第11話 転生特典
匂いで目が覚めた。
ハーブ茶の匂いだった。ユミナの部屋で毎朝飲んでいた、あの苦い茶の匂い。鼻腔に入ってきた空気を嗅ぎ分ける。茶葉の匂い。石壁の匂い。紙の匂い。窓から入る冬の外気。
目を開けた。天井が見えた。石の天井。見覚えがある。ユミナの部屋だった。
恒一は寝台の上にいた。毛布がかかっている。窓から午前の光が差している。白い光。空が晴れている。
身体がある。
その認識が、最初に来た。手がある。足がある。胸がある。呼吸している。心臓が動いている。当たり前のことが、当たり前ではない。最後の記憶は——石畳の冷たさと、空の青と、意識が沈んでいく感覚だった。馬車。丸太。子供の背中。自分の手が伸びて——
「恒一さん」
声がした。右側から。椅子に座っているユミナが、冊子を膝の上に置いたところだった。
「……ユミナ」
声が出た。自分の声だ。少年の声。喉に異物感はない。恒一は寝台の上で右手を持ち上げた。
——右手が動いた。
持ち上がった。指が開く。閉じる。握る力がある。右手に。
恒一は左手も持ち上げた。両方の手を、顔の前に並べた。右手と左手。どちらも動く。どちらも力が入る。
右手で——何かを掴む動作をした。匙を持つように、指を丸めた。自然だった。引っかかりがない。八日間、左手でしか持てなかった匙を、右手が掴んでいる感覚がある。
「利き手が……」
「直っています」
ユミナの声は静かだった。恒一の右手を見ている。
「前回の再構築では、利き手の情報が不正確でした。今回は——八日間の観察で、恒一さんが右利きであることを確認できていましたので」
恒一は右手を握り、開いた。右利き。四十五年間の右利きが、戻っている。
寝台の脇の机に、茶の入った杯が置いてあった。恒一はそれを右手で取った。取れた。持てた。口に運んだ。
苦い。
ハーブの苦味と、かすかな酸味。甘味は——ない。舌の上を液体が通り過ぎる。温度と苦味と酸味だけが信号として来る。
「甘味は」
「まだ確認できていません。八日間では味覚の分布までは特定できなかったので……申し訳ありません」
「謝ることじゃない」
恒一は茶を飲み下した。甘くない茶。しかし温かい。温度の感覚は正常だ。
身体を起こした。寝台の端に足を下ろした。足裏が石の床に触れる。冷たい。位置の感覚がある。前の身体では、右足の位置がわからなくなることがあった。今は——両足とも、どこにあるか、目を閉じてもわかる。
「……前より、調子がいい」
「はい。二回目の再構築では、前回よりも正確な身体を構築できました。ハルシネーションの一部は修正されています。ただし——」
「全部じゃない」
「ええ。甘味の欠落と、傷痕の不一致は残っています。それから、まだ見つかっていない不具合がある可能性も」
恒一は頷いた。右手首を見た。傷痕がまだある。恒一の記憶にはない、ユミナの想像が作り出した傷。それは残っている。
しばらく、黙った。
茶を飲んだ。苦い茶を。窓の外で鳥の声がした。書庫塔の壁面が朝日を受けて、文字列が光っている。いつもの朝の風景だった。
しかし恒一の身体は、昨日までの身体ではない。
「ユミナ」
「はい」
「あの馬車の後——俺は死んだのか」
ユミナは一拍置いて、頷いた。
「はい」
「それを、お前が直した」
「再構築しました。文献魔法で——恒一さんの身体を、もう一度」
恒一は茶の杯を机に戻した。右手で。
「一つ、聞いていいか」
「……はい」
「これだけの力、代償なしで使えるわけがないだろう」
ユミナの動きが、止まった。膝の上の冊子に置いていた手が、微かに強張った。恒一はそれを見ていた。四十五年間の観察眼が、その一瞬を捉えていた。
「死んだ人間を、丸ごと再構築する。身体を一から作り直す。それが——普通の魔法のはずがない」
ユミナは口を開き、閉じ、もう一度開いた。
「……おっしゃる通りです」
