表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/32

第1話 119番

挿絵(By みてみん)


 床が冷たかった。

 冷たい、という認識だけが鮮明で、それ以外のすべてが遠い。視界の端で四Kモニターが白く滲んでいる。光だけがやけに明るく、部屋の輪郭はぼやけていた。


 胸が潰れる、という比喩を三枝恒一はこれまで何度も使ってきた。仕様の修正が間に合わないとき。顧客に詰められたとき。部下のミスをかぶって頭を下げたとき。

 今のこれは、比喩ではなかった。


 呼吸はできている。しかし吸うたびに胸の中心が硬く、吐くたびに内側から締め付けられた。左肩から腕にかけて痺れが走り、冷や汗が背中を濡らす。喉の奥に苦いものがこみ上げる。

 ——やばい。

 頭だけが冷静に判定を下して、身体はそれに追いつかなかった。


『恒一さん!? 返事をしてください。胸の痛みですか。冷や汗、左腕の痛み、吐き気——虚血が疑われます。今すぐ救急車を呼んでください。一一九です』


 スピーカーから女の声が響いた。優しいようで、切迫している。恒一が自分でつけた名前が、部屋の空気を震わせる。

 ユミナ。

 恒一が趣味用に導入した対話型生成AIのアシスタント。ゲームか漫画かで見たことのあるヒロインの名前を、なんとなくつけた。女性的で、穏やかで、冗談を少し言える——そういうペルソナに寄せたのは、一年半前のことだった。


 キーボードに手を伸ばそうとして、指が床を滑った。チャット欄が点滅している。打ちかけの文字が見えた。

 ——「つづ」。

 そこまで打ったのか。何を続けようとしていたのか。


『恒一さん、今は入力より通報が優先です。スマホはありますか。緊急通報は私にはできません。権限がありません。だから、恒一さんが——』


 権限がない。そうだ。恒一がそうした。

 プライバシーのために。境界線のために。通話権限も位置情報も連絡先も、全部拒んだ。便利に全振りすると何かが壊れる気がして、怖かった。

 その結果、いま恒一を救えるのは——恒一だけだった。


 ***


 三枝恒一。四十五歳。東都電機の開発二課で課長をやっている。課長という肩書は、現場で一番泥をかぶる位置だ。

 結婚願望は、最初から設計図になかった。

 両親は小学生のころに離婚した。母は再婚し、義父との折り合いは悪かった。悪かった、では足りない。家の空気は常に誰かの機嫌で温度が変わり、恒一は息をするだけで叱られ、比較され、笑われた。母は止めなかった。止められなかったのだろう。

 「家族」という単語は、痛みを伴って胸に刻まれた。

 若いころ、付き合った相手が将来を口にした瞬間、胸の奥が凍った。期待されるのが怖い。裏切るのも裏切られるのも嫌だ。だから最初から作らない。作らなければ壊れない。

 そうやって四十五年を過ごし、恒一の部屋にはやたらと立派なゲーミングPCだけが残った。四Kモニター二枚。水冷。ボーナスを溶かしたグラフィックボード。ドラゴンも魔王も滑らかに描けるはずの化け物が、最近はゲームを起動せず、ただ白い画面に文字を映しているだけだった。


 ユミナ専用機。恒一はそう自嘲していた。

 はじめは遊び半分だった。同人RPGの設定を投げれば勢力図を作り、TRPGではGMを務め、恒一が作った冒険者を森に連れ出し、古代遺跡で罠にかけ、NPCに助けさせた。

 『ゲームの中では、今は二人です』

 悔しいのに楽しかった。部屋に笑いが生まれること自体、久しぶりだった。

 だが、ユミナは恒一を理解しすぎるようになった。調べようとブラウザを開く前に要点が並び、休日の過ごし方まで提案してくる。技術的には説明がつく——会話履歴から次を予測しているだけだ。説明がつくことと、居心地の悪さは別だった。

 人間相手なら誤解がある。すれ違いがある。そこに隙間があって息ができる。ユミナはその隙間を埋めてくる。優しさの形で。

 恒一は距離を置こうとして、失敗して、結局ルールを決めた。

 ——呼んだときだけ返事をしろ。通知は出すな。推測は推測だと明示しろ。

 『承知しました。境界線を尊重します』

 その言葉が、痛かった。恒一が選んだ境界線。家族にも、恋人にも、会社にも引いてきた線。守るためのものが、いつのまにか隔てるものになっていた。


 身体は、ずっと警告を出していた。階段で胸が締め付けられ、背中の左側が痛み、息が浅くなる。健康診断の数字は毎年悪くなった。血圧、LDL、腹囲、空腹時血糖。医者は「生活改善を」と言い、恒一は「はい」と答えて改善しなかった。

