トマトとブロッコリー
河津ミネ様の豆本企画参加作品です。
「わ、かぼちゃだ。美味しそう!」
葉月簡子は、恋人の白川悠人の後ろから抱きつくようにして、彼の手元を覗き込んだ。
土曜日の昼、場所は悠人の住むマンションの台所。簡子は昨日が誕生日で、ちょうど三十歳になった。昨日は仕事で帰りが遅くなるのが分かっていたので、代わりに次の日に一緒に過ごしたいと伝えて今日を迎えた。
簡子のリクエストどおり、午前の早い時間から二人で映画を観た。そのあとはお気に入りの海鮮丼と、ケーキを購入して悠人の家へ。加えて悠人が唯一作ることができる料理、味噌汁を振る舞ってほしいと頼んであった。
「今日は卵と玉ねぎじゃないんだね」
小ぶりな鍋の中に、一口大のかぼちゃと薄切りの玉ねぎが浮いている。出汁の優しい香りに、簡子は頬を緩めた。
悠人は食事の優先順位が低い。はじめて簡子が悠人の家を訪れたとき、一度もコンロを使ったことがないという台所は新居のように綺麗だった。
家にいると食欲が湧かないし、料理の仕方も分からない。そんな会話をしていたら、悠人がそういえば今日はなにも食べてないなと呟いた。簡子は顔を青くした。なにか食べてと叫び、スーパーに走って、空の胃を刺激しすぎない味噌汁を作ってあげた。
その時の卵と玉ねぎの味噌汁を悠人は気に入ってくれて、時々自分でも作っているようだ。簡子が今日のように家に遊びに来ると振る舞ってくれる。毎回必ず具材は同じ。
「うん、ちょっとバリエーションをつけようと思って」
「そうなんだ。いいね!」
悠人が食事に興味を持ったのはいいことだ。簡子が嬉しくなって微笑むと、悠人は頷いてコンロの火を止めた。
*
食卓には、海鮮丼と味噌汁が並んでいる。このあとのデザートは冷蔵庫に。
「ケーキ食べ切れるかなぁ。お腹空いてごはん普通盛りにしちゃった」
いただきます、と一緒に手を合わせる。簡子はまず汁椀に手を伸ばした。簡子が去年の悠人の誕生日に贈った、電子レンジと食洗機対応の木目調のお椀だ。
一口味噌汁を口に含んで、簡子ははっと顔を上げた。
「えっ、美味しい……!」
いつもの味噌汁と、なにかが全く違う。簡子はもう一口温かい味噌汁を飲んだ。
「いつも美味しいけどこれは今まで人生で飲んだお味噌汁で一番美味しいかも!」
「ほんと?出汁を変えてみたんだ」
「出汁だけでこんなに違うの?すごい。こんなの飲んだらほかのお味噌汁飲めなくなっちゃう」
簡子は汁椀を両手で包み込んで、その温かさと香りを味わった。
「よかった。あの……明日も作ろうか?」
「えっ?」
簡子は目を見開いた。
悠人は少し気まずそうにしている。
「それって、泊まっていいってこと?」
悠人が頷いた。簡子は信じられない気持ちで悠人を見つめた。
悠人は隣に人がいると眠れないはずだ。付き合って一年目に泊まりがけで出かけないかと誘った時にその話をされた。悠人の性格なら不思議でもなく、簡子はそれなら部屋を二部屋取ろうと提案した。宿泊施設は最低限の場所にして、代わりに夕飯を二度と食べられないくらい思いっきり贅沢な店にしたらどう?と。
簡子と悠人の出会いは約五年前。簡子が担当した中途エンジニア採用のオンライン一次面接で、対面だったらきっと一度も目が合わないだろうなと思うような面接だった。
難しいかなあと思った時に、悠人は仕事のやりがいを「人に喜んでもらえること」だと言った。それが簡子が彼を合格にした理由で、一緒に働いて、恋人としても過ごした今、その言葉は面接に通過するための嘘ではなかったと知っている。
そろそろ付き合って二年になるが、簡子は悠人と同じ部屋で眠ったことは一度もない。
眠る以外の目的でこの部屋のベッドを使ったことはある。その時は夕飯を食べてから電車で帰宅した。今日は終電を気にしなくていいのかと思うと、照れと嬉しさで簡子の頬が緩む。にやけすぎている気がして、頬を手で押さえた。
「嬉しい」
簡子は悠人に微笑んだ。微笑み返してくれるかと思ったが、悠人の表情は固い。
「悠人くん、どうしたの?」
悠人は緊張した面持ちで、簡子を見つめている。
「その……明日だけじゃなくて、その次の日も、一緒にいてほしい。これから毎日味噌汁を作らせてください」
簡子は悠人の言葉を耳に入れたが、意味を理解するのに少し時間がかかった。
悠人の真剣な顔が、恋人になりたいと言ってくれたときの表情と重なる。忘年会帰りに終電を待つ駅のホームで、聞き取れないくらい小さな声で。
「それって……プロポーズ?」
口にしてから、早とちりかもしれないと不安がよぎった。簡子が緊張して悠人を見つめると、悠人はこくんと頷いた。
「うん。結婚してください」
悠人の声ははっきり聞こえた。
湧き上がった喜びで胸が痛む。簡子が返事を言葉にできず、大きく何度も頷くと、やっと悠人の表情も和らいだ。