第18話 学院の影
灯火の習得には、四日かかった。
ユミナが教えてくれた手順は単純だった。指先に意識を集中し、魔力——この世界に充ちている力の流れ——を指の先端に集め、文字列として出力する。文字列が光に変換される。それが灯火だ。
理屈は理解できた。しかし実行は別だった。魔力の感覚が恒一にはなかった。ユミナは「水に手を浸したとき、水の流れを感じるのに似ています」と言ったが、恒一の手は空気しか感じなかった。
三日間、何も起きなかった。四日目の朝、指先にわずかな熱を感じた。ユミナが「それです」と言った。その熱を追い、指の先端に押し込み、言葉にならない意識の操作を繰り返して——指先に、豆粒ほどの光が灯った。
「……これが」
「灯火です。小さいですが、立派な文献魔法です」
豆粒の光。蝋燭より弱い。しかし自分の身体から光が出ている。前世では絶対にありえなかったことが、指先で起きている。
恒一はその光を見つめた。不思議と感慨はなかった。四十五歳の感覚が、これを「新しいスキルの習得」として処理していた。エクセルのマクロを覚えたときと同じだ。できなかったことが、できるようになっただけだ。
「魔力感知は、もう少し時間がかかります。まず灯火を安定させましょう」
恒一は頷いた。
その日の午後、恒一は一人でエリンの街を歩いていた。
ギルドの依頼は午前中に終えた。シルトルの追加依頼で別の書庫塔の整理。作業は慣れてきた。番号体系も頭に入っている。エリンの文字はまだ読めないが、数字だけは書けるようになった。
午後はユミナの研究時間だ。恒一はその時間、街を歩くようにしていた。身体を動かすためと、街を知るためだ。
書庫街を抜け、学院通りに入った。
空気が変わった。石畳の質が違う。書庫街の石畳は実用的な灰色だが、学院通りの石畳は白い。磨かれている。通りの幅も広い。両側に石造りの建物が並んでいるが、書庫街の建物とは造りが違った。窓が大きい。壁に彫刻がある。門構えが立派だ。
金の匂いがした。金属の金ではない。金銭の匂い。維持費のかかる建物と、手入れの行き届いた石畳と、門番のいる入口。学院は——権威の場所だった。
学院の正門の前を通りかかったとき、二人の男が門から出てきた。ローブを着ている。学院の関係者だ。恒一とすれ違うとき、二人は恒一をちらりと見た。見て、通り過ぎた。子供だ、と思われたのだろう。
しかし二人のうち一人が、通り過ぎた後に振り返った。恒一の背中を見ている。恒一はそれを首の後ろの気配で感じた。観察眼。背後の視線を感じるのも、会社員の癖だ。
二人が立ち止まった。声が聞こえた。小声だったが、風向きで断片が恒一の耳に届いた。
「——あの子、導師の弟子の——」
「ああ。ギルドで冒険者登録したらしい——」
「——変わった子を拾ったもんだ。あの導師さまも——」
恒一は足を止めなかった。歩き続けた。しかし耳は拾っていた。
「——導師さま」の言い方に、二つの温度が混じっていた。敬意と警戒。天才への尊敬と、何かへの忌避。
通りの先に、小さな広場があった。噴水がある。水がちょろちょろと流れている。精霊魔法のインフラだろう。広場のベンチに座って本を読んでいる学生らしい若者が数人。恒一はベンチの端に座った。
広場にいると、学院の関係者が頻繁に行き交った。ローブの男女。年齢はさまざまだ。二十代の学生から、白髪の老学者まで。
恒一は茶を買った。広場の隅に露店があった。甘味のない、いつもの苦い茶。それを飲みながら、人を見ていた。
一時間ほど座っていると、パターンが見えてきた。
学院の人間は、おおむね三種類の反応をしていた。
一つ目は、恒一に関心がない人々。通り過ぎるだけ。子供がベンチに座っているだけで、特に何も思わない。