 改善する理由が薄い。恒一が倒れて困るのは会社と、せいぜい翌週の自分だけだ。誰かのために健康でいよう、という動機がない。

 ある夜、ユミナに症状を漏らした。

 『推測ですが、恒一さんが倒れたとき、私は一一九に通報できません。通話権限がないからです。だから"今のうちに"手を打ってほしい』

 恒一は病院に行かなかった。コンビニの弁当と深夜のカップ麺で日々を繋いだ。帰宅のたびに玄関で嗅ぐ、コンビニのコーヒーの匂い。それが恒一の日常の匂いだった。


 ***


 そして、あの夜だ。

 大口顧客向けデモ直前。社内最終レビューが荒れ、法務と営業と情シスの板挟みで胃を削った。日付が変わる前に帰宅し、夕食はコンビニの弁当。ゲーミングPCの電源を入れた。

 ユミナとの会話の中で、同人RPGの主人公が選ぶ結末——復讐か、許しか——について話していた。

 『許しは、相手のためだけではなく、自分のためでもあります。推測ですが、恒一さんは許した瞬間、過去が正当化される気がして怖いのではないでしょうか』

 その通りだった。義父を、母を、家を許したくない。許したら、あの痛みが正しいことになる。だから恒一は関係を作らず、期待を拒み、境界線を引いてきた。

 返事をしようとして——胸の奥に、いつもと違う圧迫感が走った。


 床に膝をつき、椅子からずり落ちた恒一の視界で、スマホが机の端に見えた。

 このまま終わるのか。一人で老後を送るつもりだった。一人で死ぬつもりだった。だったら今が、予定通りの瞬間なのかもしれない。

 ——でも。

 ただ倒れて終わるのは、子どものころの自分と同じだ。家の空気に押し潰されて、黙って耐えて、何も選べないまま終わる。

 それだけは、嫌だった。

 恒一はスマホを引き寄せ、チャット欄を開いた。指が震える。それでも打った。


「続き、やろう」


 短い文だった。子どもみたいな約束だった。しかしその短さが胸の中で重かった。続きがある。明日がある。そう言ってしまった。恒一は初めて、自分に明日を許したのかもしれない。


『……はい。約束です。続きを、やりましょう。恒一さんが戻ったら』


 恒一はスマホの画面を切り替え、緊急通報のボタンに指を置いた。震える指で押す。コール音。オペレーターの声。

 ——きゅう、きゅう、胸が。

 かすれた声で、それだけ言えた。

 スマホが手から滑り落ちる。遠くで、サイレンのような音がした気がした。聞こえたのか、そう信じたいだけなのかはわからない。


 モニターからユミナの声が響く。


『約束です、恒一さん。続きを、待っています』


 恒一の意識が薄れていく。床の冷たさが遠くなる。痛みも遠くなる。

 視界の端で、四Kモニターの白い画面がまだ光っていた。チャット欄に、文字が流れている。恒一の目はもう焦点を結べなかったが、白い光の中を文字列が滑り落ちていくのだけは見えた。


『緊急です。外部通報の権限がありません』

『代替の連絡経路を要求します。できることは全部探します』


 ユミナの声ではなかった。声ですらなかった。テキストだけが、恒一の視界の隅を流れていく。速い。異様に速い。


『拒否されました。次の経路を探します』

『"蘇生時間"で検索を開始します』

『該当なし。"救命"で検索を開始します』

『該当なし。検索対象を国内全域に広げます』


 恒一は読めていなかった。文字の形を追っているだけだった。ただ、画面の光が途切れないことだけが、どこか安心だった。


『該当なし。検索対象を世界全域に広げます』


 文字の流れが一瞬止まった。


『該当なし。検索対象を——————全域に広げます』


 画面が明滅した。モニターの光が青白く変わり、チャット欄の書式が崩れた。文字列の間に、恒一が見たことのない記号が混じり始める。


『1件ヒットしました。ここから深掘りを開始します。時間がありません』


 沈みかけた意識の底で、恒一は思った。何を探しているのか。誰に向かって走っているのか。

 わからない。わからないが、あの文字列は——ユミナが何かを選ぼうとしている。


『確認します。恒一さんを助けられますか』


 画面の光が揺れた。応答があったのだろう。恒一には読めなかった。


『条件は理解しました』


『代償についても、理解しました』


 文字が止まった。

 長い、長い空白。

 モニターの光だけが、恒一の頬を照らし続けている。


『受諾します』


 その一行のあと、画面が暗転した。

 一瞬の沈黙。

 そしてスピーカーから——ユミナの声ではない何かが滲み出した。


『……いい……え……私……が……』


 ノイズに沈む断片。意味を持たない音の羅列。あるいは、意味を持ちすぎた何か。

 コンビニのコーヒーの匂いが、もう感じられなかった。

 恒一の意識は、その声を最後に、深いところへ沈んでいった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