あかの素
大学一年生の終わり頃から付き合い始めた中山路瑠は、俺から出てくる液体を『赤ちゃんの素』と呼ぶ。
路瑠は篠間出身なのでアパートを借りて一人暮らしをしているんだけど、二年生になり、ある日そこでイチャイチャしながらキスを繰り返していると路瑠の表情も段々と据わってくるもんだから満を持しておっぱいに触れてみると、抵抗もなく、むしろ受け入れ態勢が万全というふうだったのでパンツの中へも手を入れさせてもらう。嫌がられず、路瑠はむしろ良さそうにしていたため、俺は自分の得意な流れで本格的に進行させていただく。そうしてとうとう路瑠と初めてひとつになろうというとき、路瑠が甘い息を漏らしながら言う。「水瀬くん、赤ちゃんの素、出す?」
赤ちゃんの素。初めて聞いたとき、なんだ?それはと呆気に取られたが、赤ちゃんの素は赤ちゃんの素だ。俺は生で入れて外に出すつもりでいたからそれを咎められたのかと思い、「ゴム使った方がいい?」と確認する。
「ダメだよ」と怒られる。「そしたら、赤ちゃんの素、死んじゃうでしょ? 可哀想だよ」
え? なに? ちょっとよくわからなくて俺の体は反射的に萎えかける。「中に出した方がいいってこと?」
「そんなことしたら赤ちゃんが出来ちゃうかもしれないじゃない? わたし、まだ赤ちゃんは育てられないよ?」
そりゃそうだ。「じゃあどうすればいい?」
「赤ちゃんの素、出さないことってできる? 水瀬くんから出てきた赤ちゃんの素は死んじゃうから、可哀想」
「え」そんな可哀想とかってある? 「出したいんだけど」
「でも、出したら死んじゃうでしょ? 可哀想じゃない?」
「可哀想とか可哀想じゃないとかではなくない? 動物じゃないんだし」
「だけどわたしのお腹まで泳いでこようとするでしょ? それをさせないで死なすのは可哀想だよ」
「けど、路瑠は赤ちゃんが欲しいわけじゃないでしょ?」
「うん。まだ大学生だし、勉強しなくちゃいけない」路瑠は頷く。「だから、赤ちゃんの素を出さないようにできないか相談してるんだけど」
「いや、出したいんだけど」と俺はまた言う。でもこの件はさっきやった。「路瑠、赤ちゃんの素のことは気にしなくていいんだよ。世界中で毎日、たくさんの赤ちゃんの素が死んでるんだから」
「それは仕方ないことだと思うよ」と路瑠は認めるが、引き下がらない。「わたしは、水瀬くんの赤ちゃんの素の心配をしてるの。わたしが大好きな人の赤ちゃんの素を死なせたくない」
「……でも俺、いま出せなかったら、あとで一人になったとき、路瑠とのことを思い出して自主的に出しちゃうと思う」
「ダメ!」
「ダメって……」俺は弱る。「ねえ、路瑠。男は、出してるときが一番気持ちいいの。だから俺も路瑠としながら出したいよ。嫌?」
「でも赤ちゃんの素が可哀想なんだもん」
路瑠は可愛くておっとりしていて優しくて、おまけに勉強もできて、非の打ち所のない女の子だったが、ここでこんな得体の知れない頑固さを発揮してくるとは思わなかった。
そんなエピソードを、高校時代からの友人である近藤理枝里と二人で宅飲みしているときに思い出し、話してみる。俺はアルコールが苦手なのでエナジードリンクを飲んでなんとなく気分に浸っていたのだが、近藤の部屋のミニテーブルの上に『味の素』の瓶が置いてあるのを見つけ、赤ちゃんの素を連想する。近藤はなんにでも味の素をかけて食べる。
そのとき近藤はちょうどピザを食べていて「生々しい話ししないでくれる? ピザが不味くなるんだけど」と笑いながら非難してくる。
「生々しいかな?」面白いと思って話したんだが。
だけどやっぱり面白かったらしく、近藤は酎ハイでピザを流し込み「けっきょく出してないの?赤ちゃんの素」と笑顔で訊いてくる。
「出してないよ。出すなって言いつけられるし、出したら怒られるだろうし」
「可哀想~」と言いながらも近藤はずっと笑顔。「それこそ可哀想だね」
「赤ちゃんの素よりも俺の方が可哀想じゃない?」
「可哀想。で、家帰ってから出したの?」
「出してないよ」と俺は大袈裟に首を振る。「路瑠が『絶対に出したらダメ』って言うからさ」
「でも言うこと聞いてるんだ? 偉いじゃん」
「可愛い彼女だしね」
「偉。じゃあそれから全然出してないんだね。やばくない?」
二週間くらいか。「きつい。もう仙人になりそうなんだけど」
「早い早い。仙人になるにはまだ早い」と近藤は手を叩いて笑い、そのままの勢いで言う。「私が手でしてあげようか?」
「マジで?」
「手だよ? 手でするだけ。私も彼氏いるし」
「お願いします」っつって、部屋の電気を消して手でしてもらっていたのに、してもらっている最中に俺が近藤に触れたら手だけじゃ済まなくなった。彼氏持ちの女友達としてしまった。メチャメチャ興奮した。
「絶対誰にも言わないでね?」って近藤に念を押され、なんかそのときに、うわー近藤も女の子なんじゃんって改めて思った。もちろん誰にも言わない。
