第92話 気遣いの女/苦渋の男
―前線都市郊外
「クララさん、約束通りあなたに自由を与えます」
「えっ」
タクロに連れられ引きつったままの表情の彼女だが、沈んだその目に生気の光が差した。
「最後の仕事の遂行を条件に」
「それは……私の心を操った上での話でしょう?」
「無論ですとも」
「……非道な」
その整った顔が俯いて呟いたセリフは私への非難。
「おや、もしかして今、あなたの心は自由であるとでも考えているのですか?それは思い違いというもの。あなたの心は私の思うままなのですよ、すでにね」
「……そんなことは……
「まあどうでもよいことです」
ない……」
だからこそ、この娘を太子への情報操作の道具として有効とした、立案者タクロの目の付け所は鋭い。
「繰り返しますが、私は約束を守る人間です。さらに言えば、その履行がこの時期になったこと、これは先般の参事官殿の問いに対するあなたへの褒美なのですよ」
それがたとえ蛮斧人の言い成りになることを良しとしないという気概によるものだとしても。と、ここでタクロが横から口を出してくる。
「というわけで宰相閣下はお前の働きに満足したっつーわけさ」
「……黙れ」
「んだと?おいおい、おれだって慈悲を与える側なんだぜ!蛮斧的文書の上に残っていたお前の組織犯罪準備の罪、前軍司令官暗殺未遂の罪、スパイの罪についてはおれが削除してやるんだ。書類に残っていない要人暗殺未遂の罪も忘れてやるよ、よかったな。河の向こう側でしくじったって、これでいつでも蛮斧世界に亡命できるぜ」
「だ、誰がそんなことを……!」
「まあスタッドマウアーに会わなきゃこっちの世界で安穏優雅に暮らせるさ。なんてったってお前は女っぷりだけは……ぐへへへ、抜群だからなあじゅるじゅる」
「タクロ君」
「はい」
「いずれにせよあなたは北へ向かい、参事官殿は南にいる。もう二度と会うこともないでしょう」
憔悴しても憮然とした誇りは失っていないクララの心を覗いてみる……そこには安堵と希望があるものの、屈辱感の上で揺れている。自分自身の価値や尊厳が私に掌握されているため、それが拭えないのだろう。この複雑な感情の中で、彼女が自己肯定感を再構築し、自身の存在意義を見出す役に、太子はなるだろうか?私の知る限り、あの性格では、まず無理だろう。
「へへ、ふへへへ。まあ、なんというか、達者でな」
不敵に嗤う下品なタクロを一睨みし、彼女は祖国へ向けて足を踏み出した。
「クララさん」
「……は、はい?」
仕込みはこのタイミングだ。
「太子にあったら伝えなさい。大望を抱くのならば、機会が訪れるまで耐え、正しい時に一気に行動するようにと」
「……」
「では、お元気で」
クララはこちらを一度も振り向かず、この町を去って行った。私を殺す、という目的を達すること無く。姿が見えなくなると、タクロが口を開いた。
「そういやあの女、インエクで操らなかったんですかい?」
「いえ、用いています」
「ホント?そんな感じしなかったぜ」
「魔術との組み合わせで応用中です」
女宰相殿なら当然だよなあ。
「じゃあやっぱ、光曜の太子には、あの女の口からおれの要求が伝わる……?」
「ええ、確実に」
「おれと閣下の秘密の関係がバレるんじゃあ?」
思わずちょっとドキドキする。が、彼女が操るボディはマジ口調のままだ。
「私とあなたの共闘関係について、既に状況から太子は察していますよ。先のテロリストたちからも伝わっているでしょうし、遅かれ早かれですね」
「え、マジですか」
「?」
トサカ頭が小さく首を傾げた……ちくしょうめ。殺意よりも哀れみが湧いてくるぜ。もじゃもじゃ髭の下の口が動く。
「この体は眠らせています。タクロ君、遠慮はいらないわ」
「あーええと、あの魔術テロの犯人と太子は繋がってん……すよね、やっぱ」
「確実に」
「やれやれ。じゃあ、おれにとって太子は紛うこと無き敵ってわけだ。腕が鳴るなあ」
―前線都市大通り
郊外から戻り、都市を歩く。新しい戦いが近いというのに、この都市はちっとも重々しい沈黙に包まれていないし、空には暗雲も立ち込めていない。まだ一部の戦士しか知らないためだが……陽は強く差し、快適な気候の中、何もかもが祝祭ムードだ。このおれ様のおかげで。
その裏で、南から凶悪な連中が北上してくるのだ。これをタイミング良く伝えにゃならんのだろうなあ、政治的に。政治?めんどくせえ。
隣を歩くトサカ頭……を乗っ取っている女宰相がこの期に及んでおれを支援しないということはあるまいし、これも相談するっきゃない。
「暗殺女のヤツ、ちゃんと光曜の王都まで戻れますかね」
「霧で光曜境の通過が困難なこの状況下では、千年河沿いの山地を越えて戻るしかありませんが、彼女の身体能力ならば問題ないでしょう」
「ああ、あの厳しめの道」