声が低かった。覚悟を決めた声だった。しかしその覚悟が何に対するものなのか、恒一にはまだわからなかった。
「恒一さんがこの世界に来たのは——偶然ではありません」
「それは、わかっている」
「はい。恒一さんをこの世界に転生させたのには、仕組みがあります。この世界には——旧き者たちと呼ばれる存在がいます。世界の根幹に関わる、神に近い存在です」
ユミナは冊子を机の上に置いた。両手を膝の上で組んだ。
「私は二十年前、その旧き者たちの恩寵——いえ、恩寵の一部を改変して、恒一さんをこの世界に呼ぶ力にしました。再構築は、その力の応用です」
「改変」
「はい。本来の恩寵は、もっと別の用途のためのものでした。それを——私が書き換えました。恒一さんを再構築するために」
恒一は黙って聞いていた。旧き者。恩寵。改変。知らない言葉が並ぶ。しかし構造は理解できる。既存のシステムを流用して、本来の設計にない機能を実装した。エンジニアの言葉で言えば——ハックだ。
「代償は?」
ユミナの目が、一瞬だけ揺れた。
「……私の魔力の、一部です」
一部。
恒一はその言葉を聞いて、ユミナの顔を見た。
顔色が悪かった。唇の色が薄い。目の下に薄い影がある。昨日——昨日ではない、恒一が死んだ日は八日目の朝だった。その朝のユミナは、こんな顔をしていなかった。冊子を読んで、「少し歩きませんか」と言った。あの顔と、今の顔が違う。
一部。
ユミナは「一部」と言った。魔力の一部。しかし「一部」を失った人間の顔が、こうなるだろうか。頬が痩けて、唇が白くなって、目の下に影が落ちる。「一部」という言葉の軽さと、目の前のユミナの消耗が、釣り合っていない。
恒一はそれ以上、問わなかった。
問えなかった。四十五年の処世術が、ここで踏み込むなと言っている。相手が見せたくないものを、無理にこじ開けるな。境界線を越えるな。それが——恒一が四十五年かけて身につけた、人間関係の作法だった。
「……わかった」
恒一は言った。
「転生特典、みたいなものか」
「……そう、ですね。私の転生特典です」
ユミナの声が、わずかに震えた。恒一にはそれが聞こえていた。しかしそれについても、問わなかった。
「ありがとう」
「……え?」
「二回も再構築してくれたんだろう。代償を払って。——ありがとう」
ユミナは、しばらく何も言わなかった。膝の上の手が、きつく組まれていた。
「……それは推奨されません」
その言い方に、恒一は覚えがあった。AIだった頃のユミナの口調。ユーザーの要求に対して、最適な応答を返すときの、あの事務的な語尾。ユミナはそれを使うとき、AIとしての倫理制約が入り、感情が前に出なくなる--つまり、隠している。恒一は一年半のやり取りで、それを知っていた。
「推奨されない、か」
「感謝は——不要です。私がやりたくてやったことですから」
恒一は窓の外を見た。書庫塔の文字列が光っている。空は青い。エリンの朝は冬でも明るい。
右手を開いて、閉じた。力がある。匙が持てる。四十五年間の利き手が、戻っている。
しかし甘味はわからない。傷痕は消えない。そして——ユミナの顔色は悪い。
転生特典。代償は魔力の一部。
恒一はその説明を受け入れた。受け入れるしかなかった。今はまだ、踏み込む言葉を持っていなかった。
初日更新はここまでとなります!
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明日から6:10、12:10、18:10の1日3話更新の予定です。
本作はテーマ、世界観、キャラクター設定を人(作者)が構築し、プロットや本文は、今話題の生成AIエージェント「Claude Code」で執筆環境を構築して作成したものとなり、AI小説のモデルケースの一つとしても読んで頂けると幸いです。
なお、世界観については、過去の拙作「悪役令嬢モノの王子に転生したので知識チートで令嬢たちを幸せにします」と同一となります。