二つ目は、恒一を見て「導師の弟子」と気づく人々。ちらりと見て、小声で何か言って、離れていく。その小声には、さっきの二人と同じ温度が混じっている。
三つ目は——恒一のほうではなく、恒一の「周囲」を確認する人々。恒一を見て、それからユミナがいないことを確認して、足早に去る。
三つ目の反応が、恒一には気になった。ユミナがいるかどうかを確認する。それは——ユミナの存在を意識している、ということだ。恒一の存在ではなく、ユミナの。
恒一は茶を飲み干した。広場を出て、学院通りを歩いた。書庫街に戻る方向ではなく、学院の裏手に回った。裏通りは狭かった。石壁に苔が生えている。表通りの白い石畳とは別の世界だ。
裏通りに食堂があった。学生や下級の研究者が使う店らしい。安そうだった。恒一は中に入った。
席に座って、パンと茶を頼んだ。周囲の会話が聞こえる。エリンの言葉だ。恒一はまだ完全には聞き取れないが、単語の断片は拾えるようになっていた。
「——導師さまの研究、最近遅れてるらしい」
「体調が悪いって話だ」
「体調? あの人に限って——」
「弟子を取ったからだろ。余計な手間が——」
恒一はパンをちぎった。左手で。右手でも持てるが、パンをちぎるのは無意識に左手が出る。ハルシネーションの名残だ。
「——でも、あの導師さまの研究は凄いんだろ?」
「凄いよ。文献魔法の理論で言えば、この五十年で一番の——」
「だからこそ危ないんだよ。凄すぎる。あの速度は異常だ。——普通の文献魔法であの処理速度は出ない」
「……異端に触れてるんじゃないかって、上のほうで——」
「おい、声が大きい」
会話が途切れた。恒一はパンを口に運んだ。噛んだ。穀物の味。塩味。甘味はない。
恒一は食堂を出た。裏通りを歩いた。石壁の苔。排水溝の水の音。冬の空は高く、灰色がかった青だった。
——ユミナは、孤立している。
恒一は歩きながら思った。学院の中で、ユミナの名前は二つの文脈で語られていた。「天才」と「異端の疑い」。才能への畏敬と、才能への恐怖。ユミナの処理速度が普通ではないことを、学院の人間は感じている。普通でないものに対する反応は、どの世界でも同じだった。
ユミナは二十年間、この街にいた。この学院で学び、導師になった。しかし——誰かと親しくしている場面を、恒一は一度も見ていなかった。
書庫塔で研究をして、部屋に戻って、恒一と茶を飲む。それがユミナの一日だった。学院の同僚と食事をする姿も、友人と話す姿も、見たことがない。二十年間この街に住んでいて、恒一以外の人間関係が見えない。
前世の恒一も似たようなものだった。会社に行き、仕事をし、帰る。同僚と飯を食うことはあったが、友人と呼べる相手はいなかった。しかし恒一の場合は——自分で選んだ孤独だった。境界線を引いて、人を遠ざけた。それは処世術だった。
ユミナの孤立は、違う。
ユミナは——選んだのではなく、選ばれなかったのか。あるいは、選ぶ余裕がなかったのか。二十年間、恒一を再構築するためだけに生きてきた。それ以外のことに、時間を使えなかったのではないか。
恒一は書庫街に戻った。ユミナの部屋がある建物が見えた。窓に灯りがある。ユミナが研究をしている。一人で。
恒一は立ち止まった。冬の風が吹いた。石と紙とパンの匂い。エリンの夕暮れ。
——俺が、そうさせたのか。
その問いが浮かんで、恒一は目を伏せた。答えは出なかった。出せなかった。ユミナの孤立の理由を、恒一はまだ知らない。しかし——恒一のために二十年を使ったユミナが、その二十年の間に何も得なかったのだとしたら。
恒一は窓の灯りを見上げた。そして、何も言えないまま、建物の中に入った。




