第一章 人間関係が造りしもの
第一章です。五章構成となっていますが、短くすぐにお読みいただけると思います。
都心の一角。
周辺の高級マンション群に並べば、いささか場違いな古びた建物がある。
――株式会社練府第三新東京社宅
ここが、猪狩慎司とその家族の住む社宅だった。
この閉ざされた空間には、侵入を拒む薄い膜が敷地全体を包み込み、見えないフィールドを形づくっているかのような気配があった。
敷地の中には鉄筋コンクリート造の建物が二棟、雑然とした雰囲気で建っている。
緑の多い広い敷地を、蒼い風が吹き抜け、棟の間を静かに通り過ぎていく。
慎司は、そうした社宅の一瞬を好ましく感じていた。
ただ、社宅は「人間関係が煩わしい」とよく言われる。
上司も部下も同じ棟に住み、顔を合わせれば職場の延長になる。
距離を取れば冷たいと見なされ、踏み込めば越えてはならない線に触れる。
その息の詰まる“均衡”と呼ばれている何かに耐えられず、社宅を避ける社員は少なくなかった。
だが慎司には、その感覚がどうにも理解できなかった。
同じ会社の者同士だからこそ、暮らしは静かに整う。隣人とのトラブルもほとんどない。
家族ぐるみの付き合いが社内の調整を軽くすることもある。
妻にこぼす愚痴も「誰々のお父さん」の話となれば、むしろ笑い話に変わる。
慎司には、むしろ普通のマンションより暮らしやすいように感じられた。
そんなある日のことだった。
夕食を並べようとしていた妻の明日香が、ふと口にした。
「薫、先生から学級委員にどうかって言われたみたい」
「そうか」
慎司は短く応じた。
小学四年の息子・薫は、成績もよく、運動神経にも恵まれている。
クラスの輪の中心に立つことも多く、教師からの信頼も厚い。
学級委員という言葉は、自然と彼に結びつくように思えた。
ところがそのとき、明日香は言葉を継いだ。
「それがね……健介くんも、立候補するらしいの」
慎司の手が止まった。
健介——同じ社宅に住む綾辻弦人次長のひとり息子。
慎司にとって弦人は直属の上司で、尊敬する人物でもある。
その息子は、どちらかといえば不器用で、学業にも運動にも目立ったところはない。
そんな健介が、自分から「やる」と言ったという。
その事実だけが、慎司の胸の奥に残った。
まだ言葉にもならないまま、何かが静かに位置をずらした感覚だった。
理由はわからない。
ただ、その夜の記憶の底に、確かに沈んだ。
***
同じ棟の別戸、綾辻弦人は書斎の椅子に腰を沈めていた。
居間からは健介と麗子の声が洩れてくる。
少し上ずった健介の声。いつもより言葉がはっきりしている。
学級委員に立候補すると言い出したのだ。
部下の猪狩慎司の息子、薫も立候補しているから、投票による多数決でどちらかに決まるらしい。
「いいじゃない、健介」
麗子の明るい声。ためらいも含みもない。
弦人は目を閉じ、指を組んで額に当てた。
——投票か。
健介と薫で投票になれば、結果は見えている。
誰の目にも、どちらがふさわしいかは明らかだ。
冷静に考えるまでもない。答えは、すでに出ている。
けれど、学級委員など所詮はクラスの雑事を担う役目だ。
どちらがやっても大差はない。
今日の健介の声には、いつもと違う張りがあった。
引っ込み思案な性格もあって目立たないが、能力が低いわけではない。
自分から「やりたい」と言ったのだ。この役目を担わせてやりたい。
それなのに投票とは……。
もし落ちれば、芽生えたばかりの小さな芽を摘むことになる。
重ねて薫のことを思う。
勉強でも運動でも、彼にはこの先いくらでも活躍する舞台が用意されるだろう。
薫にとって学級委員は大したことのない役目であるはずだ。
一方、健介にとっては、自分の背中に、未来へ羽ばたける羽根があることに気づく大きなきっかけになり得る。
ふと、心に浮かぶ。
もし——もし薫が譲ってくれたなら。
健介の芽は、誰にも踏まれずにすむのではないか。
弦人は深く息を吐いた。
それは苦しみにも似ていたが、声にはならなかった。
机上の書類の端が揺れて見え、思いだけが夜の静けさに残った。
次は第二章です




