最終章:もう少しだけ
春の訪れを感じる頃、生徒会の活動も年度末に向けて慌ただしさを増していた。
新入生歓迎会の準備や会計処理の確認、備品の棚卸し——
本来なら生徒会だけで対応すべき仕事だが、気づけば俺は、いつの間にかそれを手伝うのも当たり前になっていた。
もちろん俺は、生徒会の正式なメンバーではない。
けれど彼女が「神谷、来い」と言うたびに、断る理由も見つからなくて——いや、断る気になれなくて。
数えきれないほどの細かい作業が積み重なっていたが、不思議と苦ではなかった。
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書類の山に埋もれながら、俺はふと隣の彼女を見る。
いつもの凛とした横顔。ペンを握る指先はいつも通り丁寧で、少しだけ力がこもっていた。
「……会長、ちょっと肩、こってません?」
ふと見た彼女の手元が、いつもより僅かに重たげに見えた。
「当然だ。年度末の決算作業が山積みだ。気も抜けん」
「ですよね。でも、詰めすぎないでください。会長が体調崩したら、誰も帳簿読めなくなりますよ」
彼女は一瞬だけペンを止め、こちらに目を向けた。
「……貴様は、時折そうやって、油断ならぬ優しさを向けてくるな」
「心外ですね。いつも優しいつもりなんですけど」
彼女の口元が、ほんのわずかに緩んだ。
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夕方、生徒会室の窓の外にオレンジ色の陽光が差し込む。
「この景色を見るのも、あと少しだな」
彼女の呟きに、俺は同じ方向を見た。
グラウンドでは部活帰りの生徒がボールを追いかけている。
その背景には満開を目前にした桜のつぼみが揺れていた。
「寂しいですか?」
「少しな。……来年度からは、この役目を後輩に譲る。 この役目を後輩に譲る。そう思うと、今のこの時間が、貴重に思える」
彼女の手元にある決裁印が、ほんのわずかに止まった。
「——だからこそ、この一年で得たものを、簡単に手放したくないと思っている」
そう言った彼女は、まっすぐに俺を見ていた。
その視線の熱に、息が止まりそうになる。
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日が傾き始めた頃、生徒会室の片付けを終えた俺たちは、並んで校舎を出た。
廊下には誰もいなかった。窓から差し込む夕陽が、床のタイルに長く影を伸ばしていた。
人気のない昇降口。靴箱の前で、彼女がふいに立ち止まる。
「神谷」
「はい」
いつになく静かな声だった。
「私はずっと、“生徒会長”として完璧であることを求められてきた。間違えないこと、揺らがないこと、弱音を吐かないこと」
彼女は、ほんの少しうつむいて続ける。
「でも、貴様と過ごして……私は“私自身”でいてもいいのだと、思えるようになった」
その声には、誇りと、少しの戸惑いと、そして確かなぬくもりが滲んでいた。
「それ、俺にとってはすごく嬉しい言葉です」
思わず言葉にしてしまった。
たぶん、笑って返すのが正解だったのかもしれない。けれど、今だけは嘘をつきたくなかった。
くるりと背を向けた彼女の耳が、ほんのりと赤くなっている。
その背中が、少しだけ戸惑っているようにも見えて、俺は目を細めた。
「私は生徒会長であり……同時に、ただのひとりの少女だ」
彼女の言葉が、まるで風に混じるように届く。
「——貴様の言葉が、私をそうさせた」
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昇降口の扉を開けると、ひんやりとした春の夕風が頬をなでた。
桜の蕾がわずかに揺れて、陽は校舎の屋根に半分沈んでいた。
彼女は靴を履き替えると、こちらを見ないまま一言だけ言った。
「神谷。また、明日も来い」
その声は、どこか背中を押すようにやさしかった。
「はい。喜んで」
俺が答えると、彼女の肩がわずかに揺れた。
それが風のせいなのか、照れ隠しなのかはわからなかったけれど——
彼女はそのまま、振り返らずに歩き出した。
少しだけ、背中がやわらかく見えた気がした。
俺はその姿を目で追いながら、ゆっくりと昇降口を出る。
彼女の歩幅より、ほんの半歩だけ遅れて歩く。
——この距離の心地よさが、もう少し続けばいいと思った。