第二章:距離の測り方を忘れた
翌週の月曜日、ホームルームが終わったあと、クラスの空気がざわついていた。
文化祭の出し物が、いよいよ正式に決定するということで、珍しく男子も女子もまじめに話し合っていた。
「で、最終候補は——カフェ、脱出ゲーム、あと屋台ね」
琴羽がホワイトボードを指しながら、実行委員の声で進行する。
いつもよりちょっと張りのある声。でも、その目線は無意識に俺の方ばかり向いていて、気のせいだと自分に言い聞かせるのがやっとだった。
「個人的にはカフェがいいと思うなー。メイド服、着たいし?」
「おおっ、賛成〜!」
「いや、それ目的かよ……」
男子たちの歓声と、女子たちの冷ややかな視線。
俺は苦笑いしながら腕を組んで、その様子を見ていた。
結果、なんとなく全体の流れで「喫茶店(和風メイド風)」に決定。
あいかわらずノリと勢いで物事が決まるのが、うちのクラスらしい。
そして、その瞬間——。
「じゃあ湊、あたしと準備係やろう」
琴羽の声が、クラス中に響いた。
「……は?」
「ちょうどペアで係分けする流れだし。あんたならサボらないでしょ?」
「俺に決定権ないの?」
「ない。多数決です。私の独断と偏見により」
ふざけたような笑顔で言うけど、その目は本気だった。
もちろん俺には、断る理由なんてない。
……あるわけない。
「……はいはい。やりますよっと」
周囲から冷やかしの声が上がった。
「おー、さすが幼なじみ〜!」「息ぴったりだな〜!」
「うっせぇ! ほっとけ!」
俺がそう叫ぶ横で、琴羽はちょっとだけうれしそうに笑った。
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その日の放課後、教室に残った数名と一緒に、備品の確認と買い出しリストの作成に取りかかっていた。
プリントを読みながら、琴羽がぽつりとつぶやく。
「……なんか、こういうの久しぶりだね」
「こういうのって?」
「ちゃんと役割持って、真面目に何か準備するの。あたしたち、あんま一緒に班とか当たんなかったじゃん?」
「あー、たしかに」
言われてみれば、いつも同じクラスだったわりには、グループで何かをやることは少なかった。
だからこそ、今この距離が、いつもより近く感じるのかもしれない。
「……でも、別に悪くないよ。こういうの」
「そっか。……俺も、まあ」
「まあ?」
「……まあ、悪くない」
どこか気まずくて、つい目を逸らす。
琴羽は笑わなかった。ただ、ほんの少しだけ、手元のメモに力を込めた。
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夕方。
準備がひと段落して、帰る頃には外が赤く染まっていた。
校門を出て、坂を下りながら、ふたり並んで歩く。
「そういえばさ」
琴羽が、不意に口を開いた。
「うちらって、周りから見たらどう見えるんだろうね」
「……またその話かよ」
「ううん、真面目に。幼なじみって、いい意味でも悪い意味でも“近すぎる”んじゃないかなって」
なんか最近、琴羽はこういうことをよく言う。
俺のことを探ってるのか、それともただの独り言なのか。わからない。
「でも、近いからこそ気づかないことってあるじゃん?」
「……そうかもな」
たとえば。
好きってことに気づくのが、遅れたとか。
あるいは、ずっと前から気づいていたけど、言えなかったとか。
そんなふうに、言いかけてやめた言葉が、俺の中に渦巻いていた。
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その夜、スマホをいじりながら布団に沈んでいると、琴羽からメッセージが届いた。
> 今日、ありがとね。
> やっぱ湊って頼れる。
たったそれだけの一文に、心臓が跳ねる。
けど俺は、既読をつけたあと、返信を打とうとしてやめた。
ベッドに寝転がったまま、天井をぼーっと見上げる。
(頼れる、か……)
琴羽が送ってきたたった一言のメッセージが、頭の中でリフレインしていた。
「好き」なんて一言も入ってない。なのに、なんでこんなにドキドキしてるんだろう。
既読スルーのままのトーク画面に、指が触れる。
何か返そうか——そう思って、またやめる。
たとえば「お前って、昔からそういうとこズルいよな」なんて。
そんなこと、送れるわけもない。
スマホを伏せたとき、ふと小さく笑い声が漏れた。
(……はは。何やってんだか)
なんて情けないんだ、俺は。
あいつの前では、平然としてるくせに。
「ただの幼なじみ」でいたいわけでもないのに。
変わるのが怖いから、変えないだけなんて、どんだけダサいんだ。
だけど——。
(今さら、変えたら戻れない気がするんだよ)
たった一言で。
たった一歩で。
“幼なじみ”っていう、長年の肩書きが崩れてしまいそうで。
それが、やっぱりまだ怖かった。
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気づけば時計の針は午前0時を過ぎていた。
窓の外に目をやると、隣の部屋の明かりも、もう落ちている。
(……琴羽)
その名前を、誰にも聞かれないように、小さく呟いた。
ほんの一言なのに、胸の奥が少し痛かった。