かつて蛮斧も狙った道だが険しく、成功したことは無いらしい。
「山地を越えたら大農場ですから、守りも重厚です。クララはすぐに保護されますよ」
「そして王都に護送され、太子に会って、おれの提案と閣下からの言づけが伝わって……」
その結果次第で、この都市の運命も決まる。光曜勢が深蛮斧勢とぶつかって、どちらも消えてくれたら狙い通り、最高の結果となる。しかし、もし!しくじったら……どうなる?おれは殺されるような気が……背筋が冷たくなる。
「誰か同情してくれないかなあ」
「?」
おれの憂鬱など誰も知らない。これが権力者の孤独ってヤツか。
大通りは無礼講騒ぎの声でいっぱい、連中は楽しそうだ。庁舎前広場の中央にはキャンプファイヤーが燃え盛っている。取り囲むようにして住民が集まり、幾重にも並べられたテーブルには豪華な食事が並べられ、酒池肉林が展開されている。酒と肉が焼ける匂いがたまらないぜ。
「すごい量……ですね」
「なに、この都市の連中は簡単に食いきりますよ」
「食糧物資は大丈夫ですか?」
「補給隊長に周辺から食料を運びこめと指示してあります。戦勝のお祭り騒ぎを理由にね」
「資金はまだありましたね」
「ええ。たっぷり使って、それでも翼人のおかげでまだ余裕はありますが」
「深蛮斧勢がこの町に近づけば、食糧の売主たちも都市内に避難してくるでしょうね」
「受入はできないすけどね、籠城戦になるから。拒否します」
こんなことはやりたくないが、仕方ない。
「では周辺住民の安全は運命に委ねると?」
「外の連中は、東の森の中にでも疎開させようかと思ってます」
「大人しく従ってくれますか?」
「まあ、光曜と違って半猟半農なのが我ら蛮斧の美点ですから、命がかかってるとなりゃ、まあこだわらんでしょ」
「フフフ」
「?」
「都市生活者のあなたが自信たっぷりにそう言うと、なんとも妙な感じですね、フフフ」
そんな笑うとこでもあるまいに。
「閣下、おれは蛮斧の中じゃ文化的な方なんですからね」
「そうでしたねフフフ……ともかく、周辺住民の安全は、戦後のあなたの評判にも関わってきます」
「戦後があればね」
「そう懐疑的なら期待してもいいでしょう。疎開の統率は信頼できる人に任せる必要がありそうですね」
「そうすねえ。スタッドマウアー……は操作中だから、帰ってきたらヘルツリヒにやってもらうか」
ナチュアリヒもエルリヒもブチこんじまっている今、あいつは本当に頼りになる。
「だいぶ彼を重宝しているようですが、彼、疲労が溜っているのでは?」
「何、蛮斧男がこれくらいで弱音を吐くことはないすよ」
「確か、結婚が近いとか」
「そうそう」
「プライベートでも忙しいのなら、ここはあなたの秘書をしている、あの無口な彼が良いのではと思いますが」
「へえ、アイツすか。それは?」
「あなたの秘書として民生の経験があるし、ここまで上手にやっているでしょう?」
「うん……確かに」
無口君に対する女宰相殿の評価は高いようだ。色々見てるなあ。
「だけど、ヤツには別の仕事を与えるつもりでいるんすよ」
「というと?」
「庁舎、というか含めた都市の民生の責任者、的な?」
「あなたの次の庁舎隊長に任命するということ?」
「いや、それっぽいのはヘルツリヒにします」
「では、あなたは軍司令官として本格的に統括を始めるということ?」
「ええ、この都市の軍勢の形を変えます」
深蛮斧と光曜が同士討ちしなかった場合の保険を用意しなきゃ、おれ殺されるかもしんないしなあ。
「その理由を聞いても?」
「ウチって頭数が少ないのに縦割りで意地の突っ張り合いしてるのが最大の欠点じゃないですか。だから庁舎隊、出撃隊、巡回隊、城壁隊、補給隊を全部闇鍋式に溶かして、そこから新造部隊を取り出すんですよ」
「庁舎隊も含めるのですか」
「じゃなきゃみんな納得しないだろうしなあ」
おれ子飼の戦士どもが誰かに譲渡解散消滅となりはしないか、彼女は心配しているようだ。トサカ頭が微かに揺れている。
「大丈夫ですよ。軍司令官にもサブを置いて、それをヘルツリヒに任せるつもりなので。要所は庁舎隊の人脈で数珠つなぎにしますから」
「しかし……敵が迫って来ている中での大改革、反発を買うのは危険かもしれませんよ?」
「それを防ぐためのこのお祭り騒ぎでもありますし、大再編成の理由もちゃんと説明しますよ。深蛮斧と戦うためってね。まあそれをしながらも、城壁隊の連中は別に鍛えなおさにゃならんですが」
「人事は組織の要、あなたが熟慮した結果なら私に異存はありません」
軍勢の編成についてはおれは専門家、と言えるかもだ、女宰相殿より。それに無駄なく、良く働かせるにはこれっきゃないんだ。
「タクロ君」
「はい」
「あなたを見ている人がいるようですね」
「えっ」
トサカ頭の視線の先には、
「おっと」
きれいな赤毛といつもの雰囲気が。ん?きれいな?
