町内運動会
この小説はフィクションです。実在の人物・団体等と一切関係ありません。また身近に酷似した事象があっても、それは偶然の一致であり、なんら取材等に基づくものではなく、登場人物の意見・見解等もエンターテインメントを目的としたものであり、誰か特定個人の意見等を代表するものではありません
私は溜息をついた。
カゴには洗濯物が積み上がっている。
ウチの洗濯機は大容量のドラム型だ。とは言っても、この量を一度には洗濯できない。いや、これからお風呂にも入る。今私が着ている服と夫の服を合わせたら、二回分を超える。二度目も洗濯機の目盛りは一・三になるに違いない。
今日は校区の運動会だった。
正直、参加したくない行事だ。
去年までは『新型コロナ』のおかげで、レクレーション活動がいろいろと『自粛』されていたのに、今年から復活した。私が班長のときに復活しなくてもいいのに……。
校区の運動会は町対抗で行われる。これには男女混合競技もあり女性の参加者が要るが、誰も出たがらない。結果、私が住む町では――他の町でも似たような状況だが――婦人会の執行部と班長に動員がかかる。町内会とは別に婦人会にも班長があるのは、こういった行事に女性を動員するためなのだ。
出ずに済むなら、出たくない。
日光こそテントで遮られるが、熱い風に一日晒され、敷物はあっても椅子が無いから、現実的には座ることも出来ない。しかもその中で、お弁当やオードブル、飲み物の世話をしなくてはならない。加えて、人数が少ない女性は、多くの競技に出ざるを得ない。
べったりと疲れて、週明けからの仕事にも差し障る。
現代は夫婦共働きが普通だし、私自身フルタイムで働いている。だから、平日にやりきれなかった家事を週末にすることになる。
普段はそれを二日に分けてしているが、それを一日でこなすのは難しい。
洗濯のように、乾くまでに時間がかかることは物理的にできない。
食材の買い物だって、値段や栄養バランス、家族の好みに合わせて献立を考えながら数件回る必要があるし、土曜日に安くなる品、日曜に安くなる品、折り込みチラシを見て買い物に行くのだ。
出たくもない競技に出て、満足に座ることも出来ないところで一日を過ごす。その後公民館で打ち上げ? そこでも女性が給仕しなくちゃならない。
頭おかしい。昭和の感覚だ。そんなの、参加したい人だけが自費でどっかの店ですれば良い。
私は所用がある体裁で、打ち上げもそこそこに帰ってきた。
しかし、一日しんどい思いをして帰宅しても、待っているのは今日できなかった家事と、積み上がった洗濯物。
私はもう一度、大きな溜息をついた。
日曜に運動会なんて、家事を全て妻に投げられる連中の思いつきだ。買い物や掃除、帰ってから食事の支度に洗い物、洗濯ものを取り込んで、たたんで、洗濯機を回して、干して……、そういったことを全て丸投げできるから、朝から日向ぼっこをして、お酒を飲んで帰るなんて企画を平気で立てられたのだ。
私は洗濯機を回し、風呂の準備をする。幸い、風呂場は掃除されている。一旦帰宅した夫が、シャワーを浴びつつ掃除してくれていたようだ。
明日のために娘の弁当のおかずを二品作る。その最中に『お風呂が沸きました』のアナウンスが操作パネルから聞こえた。
風呂に入り湯船に浸かってようやく人心地つく。至福のときだ。
髪を洗いながら、やっぱり腹が立ってくる。昭和の時代に運動会を企画した輩は、打ち上げで呑んだ後、家に帰ってから『おさんどん』なんかしないのだろう。
地域の繋がり? 世代間の親睦? そんなの要らない。
活気ある地域? 女性の参画を促す? それが嫌だからみんな来ないし、だから動員かけてるんでしょ?
みんなが背を向けて、強制された一部の人が嫌々参加する行事。
動員をかけないと成立しないレクレーション活動に何の意味が?
