第47話 気迫の女/踏んだり蹴ったりの男
判断の分かれ目とは、一瞬の内に決されることも、躊躇と怯懦の狭間に漂うこともあるようだ。良い歳をした己の半端さに、嗤いすらこみ上げてくる。
壁に拳を突き、額を抑えて呻き続けていたアリアが、その音で震えた。
「今の音……お、落ちたのでは!?この高さで!ああ、ど、どうしたら……マリス様、私はどうしたら……ク、クララさん?あなた独り……軍司令官はどうしたのですか!……無視しないで、私が聞いているのです!ど、何処へ行く、待て!止まれ!私の話を……くっ!」
捕虜の部屋の戸締りもせず、クララとアリアは退出した。クララは軍司令官の術により、アリアは混乱の内に。こんなものは全て、背景でしかない。ウビキトゥの回収に急がねば。
彼が俯いていたら?瞼を閉じていたら?それもこれも些細なこと。軍司令官の目を抉ってでも、手中に収めてみせる。
ふと、おれは意識を取り戻した。何処かを落下している。さらに軍司令官がしがみついてて、笑える変顔で何かを叫んでいた。
「受け身を!受け身を!」
何のことかさっぱりワカらないが、この内臓が浮かぶ感覚。今、落下中であるようだ。受け身ってそのことか、それよりおれはどこから落下しているんだっけ。手に残る感触から、確か、塔の上でクララの身体を揉みしだいていたのだが。手、手、手。手を見ると、軍司令官の手と裂けたハンケチで繋がれていた。下を向くとすぐそこに地面が迫っていた。あ、こりゃダメだ。
落下時は受け身より、地を蹴るのがよいらしいが、軍司令官のヤツめ、おれの上で衝撃を和らげるつもりでもがいている。
色々考えたが、地面まで一瞬だった。どう落下したか思い出せないが、ともかく衝突の瞬間、下から強い風が吹いた。
身体中の痛みや痺れで動けないが、骨は飛び出していない。あの風、女宰相が熾したものが、ギリギリ命を救ったのだろうが、もっと速く助けてくれればいいのに。
手はまだハンケチで結ばれている。ということは軍司令官は……
「ー」
口から力なく舌が垂れている。白目も剥いている。というか、ほぼ全裸の酷い格好で、股間が丸出しになっていた。一体何があったのだろうか。追い剥ぎにあって世を儚んで自殺したような姿。これは死んじまったか?何とか胸の辺りに手を持っていく。
トゥんク
まあ生きてるか。なら良かったんじゃないってことか。布をずらして股間を隠してやるのは戦士の情けであるし、丸出し野郎と一緒にいるのは気色が悪い。
あとは、コイツの能力の謎を、女宰相と暗殺女が解き明かすことができたかどうか……クソ、最近酷い目に遭ってばっかりだ。原因は明白で、どれもこれも全て、あの女の色香におれが迷ってしまっているためだ。どうしたもんかな……庁舎の女でも良いからやりたい放題騙くらかしてお手つきにして、残酷に捨てて憂さ晴らしでもしてくれようか。それでこの国に居られなくなったら、光曜にでも亡命すればいい。というか、このクソ軍司令官、死んでいてくれれば色々良かったんじゃないか?
塔の真下、この落下現場には、まだ誰も来る気配はない。首を絞めるチャンスかもしれない。ならばよし、さらに手を伸ばせ、首をへし折ってやる……と心を固くした時、虫が素早くおれの目の前を通過した。そして、軍司令官の右瞼の辺りで滞空したかと思うと、
「あっ」
眼の中から何かを奪って飛び去っていった。というか、虫並みに小さい鳥だった。あれなんて言ったかな?ともかく、鳥が人間にここまで近づいてくることはなく、鳥といえば女宰相。どうやら彼女は、何かの収穫を得たようだ。こりゃ、成功報酬を要求しないとな。
というわけで一息付く。周りは静かだ。庁舎の付近には人の気配が余り無い。というよりも、建物から落ちたというのに、誰も助けに来てくれないというのも如何なものか。
ようやく駆け寄ってくる音。首を動かしてみてみると、憤怒顔の突撃クソ女だった。かつてない、凄まじい憤怒顔である。
「閣下!軍司令官閣下!」
絶叫も、気絶している相手から返事は得られない。突撃クソ女はすでに涙を目に浮かべており、ほぼ全裸の軍司令官に自身のマントを纏わせ、縋り付く。股間の布が、空を舞った。なんとも哀れな場面に、平安を与えてやらねば。
「し、心臓は動いている。多分大丈夫だから」
「貴様!」【黒】
ピシ!
