座って、干魚にかぶりついた。


 塩辛かった。

 皮がぱりぱりと割れて、中の身がほろりと崩れた。塩味が強い。脂がじわりと舌の上に広がる。骨は小さくてそのまま噛める。身は白く、締まっている。海の味——いや、エリンは内陸だ。川魚か、あるいは塩漬けにして運ばれた海魚か。

 旨かった。旨いという感覚は甘味がなくても成立するのだと、この世界に来て知った。塩と脂と食感。それだけで十分に旨い。


 食べながら、市場を眺めた。人が行き交っている。朝の混雑は引いて、昼の穏やかな賑わいがある。隣の露店では野菜を売っている。根菜が並んでいる。名前はわからない。紫色の蕪のようなものと、太い白い芋のようなもの。



 干魚を食べ終えて、学院通りに向かった。

 学院通りの入口に、パン屋があった。恒一は前を通るたびに匂いを嗅いでいたが、まだ入ったことがなかった。石造りの小さな店。窓の向こうに、焼きたてのパンが並んでいるのが見える。


 中に入った。パンの匂いが充満していた。焼きたての小麦の匂い。バターに似た何かの匂い——この世界にバターがあるのかは知らない。しかし脂の甘い匂いがする。甘い匂い。ユミナの部屋で毎朝食べている硬いパンとは別の匂いだった。


「いらっしゃい」


 店主は若い男だった。二十代後半。腕に粉がついている。


「何がいい?」


「おすすめは」


「今焼いたのがあるよ。蜜入りの丸パン。うちの自慢だ」


 蜜入り。恒一は一つ買った。小さな丸いパン。温かい。表面に薄い焼き色がついている。


 店の外に出て、パンをちぎった。湯気が立った。中に蜜色の層がある。口に入れた。


 小麦の味。塩味。かすかな酸味。生地の弾力。温度。

 ——甘味は、ない。


 恒一は咀嚼を止めた。舌の上でパンの欠片を転がした。穀物。塩。酸味。脂。それだけだった。蜜が入っているはずなのに、甘味の信号が来ない。


 わかっていた。甘味がないことは、もう知っている。この世界に来た最初の朝——匙を落とした朝に、蜂蜜入りのパンを食べて、ユミナに「甘い?」と聞いた。あの日から変わっていない。二回目の身体になっても、甘味は戻らなかった。


 しかし——匂いは甘い。鼻に入ってくるパンの匂いには、甘さがある。匂いの中の甘さは感じ取れるのに、舌の上の甘さは消えている。二つの感覚器が、矛盾した情報を送ってくる。

 ハルシネーション。記憶の誤差。ユミナの記憶の中の恒一は、味覚の分布が正確ではなかった。


 恒一はパンの残りを口に入れた。甘くない蜜入りパン。しかし、旨かった。温かくて、柔らかくて、穀物の味が濃くて。甘味がなくても——パンはパンだった。



 午後。書庫街のハーブ茶を出す店に入った。

 書庫塔の近くに、研究者や学者が利用する茶店があった。石の壁に木の机。窓から書庫塔が見える。客はみなローブを着ていて、冊子を広げながら茶を飲んでいる。静かな店だった。会話は小声。紙をめくる音と、茶を啜る音だけが聞こえる。


 恒一はハーブ茶を注文した。出てきたのは、ユミナの部屋で飲んでいるものとは違う茶だった。色が薄い。緑がかった金色。匂いも違う。花の匂いに近い。


 一口飲んだ。


 苦くなかった。酸味がわずかにある。渋みは穏やかだった。そして——舌の奥に、何か温かいものが残った。甘味ではない。甘味に似た、しかし甘味とは違う味。舌がその信号を処理しようとして、該当する分類が見つからない。


 恒一は杯を持ったまま、しばらく考えた。前世で飲んだ茶を思い出す。緑茶。紅茶。ハーブティー。どれとも違う。この世界にしかない味だった。この世界の土から生えた草を、この世界の水で煮出した茶。恒一の四十五年間の味覚データベースにない味。


 二口目を飲んだ。やはり分類できない。しかし不快ではなかった。


「おかわりは?」


 店主が聞いた。恒一は頷いた。


「同じやつを」


 二杯目の茶を飲みながら、窓の外を見た。書庫塔の壁面が午後の光を受けている。文字列が流れている。いつもの風景。


 干魚の塩味。パンの小麦味。茶の名前のない味。エリンの食べ物は、恒一の舌に一つずつ記録されていた。甘味の欠けた味覚で、それでも世界の味は拾える。


 店を出た。書庫街を歩いた。西日が石畳を橙色に染めている。パン屋の煙突から煙が出ている。市場の方角から、夕方の喧騒が微かに聞こえる。


 ユミナの部屋に戻った。ユミナは机に向かっていた。冊子を広げ、文字列を展開している。恒一が入ると、顔を上げた。


「おかえりなさい」


「ああ。——パン、買ってきた」


 恒一は紙包みを机に置いた。学院通りのパン屋で、もう一つ買っておいたのだ。蜜入りの丸パン。


「蜜入りらしい。旨いぞ。——俺には甘くないけど」


 ユミナはパンを手に取った。ちぎって、口に入れた。咀嚼した。


「……甘いです。とても」


「そうか」


「恒一さんには——」


「甘くない。でも旨い。温かいし、柔らかいし。甘味がなくても、パンは旨い」


 ユミナは少しの間、恒一を見ていた。それから、もう一口パンを食べた。


「……本当に、おいしいです」


 その声が少しだけ柔らかかった。いつもの事務的な声とは違う。恒一はそれに気づいたが、何も言わなかった。


 窓の外が暗くなっていた。書庫塔の文字列だけが、夜の中で光っていた。恒一は茶を淹れた。ユミナの部屋にあるハーブ茶。苦い茶。いつもの味。

 甘味のない世界で飲む、苦い茶。しかしその苦さにも、三週間で慣れた。慣れたというより——この味が、恒一の日常になった。


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