その所為で、婦人会自体の存続が怪しい。執行部の三役になったら、校区、地区、市町村、そして多分都道府県……、ムダな充て職もある。ヒドい町になると、町内では婦人会を存続できなくなって解散したのに、充て職のために町内の女性を当番で回しているとか。
町内の活動もできないのに、それを統括する活動をするなんて、本末転倒でしょ。
「そりゃ、こんなことしてたら、女の子は都会に出て行くでしょ」
考え始めると、腹が立ってくる。
止め止め。こんなことを考えてもロクなことが無い
風呂から上がると、夫が洗濯物を干していた。帰りが遅くなったからのご機嫌取りだろうか、こういうところは如才ない。いや、夫も役員という立場上、後始末まで参加せざるを得ず、大変なのだ。
町内会の実態は、やりたくない人にムリやり役を押しつけておいて、引き受けたんだからちゃんとやれだ。
学祭を準備から楽しんできたような陽キャなら、こういうことも楽しめるだろう。でも、私たちは見事に陰キャの夫婦。率直に言って、陽キャが牛耳る空間は苦痛でしかない。
私が手伝おうとすると「もう半分がた終わってるから、先に髪乾かせばいいよ。オレが入ったら、洗濯機もう一度回すだろ」と。
私は有り難くドライヤーをあてた。夫が何か言ったようだが、ドライヤーの音で聞こえない。すぐに聞き返すほどでもないだろう。
夫が風呂から上がったが、二度目の洗濯が終わるまでまだ間がある。二人でビールと発泡酒をあけた。つまみは、オードブルの残りを折り詰めにしたもの。
公民館から車で帰る私はもちろん、夫も飲んでいる余裕は無かったようだ。
「本っ当に、町内会って面倒くさい」
思わず愚痴が出る。
「まぁ、こんなもんだ。いずれ続けられなくなる」
どこの町でも、特に町内会長の選出が難しいらしい。引き受け手がいないのだ。
町内会長は自治体と町との窓口だ。当然、役所の営業時間中に動ける人にしか務まらない。加えて、婦人会や公民館以上に充て職があり、動員もかかる。だから誰も引き受けたがらない。
特に現在『適齢期』の世代は、高度成長期に生まれ、バブル華やかなりし時代に三十代を過ごし、氷河期時代を中堅でやり過ごせた世代。早期退職というリストラ世代でもなく、年金も逆ザヤになることなく受けられる、いろいろな意味での逃げ切り世代。
そういった世代が、町内会役員のような面倒ごとからも逃げ切ろうとしている町内や、そういった世代が出て行って世帯が減った集落の両方で、町内会の存続自体が難しくなりつつあるそうだ。
「実際、存続できるできないではなく、いつできなくなるかの段階だよ。今は『辞めるなら後任を決めてこい』って圧をかけて、それを先送りしている状態かな。
十年後は難しいし、十五年後はムリだろうね」
十五年後は、七〇年代生まれが適齢期。生涯未婚率は急上昇し、子どもを持たない世帯も多い。結果、地域との関わりやしがらみが少なくなる。
年金の逆ザヤや受給開始年齢上昇も確実視されている。当然、高齢でも働かざるを得ず、町内会長職が物理的に困難な人の割合も高くなる。少なくとも、充て職の動員に手弁当で応えられない人が多数派になる。
「それって、変えられないのかしら?」
「難しいんじゃないかな?
地区での意思統一を図るにも、最低五年ぐらいは関わることになるだろうし、それでもどこまで変えられるか……」
夫が言うには、こういったことにも『慣性の法則』がはたらくため、組織が大きいほど方向転換が難しいらしい。
この辺の集落も、小さなところから続けられなくなることが、ほぼ確定している。今は、どこの町が先にバンザイするかのチキンレース。いや、実際は最初にバンザイすることにこそ勇気が要る。
結局、ウチのように戸数が比較的に多い町は、下手に波風を立てず、どこかがバンザイするのを待ちながら、旧態依然とした活動を続けることになる。
十一月には校区の文化祭がある。私たち夫婦にはこれにも動員がかかるし、夫は前月から準備をする必要がある。
動員をかけなきゃ成立しない行事なんか、やめちゃえば良いのに。動員に応じない者に肩身が狭い思いをさせて、盛り上がってる風を装ってまで存続させる行事。
これで誰が得をするのだろう。
惰性で続けるぐらいなら、なぜ大半の人が参加しないのか、動員をかける前に考えた方がいいのに。
私は溜息をついた。
先日のニュースでの『消滅する可能性がある自治体』が話題になりました。人口動態を見る上で、社会の再生産を担う若い女性に注目した調査です。
それをうけて書いてみた短編です。
自治体のご老人たちに言わせれば『都市が若い女性を吸い取っている』なのでしょう。しかし、人口流出が激しい自治体の多くは、実際のところ、若者にとって住みにくい環境なのです。
産業が無いとか不便であることも大きいのですが、何より因習めいた不文律――濃密な人間関係を容れさせ、地域参加を強制するなど――が都市部とは比較になりません。
以前、ある自治体で転入者向けの、田舎暮らしの心構え七カ条が槍玉に上がりました。自然環境に対する心構え以外は『郷に入っては郷に従え』をより先鋭的にした内容で、客観的には『ワシらは変わるつもりが無い。入ってくるオマエらがワシらに合わせろ』と言わんばかり。
実際のところ、人口減少に直面している地域や集落の多くは、新参者――転入者や若者――に同様の掟なり不文律なりを容れることを無自覚に求め、それを容れない者は肩身が狭いことになります。
この『肩身が狭い』思いを『因果応報』と見るか一種の『排斥』と見るか。
若者が出て行く。これは一面的な見方で、若者を追い出している側面もあるのでは? という視点こそ、住民を呼び込むことや定着を促すに必要だと思います。