「彼女、本当に綺麗になりましたね」
「きれいっていうか、いや……痩せすぎでしょ、やっぱり病気じゃないかな……」
「タクロ君、軍司令官になってから、彼女と会ってますか?」
「そんな暇ありますかって……いやあの、閣下、別におれはあいつと付き合ってるわけじゃないんですが」
「それでもまあ、なんにせよ」
おれに背を向けて庁舎方面へ去っていくトサカ頭がまた少し揺れた。
「大きな戦いの前なのです。旧友は温めるのは良い事です。今日は無礼講なのでしょう。都市の安全には私が目を光らせていますから」
「いや、あの、ちょっと、ねえ!」
閣下の操りトサカが離れていくのとともに、女宰相殿の気配が消えた。どうやら余計な気を回されたようだ……ま、いっか。
「よう!」
「あ……」【黄】
ご機嫌なのに、何やら遠慮がち……どころかあっちからこっちへは来ない。しかたなくこっちからあっちへ行く。なんだか周囲の視線が集まっている気がする。おれが権力者様だからっていうより、野郎どもの視線の先は……
「タクロ」【黄】
「うーむ、超痩せたな、やっぱり病気か?」
「もう、病気じゃないってば」
痩せたと言ってもまあ、出るところは出ている。実は健康的なのかもしれない。それにしてもコイツ、
「元気ねえなあ、おれさまに気後れしてんのかあ?」
「そりゃそうだよ……いきなり軍司令官様だもん」
「おいおい、マジか」
「大きな戦いに勝ってこのお祭り騒ぎなんだし」
「おれが手の届かない所に行っちまったって?」
「そ、そこまでは……いや、うん。そうかも」
「まあ幼馴染の誼、料理をどんどん供出してくれ。お前の店にはたっぷりカネ払うからさ」
「もう、最高権力者様がそんなことしちゃダメでしょ」
「大丈夫大丈夫、カネも食料も唸ってっから」
「そ、そんなに」
「戦いに勝てばこんなもんよ」
「タクロ、凄いね」
「何が?」
「なんと言うか、ちゃんと蛮斧男の人生を歩いてるというか。あんたに比べたら私は……」
「だからこれまでのツケの利息も含めてカネを払うからさ、ちゃんと請求しろよ?おれ宛で、庁舎の無口野郎に言えばいいからさ」
「秘書の人だよね。えっと、ゾルクフェルティヒさんだっけ」
「あいつそんな名前だっけ?」
「なんで覚えてないの」
「無口君で十分だからだよ、それはともかく、酒と飯と肉が食べたい、あるか?」
「もちろん、上等なのがね」【黄】
相変わらず明日も忙しいし、閣下の目配せもある。今日はたらふく食って飲むか!
「憂さ晴らしだ!よっしゃあ行くぜ、ツケでいいよなあ」
「ま、権力者相手ならとりっぱぐれないしね」【黄】
「それより体調悪けりゃ、良い目利き紹介するぞ」
「しつこいなあ、体調も好調だよ……というか、やっぱり気になるの?」
「あの巨体が見る影もないからなあ。でも乳は張ってるように見えるぜ!」
「はい、はい」【黄】
「生理か?」
「……」【青】
―城壁隊兵舎
翌日、朝。赤毛の幼馴染の店を出て、足早に城壁隊庁舎方面へ向かっていくタクロの姿をカラスが捉えた。不意に小走りから駆け足になり、勢いよく跳躍すると城壁隊庁舎の扉を蹴り破った。
ドガッ!