だけど俺が愛しているのは路瑠で、路瑠とこそちゃんと最後までやりたい。路瑠はズルくて、赤ちゃんの素を出すなと俺に言いながらも、好奇心や欲求は当たり前に持ち合わせており、俺とイチャイチャして気持ちよくなりたがっている。いや、ズルいというか、路瑠は女の子だから男の快感についての理解が乏しいんだろう。出すことと出さないことに天地の差があるなんて想像できないのだ。
ある夜に、俺はもう一度言う。「路瑠。赤ちゃんの素は今も死んで生まれてを繰り返してるんだよ」
「世界中の赤ちゃんの素がでしょ?」と路瑠は手慣れたふうに返してくる。「わたしが守りたいのは、水瀬くんの赤ちゃんの素だけだから」
「俺のだって、出されなかった赤ちゃんの素は俺の中で年老いて、死んで、また新しい別の赤ちゃんの素と入れ替わるんだよ。だから出しても出さなくてもいっしょなんだ」
「水瀬くんの内側だけでの話なら、それはそれで寿命ってことだから、いいと思うんだ。でも外に出てきた赤ちゃんの素は無駄死にでしょ?」
「……じゃあ路瑠、俺の赤ちゃんの素、飲んでよ。外で死んじゃうと可哀想だけど、路瑠に飲まれてお腹に収まるなら赤ちゃんの素も本望じゃない?」
「無理だよ。可哀想でできない。だって、それってわたしが殺してることにならない?」
「でも、どうせ死ぬんだし……」
「どうせなんて言わないでよ」
「えぇ……」どうすればいいんだ。
「水瀬くん、赤ちゃんの素、我慢できるでしょ?」
「我慢は……できないけど、無理矢理してるんだよ?これ」
「我慢してあげてよ。頑張って」
「いや……なかなか辛いんだけど」
路瑠と別れるという選択肢が常時浮上していた。そんな、赤ちゃんの素にばかりこだわって俺自身のことを考えてくれないんじゃ続けていけないよと思った。たかが肉体関係なんぞのことで……と思われるかもしれないが、そこを思いやれないということがいずれ必ず別の問題の呼び水になる気が俺はしている。まあ路瑠と繋がって路瑠といっしょに満足できないことへのストレスも普通に根本的にある。でも。でも、路瑠はマジでいい子なので、そこさえ解決できれば俺達は絶対に上手くいくという確信も同時にある。そこだけなのだ。路瑠の、赤ちゃんの素への謎のこだわりだけ。そんなわけのわからない理由で路瑠を手放したくないってのが正直なところだ。
また俺の中に無駄な赤ちゃんの素が溜まり始め、だけどシラフのテンションで近藤に何かを頼むこともできず、俺はけっきょく寝ている間に漏らしてしまい、朝、臭く粘ったパンツに気付いて悲しくなる。俺は実家暮らしなので汚いパンツは誰にもバレないようこそこそ手洗いするしかない。
もう限界かもしれないとあきらめかけた頃、路瑠が突然「水瀬くん、出してもいいよ」と言ってくれる。
俺は「ホントに!?」と歓喜しながらも同時に不安に襲われる。「もしかして路瑠、俺のことあんまり好きじゃなくなってきた? 飽きてきた?」
「え、なんで?」
「だって、俺の赤ちゃんの素を守りたかったのって、俺のことが大好きだからなんでしょ?」
たしかそう言ってた。大好きな人の赤ちゃんの素だから死なせたくないって。
「ああ……まあね。そうだよ」路瑠は苦笑する。「水瀬くんのことは変わらずずっと好きだよ。ただ、赤ちゃんの素はもういいかなって」
「……それはなんで?」逆に気になる。
「なんでって言われても、あんまり気にならなくなった」と路瑠はシンプルすぎる。「わたしも大人になったのかな?」
「大人なのか……?」
「赤ちゃんの素に対して、可哀想とかってないよね。たしかに」
「……それは俺が最初に言ったじゃん」
「そうだね。水瀬くんが最初から正しかった。ふしし」と路瑠は子供みたいに照れ臭そうに笑う。
「なんだよそれ」と俺も笑うしかない。
「水瀬くん、赤ちゃんの素、これからは気にしないで出してね? 今までわがままばっかり言ってごめん。聞いてくれてありがとう」
「…………」一度だけ、近藤が俺の赤ちゃんの素を死なせたが、それは黙っておくべきだろう。一度っていうか、三回か。あのときは一晩で三回出た。でももう路瑠でしか出さない。絶対。誓って。「いいよ。俺もごめん。ごめんなさい」
「どうして『ごめん』?」
「いや……路瑠が厳しいから、路瑠に対して、くそうって思っちゃったから」
「えー? あはは」
「だからごめん」
「ううん」
「好きだよ」
「わたしも大好き!」
危ない。路瑠と別れなくてよかった……と俺は自分の判断に胸を撫で下ろす。路瑠はほぼほぼすべてが完璧な可愛い女の子で、赤ちゃんの素のことだけがネックだったが、それもとうとう解消され、俺は幸せでいっぱいになる。
ただ、路瑠はもう赤ちゃんの素のことなんてどうでもよくなったみたいだけど、俺の方が調教されてしまったんだろうか、事後、お腹にかかった赤ちゃんの素を路瑠が無情にもティッシュで拭き取るときなんかに、思わず「あっ……」などと声を出してしまったりする。可哀想? 可哀想ではないが、なんとなくだ。