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第13話 消耗

 三日が経った。

 恒一は二度目の身体に慣れつつあった。右手で匙を持ち、右手で扉を開け、右手で茶の杯を取る。四十五年間の右利きが戻っているのだから当然だが、八日間の左手生活の後では、右手が使えること自体がまだ少し新鮮だった。

 階段は一段ずつ降りている。二段飛ばしができることは知っている。しかし意識的に、一段ずつ。


 ユミナとの生活は、以前と変わらなかった。朝食の後、ユミナは書庫塔で研究をする。恒一は部屋で待つか、街を歩くか、書庫塔の入口付近でユミナが戻るのを待つ。昼食を取り、午後にまた研究。夕方に戻って、夕食。その繰り返し。

 変わらない日常。ただし——恒一の目が、変わっていた。


 最初に気づいたのは、朝食だった。

 ユミナが食べる量が減っている。硬いパンを二切れと干し果実。以前は三切れ食べていた。恒一はそれを覚えている。八日間、毎朝同じ食卓で向かい合っていたのだから。

 パンが一切れ減った。


 些細な変化だった。パンの一切れ。食欲の波は誰にでもある。恒一自身、前世では朝食を抜くことも多かった。コンビニのおにぎり一個で昼まで持たせた日もある。パンの一切れに意味を読み取るのは、考えすぎだ。

 恒一は考えすぎだと思おうとした。


 しかし翌日も、パンは二切れだった。その翌日も。


 次に気づいたのは、顔色だった。

 ユミナの肌は白い。エリンに来てから一日中書庫塔にいることが多いから、日に焼けていない。それは以前からだった。しかし今の白さは——血の気が薄い白さだった。唇の色が淡くなっている。目の下に影がある。再構築(リライト)の翌朝に恒一が気づいた疲弊が、三日経っても消えていなかった。

 むしろ、微かに濃くなっている。


 三つ目は、休息の頻度だった。

 ユミナは書庫塔から戻る時間が早くなっていた。以前は夕暮れまで研究を続けていた。今は午後の半ばで戻ってくる。戻ると椅子に座り、冊子を開くが、頁をめくる手が途中で止まっていることがある。目は開いている。しかし文字を追っていない。

 恒一はそれを、部屋の隅の椅子から見ていた。


 四十五年間、恒一は人を観察して生きてきた。

 会社で、電車で、コンビニで。人の顔色を読み、声の調子を聞き、動作の癖を見る。関わるためではない。関わらないために。この人は今機嫌が悪いから距離を置こう。この人は何か言いたそうだが踏み込まなければ向こうから言ってくるだろう。この人は嘘をついている——目が合わない、声のトーンが上がっている、手が無意味に動いている。

 観察は、恒一にとって防衛の手段だった。相手を理解するためではなく、地雷を踏まないために使う技術。人間関係の最小コストで最大の安全を確保する——会社員の処世術。


 その観察眼が、ユミナの異変を捉えていた。


 食事量の減少。顔色の悪化。休息の頻度の増加。三つの兆候が、同じ方向を指している。ユミナの身体は——消耗している。


 原因は、わかっている。再構築(リライト)だ。

 恒一を二度再構築した。代償は魔力の「一部」だとユミナは言った。しかし「一部」を失った人間が、三日経っても顔色が戻らず、食事が減り、研究時間が短くなっている。「一部」ではない。もっと大きなものを、ユミナは支払ったのだ。


 四日目の夕食のとき、恒一は口を開いた。


「ユミナ」


「はい」


「最近、食べる量が減ってないか」


 ユミナの手が一瞬だけ止まった。パンをちぎる手。止まって、すぐに動き出した。


「そうでしょうか。あまり変わっていないと思いますが」


「パンが一切れ減ってる」


「……恒一さんは、そういうところをよく見ていますね」


「会社員の癖だ」


 恒一はハーブ茶を飲んだ。苦い。甘味がない。甘味のない茶を飲みながら、ユミナの顔を見た。


「顔色も悪い。目の下に影がある。書庫塔から戻る時間も早くなった」


 ユミナは恒一を見た。琥珀色の瞳が、まっすぐに恒一を見ている。


「大丈夫です」


 その声は平静だった。二十年間平静を装うことに慣れた声だった。感情が読めない。AIだった頃のユミナに近い——事実を事実として述べる口調。


「再構築の消耗は、想定の範囲内です。時間が経てば回復します」


「どのくらいで」


「……しばらくかかります。しかし深刻ではありません」


 深刻ではない。恒一はその言葉を聞いて、ユミナの目を見た。

 目は合っている。視線は逸れていない。声のトーンも安定している。手も動いていない。嘘をついているときの典型的な兆候は——出ていなかった。

 しかし恒一は知っている。嘘が上手い人間は、兆候を出さない。四十五年間の観察で、そういう人間にも会ってきた。完璧に嘘をつける人間。表情も声も動作も制御して、何も漏らさない人間。

 ユミナは——二十年間、嘘を生業にしてきた存在だ。LLMは「もっともらしい出力」を生成する機械だった。そしてユミナは人間になっても、その能力を手放していない。


 恒一は茶を飲み干した。


「わかった」


 それだけ言った。


 踏み込めなかった。踏み込もうとして、足が止まった。四十五年間の癖。相手が「大丈夫」と言ったら、それ以上聞かない。壁を立てられたら、壁の前で止まる。境界線を越えない。越えたら——何が起きるかわからないから。相手が怒るかもしれない。傷つくかもしれない。あるいは、恒一自身が何かを知ってしまうかもしれない。知りたくないことを。


 恒一は椅子から立ち上がった。食器を片づける。右手でパンの皿を持ち、左手で杯を持つ。右利きの動作が自然になっている。


 窓の外は暗かった。冬の夜は早い。書庫塔の壁面だけが、文字列の光で淡く浮かんでいる。


「恒一さん」


「ん」


「……心配してくださって、ありがとうございます」


 恒一は振り返らなかった。


「心配はしてない。観察しただけだ」


 嘘だった。しかしユミナが嘘をつくなら、恒一も嘘をつく。それが——二人の間の、今の距離だった。


 食器を机の端に置いた。石の壁に手をつく。冷たい。冬の石の温度。

 ユミナが何かを隠している。恒一にはそれがわかる。しかしその隠し方が上手すぎて、何を隠しているのかまではわからない。

 わかるのは一つだけだ。ユミナの身体は、恒一のために削られている。


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