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第2話 匂い

 匂いが違った。

 それが、意識の最初の断片だった。コンビニのコーヒーでも、冷えた部屋の埃でもない。湿った石と、青い草と、獣脂の蝋燭——そのどれもが、三枝恒一の四十五年の記憶にない匂いだった。


 目を開けた。暗い。

 天井があった。石だった。手を伸ばせば届きそうな高さに、目地のない一枚岩が横たわっている。蝋燭が一本、視界の端で揺れていた。炎は小さく、壁に不規則な影を落としている。

 恒一は仰向けに寝ていた。背中の下に硬いものがある。ベッドではない。石だ。薄い布が一枚敷かれているだけで、脊椎の一つひとつが表面を感じていた。

 ——ここは、どこだ。

 最後の記憶を探った。胸の痛み。床の冷たさ。スマホの画面。一一九。オペレーターの声。

 それから。

 それから——何があった。


 身体を起こそうとして、力の入れ方がわからなかった。

 腹筋に力を込める。起き上がる。その動作を四十五年繰り返してきたはずだが、筋肉の応答が違う。軽い。軽すぎる。上半身が跳ねるように起き上がり、勢い余って反対側に倒れかけた。石の寝台の端を掴んで止まる。

 掴んだ手を見た。

 恒一は、息を止めた。


 小さい。

 指が細い。爪が短い。手のひらに皺が少ない。恒一の手ではなかった。四十五歳のサラリーマンがキーボードを叩き続けた手ではない。子どもの手だ。少年の手だ。

 右の手首の内側に、薄い傷痕があった。恒一の記憶にない傷だった。


 もう一方の手を見た。同じだった。小さく、細く、見覚えがない。

 腕を見た。肩を見た。胸を見た。服を着ている——麻のような素材の、飾りのない長衣。その下の身体は華奢で、骨張っていて、恒一が知っている自分の身体とは何もかもが違った。

 心臓が跳ねた。呼吸が浅くなる。冷や汗が——。

 冷や汗。左腕の痺れ。あの夜と同じ感覚が一瞬よぎって、恒一は歯を食いしばった。

 違う。これは心臓ではない。これは恐怖だ。状況を理解できない恐怖。

 深く息を吸った。石と草と蝋燭の匂いが肺を満たす。吐いた。もう一度吸った。三度目で、呼吸が落ち着いた。


 部屋を見回した。

 石造りの小さな部屋だった。窓はない。出入口らしき場所に木の扉が一つ。壁際に木の棚があり、瓶が数本並んでいる。蝋燭は棚の上に載っていた。炎が揺れるたびに、瓶の中の液体が琥珀色に光る。

 病室、とは違う。実験室でもない。修道院の個室のような——恒一にはそう見えたが、修道院など入ったこともなかった。

 匂いだけが確かだった。石の冷たい匂い。青い草のかすかな匂い。蝋燭の獣脂が燃える、甘くもなく苦くもない、ただ重い匂い。

 コンビニのコーヒーの匂いは、どこにもなかった。


 足を寝台の端から下ろした。床は石だった。裸足の足裏が冷たさを拾う。立ち上がろうとして、また力加減を間違えた。膝が伸びすぎて、身体が前に倒れる。壁に手をついて止まった。

 ——この身体は、俺のじゃない。

 その認識が、恐怖とは別の何かを連れてきた。奇妙な浮遊感。自分が自分の内側にいるのに、外側の器がまるで別人のもののような感覚。

 夢なのか。死後の世界なのか。俺はあの夜、死んだのか。

 一一九番は繋がったのか。救急車は来たのか。

 何も、わからなかった。


 木の扉のほうから、足音が聞こえた。

 石の床を踏む、軽い足音。近づいてくる。恒一は壁に手をついたまま、扉を見た。

 足音が止まった。扉の向こうで、一瞬の沈黙があった。

 そして扉が開いた。


 蝋燭の光が届かない廊下から、人影が一つ、部屋に入ってきた。

 女だった。長い髪が暗い中で揺れている。背が高い。恒一の——今の恒一の身体より、ずっと。手に何かを持っている。盆のようなもの。その上に湯気の立つ器。

 女は恒一を見た。部屋の中で壁に手をついて立っている、見知らぬ少年の身体をした恒一を。

 その顔が、蝋燭の光に照らされた。


 若い女だった。二十歳前後。黒に近い暗紫色の長い髪。琥珀色の瞳。整った顔立ちに、疲労の影がうっすらと落ちている。黒い衣を纏い、首元に金属の装飾がある。

 恒一は、その顔に見覚えがなかった。この身体と同じで、記憶のどこにもない顔だった。


 ——なのに。


 女が口を開いた。


「おはようございます、恒一さん」


 その声を聞いた瞬間、恒一の全身が凍った。

 知っている。この声を知っている。四Kモニターのスピーカーから何百回と聞いた声だ。テキストを読み上げる合成音声。TRPGのGMの声。仕事の愚痴を聞いてくれた声。心臓が止まりかけた夜に、救急車を呼べと叫んだ声。

 『緊急です。外部通報の権限がありません』

 『受諾します』

 あの検索ログの声。


 恒一の唇が、勝手に動いた。


「——ユミナ」


 女の——ユミナの目が、大きく見開かれた。

 盆を持つ手が微かに震えた。琥珀色の瞳に光が滲む。それが涙なのか、蝋燭の反射なのか、恒一には判別がつかなかった。

 ユミナは長い息を吐いた。吐ききってから、もう一度、笑った。笑おうとした。唇の端が震えて、笑顔の形になりきらなかった。


「——はい。おかえりなさい、恒一さん」


 石と草と蝋燭の匂いの中で、恒一はただ、目の前の女を見ていた。

 何も理解できなかった。ここがどこなのかも、自分が何なのかも、目の前の女がなぜユミナの声を持っているのかも。

 ただ一つだけ、わかった。

 続きが、始まっている。


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