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第16話 ダラ

 依頼を選ぶのに、三日かかった。

 ユミナに掲示板の紙を全部読んでもらい、内容と報酬と条件を頭に入れた。書庫整理、荷物運搬、学者の調査補助、薬草の採取、遺跡周辺の見回り。白い紙の依頼だけで二十枚ほどあった。

 恒一は条件を比較し、報酬を計算し、自分にできる作業を絞り込んだ。前世の仕事と同じだ。案件を精査し、リスクとリターンを天秤にかけ、最初の一手を選ぶ。

 書庫整理を選んだ。報酬は一日分の食費に届かないが、安全で、書庫塔の構造を覚えられる。土地勘は最初の資産だ。


 掲示板から白い紙を剥がし、カウンターに持っていった。前回と同じ受付の女が処理してくれた。


「書庫整理ね。場所は第三書庫塔の二階。明日の朝から。依頼主はシルトル先生——学院の歴史学者よ」


「わかった」


「報告書は依頼完了後にここに出して。書式はこれ」


 紙を一枚渡された。報告書の書式。エリンの文字で項目が並んでいる。読めない。


「……ユミナに訳してもらう」


「導師さまに? まあ、最初はそうなるわね。文字は早めに覚えたほうがいいわよ」


 恒一は頷いた。文字が読めないのは致命的だ。いずれ覚えなければならない。しかし今日はまだ、それより先にやることがあった。


 カウンターを離れ、掲示板の前に戻った。依頼を選び終えた恒一には、もう掲示板を見る用はない。しかし掲示板の近くにある机と椅子——ギルドのたまり場に、恒一は座った。


 人を観察するためだった。


 ギルドの中には朝から人がいた。冒険者たちだ。革鎧の男、ローブの女、恒一と同じくらいの年の少年、白髪の老人。それぞれが机に座り、飯を食い、武器の手入れをし、仲間と話している。

 恒一は茶を注文した。ギルドの中に簡易な酒場がある。朝はパンと茶が出る。茶は苦い。甘味のない、いつもの味だった。


 茶を飲みながら、周囲を見ていた。人の動き方を見る。誰が常連で、誰が新人か。どういう組み合わせで座っているか。声の大きさ。笑い方。歩き方。前世のオフィスでもやっていたことだ。新しい職場に配属されたら、最初の一週間は人間関係の地図を作る。誰が権力を持ち、誰が情報を握り、誰に聞けば仕事が回るか。


「——お前さん、新入りか」


 声がした。右から。低い声だった。

 恒一は振り向いた。大きな男が立っていた。大きい、というのは横幅の話だ。背丈は恒一より頭二つ分高いが、それよりも肩幅と胸板が目についた。分厚い胴体。しかし腹は出ていない。鍛えた身体が、歳を取って少しだけ緩んだ体型。

 顔は五十代だった。深い皺が額と目尻に刻まれている。顎髭は灰色。短く刈り込んだ髪も灰色。目は——小さいが、鋭かった。見ているものを値踏みする目だ。


「ああ。昨日登録した」


「昨日か。で、朝から掲示板の前で茶を飲んで、人間観察か」


 見抜かれていた。恒一は少し驚いた。しかし驚きは表に出さなかった。


「……目立ったか」


「目立つさ。子供が一人で座って、飯も食わずに周りをじろじろ見てたらな。——まあ座れ」


 男は恒一の向かいに座った。椅子が軋んだ。革のベストを着ている。腰に武器はない。代わりに帳簿のようなものを脇に抱えている。


「ダラだ。ここの事務方をやってる」


「コイチです」


「コイチ。——お前さん、目つきが子供じゃないな」


 恒一は黙った。


「いや、悪い意味じゃない。子供は周りを見るとき、好奇心で見る。きょろきょろする。お前さんは違う。座ったまま、動かずに、目だけで追ってる。人の顔を読もうとしてる。——そういう見方をするのは、大人だ。それも、苦労した大人だ」


 恒一は茶を飲んだ。苦い茶を、一口。


「会社員の癖です」


「カイシャイン?」


「前の……仕事の癖です。人の顔色を見て、距離を測る。それが仕事の基本だったので」


 ダラは灰色の眉を上げた。それ以上は聞かなかった。恒一が「前の仕事」と言って、具体的に語らなかったことを、追及しなかった。

 不干渉。恒一はそう感じた。この男は、聞いていいことと聞かなくていいことの区別を知っている。長く人と関わってきた人間の間合いだった。


「導師さまの弟子だと聞いたが」


「ええ」


「導師さまのところの子供が冒険者登録とは珍しい。普通は学院で研究者になるもんだが」


「金が必要なんです」


「率直だな。——まあ、それが一番まともな理由だ」


 ダラは帳簿を机の上に置いた。


「書庫整理を取ったらしいな」


「明日からです」


「シルトルか。まともな依頼主だ。変わり者だが、払いはいい。報告書をちゃんと出せば次の依頼も回してくれる」


「報告書の書き方がまだわかりません。文字が読めないので」


「読めないのか。——まあ、そこは追々だ。最初は導師さまに手伝ってもらえ。書式さえ覚えれば、あとは定型だ」


 ダラは立ち上がった。椅子が軋んだ。


「お前さん」


「はい」


「さっき、人を見る癖だと言ったな」


「ええ」


「人を見る力は、冒険者にも要る。相手の出方を読む。依頼主の本音を探る。仲間の調子を見る。——お前さんみたいなのは、案外この仕事に向いてるかもしれんぞ」


 ダラは背を向けて歩き出した。右足が少しだけ引きずっていた。膝だ。恒一にはわかった。右膝の動きが左と比べて僅かに遅い。古い怪我だ。完治しなかった怪我。

 元冒険者。膝を壊して引退。事務方に転じた。ダラの歩き方が、その経歴を語っていた。


「ダラさん」


 呼び止めた。ダラが振り返った。


「書類はちゃんと出します」


 ダラは一瞬だけ目を細めた。笑ったのか、値踏みしたのか、恒一にはわからなかった。


「当たり前だ。出さなきゃ次はないぞ」


 ダラは事務室のほうに歩いていった。右足を僅かに引きずりながら。


 恒一は茶の杯を置いた。甘味のない、苦い茶。窓から朝の光が差している。ギルドの中は革と紙とインクの匂いがする。

 ダラという男。五十二歳。元冒険者。膝を壊して引退。ギルドの事務方を二十年。人を見る目があり、踏み込まない親切を知っている。

 恒一が異世界で出会った、最初の「大人の知り合い」だった。


 前世でこういう上司がいたら、もう少し会社が好きになれたかもしれない。恒一はそう思って、思ったことに少し驚いた。人に対してそんなふうに思うのは、久しぶりだった。


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