「イヌども!全員整列しろ!」
「ぐ、軍司令官」
「もう日は昇ってるぜ!臆病者の童貞集団は集まることもできねえのか!寝ながらマス掻いてんのか!とっとと起きやがれ!」
タクロにしては珍しく激怒しながら、城壁隊員らを睨み付け、当たるを幸い蹴り飛ばしながら整列を命じている。
「ガキども、これは何の茶番だ?お前らは蛮斧の誇り高き戦士のはずだったな!」
「……」
「どうなんだ!」
「は、はい!その通りで」
「嘘つけ!今ここにいるのはただのゴミだ!ゴミゴミ!これがお前らの真の姿だ!こんな家畜にも劣る脚で戦場に立つつもりかよ!そんな腑抜けた態度で人間様だって言えんのかよ!おいそこのお前!」
昨日飲み過ぎたのか、青い顔をした一人に近づき、鼻を動かすとさらに怒鳴る。
「あっ、てんめえ……酒が抜けてねえな、おい!おいおいおい!自分が一体何してんのか分かってんのか!これはクズそのものだ!貴様はイヌ以下、イヌのクソの中の寄生虫だ!軍紀を守る決意も戦う意志も見えねえ!訓練する覚悟も見えねえ!こんなゴミ虫が戦場に出りゃ、辺りは一瞬でゲロまみれ、敵に踏みにじられるだけだ!」
「あ、あんたが無礼講だって言ったから俺たち……」
「やかましい!」
「ぐわっ!」
二日酔いの男を投げ飛ばしたタクロ。派手な受け身失敗が凄い音を響かせ、誰もが目を見開き、整列を急ぐ。さらに声を張り上げている。
「全員、聞け!おれ様は三代目城壁隊長であり……同時に軍司令官だ!閣下と呼べ!閣下と呼ばない奴は斬る!おれは貴様らの敵だ!親でも友でもない!おれの仕事はお前らのようなマス掻きイヌを蛮斧最強の魔獣にすることだ!そのためには、誰一人として甘やかすつもりはない!これからの訓練でお前らが泣き喚こうが、倒れようが、容赦しねえ!マス掻き捨てイヌどもの甘えた心臓を停止させてやる!そのためには何だってするぞ!」
「し、しかし戦いには勝ってふぐっ!」
なんとタクロは、発言をした男の睾丸を掴んだ。一切の予告なく。
ぎううう
「ふぐーっ!」
悲鳴が響く。
「お前らは人間じゃねえ!イヌだ!イヌの怠慢は以後許さん!今すぐここで覚悟を決めろ!これからの訓練では、お前らの限界を超えさせてやるからおれに感謝しろ!肉体も精神もボロボロになるまで追い込む。それこそが真の蛮斧戦士になるための唯一の道!拒否すれば今、ここで、このまま去勢する!」
ぎううう!
「ふ、ふぐっ!うっ、おええええ!」
悲鳴の後、その男は激しく嘔吐した。タクロは、それが潰れる寸前でコントロールしているようだが。
「おれはお前たちを信じていない!怠惰!怠慢!無精!不精!惰性!無為!無気力!そんなイヌどもである貴様ら自身が証明するんだ。人間であると、いや人間かもしれないと!今これから河岸へ向かう!目を覚ませ!もうマス掻きは許さん!掻いたヤツは男の印を切り落とす!」
城壁隊の全員が真っ青になる。
「おれは嘘は言わねえぞ!嘘は嫌いだからだ!だから貴様ら全力を尽くせ!蛮斧の誇りにかけて戦う覚悟を見せろ!それが出来ねえってなら、この場でお前ら全員を見捨ててやる!これは軍司令官の全権限をフル稼働させてそうしてやる!」
タクロがその股間から手を離すと、男は力なく崩れ落ちた。次いで隣の男を指さして、
「おい、おれは誰だ!言え!」
「ひっ!」
「どうやらおれの話を聞いてなかったらしいな!」
と斧を振りかぶる。男は絶叫し
「閣下!タクロ……軍司令官閣下!ぎえっ!」
男の足の際に斧刃を叩きつけた。その時は、被害者を除き、城壁隊の全員が整列を終えていた。
「これが最後の警告だ!マス掻きを卒業しろ!死ぬ気で鍛えろ!できなきゃ城壁隊は全員懲戒解雇だ!この都市に居場所はねえ!デバッゲンと共にあの世へ行け!おら、全員、今すぐ動け!これからが本当の地獄だ!行け!行くんだよ!走れイヌども!遅れたヤツはワンワンワン以外の発言を許さん!絶対に許さんからな!」
このように、タクロの城壁隊の再訓練は騒々しく始まり、私は愉快な気持ちになった。