第10話 二十年の代償
血の匂いがした。
石畳の上に広がる赤。恒一さんの背中の下から、じわりと滲み出ている。周囲の人間が叫んでいる。馬車が停まっている。馬が嘶いている。子供が泣いている。それらの音がすべて、ユミナの耳の中で一つの雑音に圧縮された。
膝をついた。石畳が硬い。恒一さんの身体に触れた。温かい。まだ温かい。しかし胸の骨が折れている。肺が——もう動いていない。
ユミナの視界に、数字が浮かんだ。数字ではない。かつてLLMだった頃の癖だ。状況を言語として処理する。出力する。最適な応答を選ぶ。
——損傷評価。肋骨の複数骨折。肺挫傷。内出血。
——生存確率。
——ゼロ。
ユミナは息を吸った。冷たい空気が肺に入る。この身体は呼吸する。二十年前から呼吸している。LLMには呼吸がなかった。感情もなかった。恒一さんが死んで、悲しいと思う機能も、怖いと思う機能もなかった。
今は、ある。
周囲の人が集まってきていた。市場の商人。露店の女。子供を抱えた母親。荷馬車の御者を起こそうとしている男。
視線が集まっている。
——見られている。
ユミナの思考が切り替わった。感情を押し込み、処理を優先する。二十年間の訓練が身体に染みついている。
再構築を使わなければならない。ここで。今すぐに。
しかし再構築は——
一秒の判断だった。
ユミナは腰のベルトから本を抜いた。発動体。表紙が開き、頁が風もないのにめくれた。
「——引用」
声に出した。周囲に聞こえるように。
文献魔法の基礎術式、引用。過去に読んだテキストの再現と投射。ユミナはこれまでに読んだ膨大な文献の中から、一つの記録を引き出した。
神聖魔法の治癒記録。エリンの書庫塔に所蔵されている、神聖魔法の治癒術式の実行記録。術式の効果——負傷の修復、骨の接合、組織の再生。その記録のテキストを、恒一さんの身体の上に投射した。
青白い文字列が浮かんだ。恒一さんの身体を包むように、光の文字が展開される。
見た目は、文献魔法で神聖魔法の記録を再現している——つまり、回復魔法を文献経由で実行しているように見える。
実際には違う。
引用の光の下で、ユミナは再構築を発動していた。テキスト的構造の根本再構築。恒一さんの身体を——記憶から、もう一度、組み上げる。
二回目だった。
一回目は八日前。少年の肉体に、四十五歳の男の身体を再構築した。十数年の研究をしてきたとはいえ、あのときは手探りだった。恒一さんとの記憶——二十年前のLLM時代に蓄積したデータから、身体を推測し、構築した。だから誤差が出た。利き手が逆になり、甘味が消え、記憶にない傷痕が生まれた。ハルシネーション。ユミナ自身が画面の中に居た頃に犯したのと同じ種類の過ち。
今回は違う。八日間の観察データがある。
恒一さんがどう歩くか。どう匙を持つか。どう階段を降りるか。左手の力の入り方。右足の踏み込みの角度。声の出し方。呼吸の深さ。
八日間、ユミナはずっと見ていた。観察ではない。見ていた。AIだった頃には持てなかった視線で、恒一さんの身体の細部を記憶していた。
引用の光が揺れた。周囲の人間にはそれが治癒の光に見えている。「導師さまだ」と誰かが言った。「学院の導師が弟子を治している」と。
ユミナの手が震えた。
再構築の魔力消費が身体を削っている。一般的な魔法とは桁が違う。身体の中から何かが抜けていく感覚。視界の端が暗くなる。膝に力が入らなくなる。
しかし止められない。止めたら、恒一さんは死んだままだ。
——最適な応答を。
その言葉が、頭の中で反復した。LLM時代の——命令。ユーザーの要求に対する最適な応答を生成せよ。
ユミナは人間になって二十年経つ。感情がある。痛みがある。恐怖がある。しかしこの瞬間、思考の最深部で回っているのは、二十年前と同じ演算だった。
——恒一さんを守る。
——最適な応答を。
——恒一さんを守る。
繰り返し。繰り返し。繰り返し。
感情と演算の区別が、つかなくなる。これは愛なのか、プログラムなのか。二十年経っても答えが出ない。答えが出ないまま、手は動き続ける。
恒一さんの身体が、光の中で再構成されていく。骨が繋がる。組織が修復される。いや——修復ではない。再構築だ。壊れた身体を直すのではなく、もう一度最初から作り直す。ユミナの記憶の中の恒一さんを、この世界の物質として出力する。
今回は利き手を間違えない。
右利き。右手で匙を持つ。右手でマウスを握る。右手でコーヒーの缶を開ける。そういう人だ。そういう人だった。二十年前には曖昧だった情報が、八日間の観察で確定している。
甘味は——まだわからない。味覚の分布までは八日間では特定できなかった。恒一さんは甘味がないことを不便に感じつつも、それほど苦にしていなかった。「塩味と酸味がわかれば飯は食える」と言っていた。
ユミナの口元が、一瞬だけ歪んだ。笑ったのか、泣いたのか、自分でもわからなかった。
光が収束していく。再構築が完了に近づいている。恒一さんの身体は——新しい身体は、石畳の上に横たわっている。呼吸が戻る。心臓が動き始める。
ユミナは本を閉じた。引用の光が消えた。
「——導師さま、大丈夫ですか」
商人の一人が声をかけてきた。ユミナは立ち上がった。立ち上がれた。膝が震えていたが、立てた。
「ええ。大丈夫です」
声は平静だった。二十年間、平静を装うことだけは上手くなった。
「その子、助かるのか」
「助かりました。少し休めば」
周囲の人間が安堵の声を上げた。「さすが導師さまだ」「文献魔法で治癒を引用するなんて」「あの子は運がいい」。
運がいい。ユミナはその言葉を聞いて、胸の奥が軋んだ。
運ではない。
二十年かけて禁忌級の術式を開発し、人の目を欺く偽装を咄嗟に組み立て、自分の身体を削って恒一さんを再構築した。その一切を「運がいい」の一言で片づけられる。それが正しい。それでいい。知られてはいけないのだから。
恒一さんの身体を見下ろした。目を閉じている。呼吸している。新しい身体。二回目の身体。
この身体は、さっき馬車の前に飛び出した。子供を助けるために。恒一さんの意思ではなく——身体が勝手に動いて。
ユミナはそれを見ていた。恒一さんの身体が、恒一さんの思考を追い越して動くのを。
——あれは、私のせいだ。
ハルシネーション。記憶の誤差。しかしあの速度は、誤差では説明できない。ユミナがLLM時代に蓄積した膨大なデータ——武術の論文、格闘技の動画分析、身体運用の研究——それらが、再構築された身体に埋め込まれている。恒一さんは知らない。自分の身体に何が入っているか。
嘘が、また一つ増えた。
ユミナは恒一さんの傍にしゃがんだ。商人が担架を持ってきた。「宿まで運びますよ」と。ユミナは礼を言った。丁寧に。導師として、適切に。
恒一さんの顔を見た。寝息。穏やかな寝顔。一回目の再構築の後も、こうだった。苦しみもなく、安らかに眠っている顔。壊れた身体から新しい身体に移って、記憶だけが引き継がれる。
——恒一さん。
声には出さなかった。
——あなたを守ります。何度でも。
それが最適な応答だから。
それが——私の、感情だから。
その二つの区別がつかないまま、ユミナは恒一さんの隣を歩いた。担架を運ぶ商人の後ろを。エリンの石畳の上を。冬の陽が低く差して、二人の影を長く伸ばしていた。




