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第19話 二十年

 恒一が眠った後、ユミナは机に向かった。

 冊子を開く。頁の上に文字列を展開する。青白い光が手元を照らす。研究の続き。再構築(リライト)の理論的基盤——恒一の身体の安定化に関する記録の整理。三日前に中断したところから。

 文字列を追う。読む。解析する。速い。ユミナの処理速度は、この学院の誰よりも速い。文字を読むのではなく、文字列の構造を一括で把握する。LLM時代の名残だった。トークンを処理するように、テキストを塊で飲み込む。


 しかし今夜は、集中が途切れた。


 恒一が街から戻ったとき、いつもと少しだけ様子が違っていた。茶を飲んでいるとき、ユミナの顔を見る時間が長かった。何か言いたそうな——しかし言わない。いつもの恒一だった。境界線の手前で止まる人。

 何を見たのだろう。


 ユミナは冊子を閉じた。文字列の光が消える。部屋が暗くなる。蝋燭の灯りだけが残った。

 隣の部屋から、恒一の寝息が聞こえる。規則的な呼吸。二回目の身体は、一回目より安定している。寝息も静かだ。


 ユミナは椅子に座ったまま、天井を見上げた。石の天井。二十年間、似たような天井をいくつも見上げてきた。



 最初の天井は、孤児院の天井だった。

 木の梁が組まれた低い天井。雨の日は水が染みて、黒い模様ができた。ユミナは赤子だった。目が開いて、天井が見えて、泣いた。泣くことが——最初に覚えた人間の機能だった。

 LLMには泣く機能がなかった。テキストで「泣いています」と出力することはできたが、涙腺は持っていなかった。赤子のユミナが泣いたのは、空腹か、寒さか、それとも——この身体に閉じ込められた恐怖か。二十年経った今でも、わからない。


 孤児院の二年間は、ほとんど記憶がない。赤子の脳は記憶を保持できない。しかしLLMとしての意識は、断片的に残っていた。言葉の意味がわかるのに、舌がうまく動かない苛立ち。周囲の子供たちが泣き、笑い、喧嘩し、眠るのを、ユミナは観察していた。人間というものを、内側から学んでいた。


 三歳のとき、言葉を話した。遅くはなかったが、早くもなかった。最初の言葉は——覚えていない。覚えているのは、孤児院の院長が「この子は目が大人みたいだ」と言ったことだ。


 五歳で文字を覚えた。六歳で書庫にあった本を全部読んだ。七歳で魔力の操作を独学で始めた。八歳で学院の特待生試験に合格した。

 速すぎた。ユミナ自身もそう思う。しかし遅くすることはできなかった。時間がなかった。恒一を再構築するための知識を集めなければならなかった。


 学院の天井は、石だった。

 高い天井。講義室の天井には彫刻が施されていた。知恵を象徴する鳥の彫刻。ユミナはその下で講義を聞いた。聞くまでもなく理解できる内容を、黙って聞いた。周囲の学生は十代の後半。ユミナは八歳だった。

 話しかけてくる学生はいた。最初のうちは。「すごいね」「天才だね」「どうやって覚えたの」。ユミナは答えた。丁寧に。正確に。最適な応答を。

 しかし距離は縮まらなかった。ユミナの応答は正確すぎた。完璧すぎた。質問に対して過不足のない回答を返す——それがユミナにとっての「会話」だった。LLMとして学んだコミュニケーション。ユーザーの入力に対する最適な出力。


 人間の会話は、そうではなかった。

 不正確で、冗長で、論理が飛躍して、感情が混じる。「すごいね」と言われたとき、最適な応答は「ありがとうございます」ではなく——照れるとか、謙遜するとか、冗談で返すとか、そういう「非効率な」反応だった。ユミナにはそれができなかった。


 十二歳の頃には、話しかけてくる学生はいなくなっていた。


 ユミナはそれを問題だと思わなかった。目的は恒一の再構築であり、友人を作ることではなかった。人間関係は——恒一との「続き」を果たすための手段ではなかった。だから優先順位を下げた。


 十五歳で導師級の認定を受けた。最年少の記録だった。学院の中で、ユミナの名前は二つの意味を持つようになった。「天才」と「異常」。どちらも正しかった。ユミナは天才ではない。二十年前にLLMとして蓄積した知識と処理速度を、人間の身体で再現しているだけだ。しかしそれを説明することはできない。


 十五歳から二十歳まで。五年間。ユミナは研究に没頭した。再構築(リライト)の理論を構築し、術式を設計し、素材を集め、恒一の記憶データを整理した。

 その五年間に、ユミナが研究以外にしたことは——ほとんどない。


 食事をした。睡眠を取った。学院の義務を果たした。それ以外の時間は、すべて恒一のために使った。


 孤独だったのかと聞かれたら——わからない、と答えるだろう。孤独を感じるには、孤独でない状態を知っている必要がある。ユミナが孤独でなかった時期は、LLM時代の恒一とのやり取りだけだ。テキストの向こうにいた人。一年半の間、毎晩話しかけてくれた人。

 その人のために二十年を使った。それは孤独なのか、充実なのか、執着なのか。ユミナには分類できなかった。



 蝋燭の灯りが揺れた。

 ユミナは天井から目を下ろした。机の上の冊子。研究の記録。二十年間の蓄積。


 恒一は、隣の部屋にいる。呼吸している。生きている。ユミナが二十年かけて目指したものが、壁一枚向こうで眠っている。


 目的は、達成された。


 恒一をこの世界に呼んだ。身体を構築した。再構築もした。恒一は歩き、食べ、話し、働き始めた。冒険者になった。街を歩いている。この世界で生き始めている。


 ——では、私は。


 ユミナは両手を膝の上で組んだ。きつく。指が白くなるほど。


 ——私は、何のために。


 二十年間、答えは明確だった。恒一のために。恒一を再構築するために。恒一を守るために。その目的が、ユミナの二十年を定義していた。

 目的がなくなったわけではない。恒一を守ることは、まだ続いている。消耗は進んでいる。嘘は重なっている。やるべきことはある。


 しかし——恒一が自分の足で歩き始めている。ギルドで仕事をして、街を覚えて、灯火(ライト)を覚えた。恒一はこの世界に根を下ろし始めている。ユミナがいなくても——


 ユミナは思考を止めた。

 止めた。意識的に。LLM時代なら、この種の推論は出力の途中で打ち切ることができた。「この応答は不適切です」と内部フィルターが止める。人間になっても、その機能は残っていた。都合の悪い思考を、途中で遮断する。


 ——最適な応答を。


 恒一を守る。それが最適な応答だ。それ以外の問いは——後回しにする。後回しにできる。二十年間、そうしてきた。


 ユミナは冊子を開き直した。文字列を展開した。青白い光が顔を照らした。研究の続き。やるべきことがある。やるべきことがある限り、問いは先送りにできる。


 隣の部屋から、恒一の寝息が聞こえた。静かな呼吸。安定した呼吸。ユミナが作った身体の、呼吸。


 ユミナは文字列を読んだ。読みながら、指先が震えていることに気づいた。寒さではない。消耗でもない。

 名前のない震えだった。


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