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第12話 二度目の朝

 翌朝、恒一は自分の足で階段を降りた。

 石の段を右足で踏む。感覚がある。足裏が段の角を捉えている。左足を次の段に下ろす。体重が移る。重心が前に傾く。右足がまた動く。

 普通の動作だった。一段一段、足が石を踏んで、身体が下に進む。それだけのことだった。

 しかし前の身体では、この階段で壁に手をついた。右足が段を認識しなかった。足首から先が曖昧になって、位置がわからなくなった。

 今は違う。足がどこにあるか、目を閉じてもわかる。


 恒一は階段の途中で立ち止まった。

 もう一段、降りた。もう一段。足が軽い。段差が低く感じる。八日間歩いた同じ階段なのに、身体が変わると距離が変わる。

 試しに、一段飛ばしてみた。右足で踏み切り、一段下を跨いで、その次の段に左足を置いた。着地。衝撃が膝に来る。しかし膝が受け止めた。ぐらつかない。


 ——若いな。


 四十五歳の意識が、そう思った。十四歳の身体が階段を二段飛ばしで降りている。前世で最後に階段を二段飛ばしで降りたのはいつだ。三十代の前半か。それ以降は膝が怖くて、一段ずつ降りるようになった。通勤の駅の階段。エスカレーターがあればエスカレーターを使う。四十歳を過ぎてからは、階段を避けるようになった。

 この身体は、階段を跳べる。


 恒一はもう一度、二段飛ばしで降りた。着地。安定している。足が地面を掴んでいる感覚がある。ふくらはぎに力がある。太ももに弾力がある。十四歳の筋肉と骨格が、四十五歳の記憶よりもはるかに軽く動く。

 前の身体でも十四歳だった。しかし前の身体は——右足の感覚が不安定で、利き手が使えず、階段で壁に手をつくのが精一杯だった。ハルシネーションが身体の性能を削っていた。

 今回は修正されている。利き手が戻り、足の感覚が正確になり、身体が本来の十四歳として動いている。


 ——前より動ける。


 その実感が、恒一の中に奇妙な感覚を残した。嬉しさではない。安堵でもない。戸惑いだった。一度死んで、作り直された身体のほうが、前よりも性能がいい。壊れたパソコンを修理に出したら、スペックが上がって返ってきたような。


 階段を降りきった。一階の通路に出た。石壁の廊下。窓から朝日が差している。冬の空気が冷たい。吐く息が白い。


 恒一は通路を歩いた。歩幅が広い。意識せずに歩くと、前の身体よりも一歩が大きくなる。足が勝手に伸びる。膝のばねが効いている。

 足が勝手に——

 恒一は立ち止まった。


 足が勝手に。

 その言葉が、あの日の記憶を引き戻した。


 市場の通り。暴走する荷馬車。子供の背中。自分の身体が——自分の意思より先に動いた。足が石畳を蹴った。手が子供を掴んだ。力の配分も角度も、恒一が計算したものではなかった。身体が勝手に最適解を選び、子供を突き飛ばし、自分を馬車の前に残した。


 恒一は自分の右手を見た。この手が、子供を押した。この足が、あの速度で走った。十四歳の身体にあり得ない速度で。

 そして恒一は——何も考えていなかった。


 ハルシネーション。記憶から再構築された身体の誤差。利き手が逆になるのも誤差なら、あの速度も誤差なのか。身体に埋め込まれた何かが、恒一の意識を飛び越えて身体を動かした。


 恒一は廊下の壁に背を預けた。石壁が冷たい。背中に冬の石の温度が染みる。


 怖い、と思った。

 正確に言えば——怖いと思うべきだ、と思った。自分の身体が自分のものではない感覚。ハンドルを握っているのに、車が勝手にカーブを曲がるようなものだ。次にいつ身体が勝手に動くかわからない。次は何をするかわからない。あのとき身体が選んだ「最適解」は子供を助けて自分が死ぬことだった。恒一の意思はそこに介在していなかった。


 しかし——同時に、別の感覚もあった。


 あの身体は、恒一には不可能なことをやった。あの距離を、あの速度で走れる人間はいない。少なくとも恒一の四十五年間の人生にはいなかった。子供を正確に突き飛ばし、怪我をさせず、馬車の軌道から外す。あの力の配分は、計算し尽くされていた。

 この身体には、恒一の知らない能力がある。


 恒一は壁から背を離した。廊下を歩き出した。一歩。二歩。足が軽い。前の身体とは違う。修正された身体。階段を二段飛ばしで降りられる身体。しかしその同じ身体が、恒一を殺した。


 ——この身体を理解しなければ。


 その思考は、四十五歳の恒一のものだった。トラブルが起きたら原因を特定する。仕様を把握する。制御できないものを制御可能にする。それがエンジニアの——いや、四十五年生きてきた人間の、最低限の対処法だった。

 自分の身体が何をできるのか。何を勝手にやるのか。どこまでが恒一の意思で、どこからが身体の判断なのか。

 それを知らなければ、また同じことが起きる。


 通路の突き当たりに、扉があった。外に出る扉。朝の光が隙間から漏れている。恒一は扉を開けた。


 冷たい空気が顔に当たった。冬の朝。石畳の通りに人がまばらに歩いている。パン屋の煙突から白い煙が上がっている。焼きたてのパンの匂い。遠くで荷車の車輪が石を叩く音がする。

 恒一は足を踏み出した。石畳に靴の底が触れる。感覚がある。硬さがある。一歩ごとに、この身体の重さと軽さを、足裏で確かめた。


「恒一さん」


 後ろからユミナの声がした。恒一は振り返った。ユミナが扉の向こうに立っていた。クロークを羽織っている。外に出る準備をしている。


「散歩か、と思って」


「……ああ」


 恒一は少し考えて、言った。


「身体を動かしてみたかった。この身体が、どう動くのか」


 ユミナは何かを言いかけて、止めた。恒一の目を見て、それから視線を外した。何を読み取ったのかはわからない。


「ご一緒します」


「ああ」


 二人で石畳の通りを歩いた。朝の空気が冷たい。吐く息が白い。パン屋の前を通り過ぎるとき、焼きたての匂いが鼻に入った。甘い匂い——だと、たぶんわかる。匂いの中に甘さがある。しかし舌で確認することはできない。甘味のない世界で嗅ぐ、甘い匂い。


 恒一は歩いた。右足、左足。一歩ずつ、この身体の動きを確かめるように。速く歩ける。前の身体より、ずっと。しかし恒一は歩く速度を上げなかった。

 まだ、走らない。

 走ったら——あの日のように、身体が勝手に走り出すかもしれない。


 今は、歩く。一歩ずつ。自分の意思で。この身体を、自分のものにするために。


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