痛!いきなりビンタされた。何しやがると反論する元気も無いのだが、
パン!
グッ
バシ!
痛!痛!さらに追撃された。
「おいおい」
グシャッ
痛え!顔面を踏みつけられた。は、反撃できない。そして女と言えども、靴から良い香りはしない。ちっとも嬉しくない倒錯プレイだ。さらにグリグリ踏みつけられる。鼻がもげるぅ。
「貴様など死ねば良かったんだ!」【黒】
そ、そこまで言うかこの女。
「こともあろうに私のハンケチで……閣下を引っ張り落とすとは!」【黒】
そう言えば、この女がおれの頭を割った時にゲットしたハンケチだったか。しかし、
「おれがやったんじゃねえや!」
「黙れ!庁舎隊長タクロ、私は貴様を……」【黒】
視線で人を死なせることができるかもしれないほどに鋭い目つきで見下す女。どうせこんな時、許さないって言うんだけなんだよなあ。
「許さない……!」【黒】
ほら見ろ。ああもう、本当にやってられねえ。しかし、この女とは前から険悪だったから、まあ別にいいかな。
だが、やられっぱなしのおれではない。歯は残っているのだ。女の足に噛みついてやる。
「あう!」
さすがに革靴を噛み切ることはできないが、恐怖したろう。ふっふっふっ。足は外れたが、こちらを睨み続ける女。
ああ、なんだか疲れた。どっと眠気が襲ってきた。突撃クソ女の憎悪の視線の向こう側に、顔は見えないが駆け寄ってくる下女の姿が見えた気がした。頼む、おれを休ませて……。その女は何も言わずに、あるいは何か言ってるのかもしれないが、おれを介抱しようとしている。触れた白い手にセクシーなホクロがある。ちょっとラッキーだったり……。
ウビキトゥも手にした。タクロの命も救った。ついでに軍司令官の命も。突発的な作戦だったが、上首尾である。物事が上手く行くと、私も感情から嬉しさを抑えなければならないほど、昂る。
小さく愛らしいハチドリを労い目的物を受領、解放、早速、研究、実施。ああ!私はときめいた。
それは小さく透明なガラス様の膜であった。かつて、陽の光を集めて火を着ける時に使用されていたレンズに似てもいる。ガラスのような素材だがそこまで硬くは無く、むしろ弾力もある。軍司令官はこれを常時右眼に装備していたということか。
魔術で識別するまでもなく、軍司令官の体液が付着している。このウビキトゥ、自ら付けねば機能はワカるまいが、私は潔癖な人間である。この汚れ、空中の水分を集めて包み、空気を振るわせて汚れを落としてみる。良し。本当だろうか?まだ体内に入れるには、どこか抵抗があった。
が、触れているとウビキトゥが起動していることが、チカチカ光ることからもワカる。指で挟めば光り、外せば止む。明らかに私の体温を原動力としている。これは驚異的な技術である。
食指と中指の間に挟む。そして覗き見る。風景は変わらないが、古代文字が浮かんでいる。私の心はときめいた。
『通常動作』
設定
このように読める。文字は浮かんでいるだけ。「通常動作」の文字に枠がある。さらに覗き込み、眼球に近づける。変わりなし。やはり、目に取り付けねばならないのだろうか。この「設定」とは、重要な項目のようだが、特別な動作が何も無い。
いや、それは違う。ウビキトゥは精神に作用するのだ。人間からサイカーを生み出すプシュケーしかり、タクロに委ねた俗称アドミンしかりである。私も、魔術ではなく、純粋な心の指向性を持って扱わねばなるまい。それを額に近づけて、心で、明確に思う。
「私は、この項目を、選択したい」
すると、白い枠がぬるりと動き、今は「設定」を囲っている。なんとも呆気ないが、人が使用する道具であれば、それも当然と思える。私の心はさらにときめいた。
逸る心のまま、私は「設定」を視る。さらに古代文字が表示された。今度は数も多くそれらは、
通常動作
『設定』
照度
色見
矯正
動力
連動
合言
という意味合いの文字群である。照度とはなんだろう、とこの文字を意識すると、
「あっ」
ガラス状越しの景色の明るさが変わる。明るくも暗くも、心に思った形に変化させることが出来る。素晴らしい、素晴らしい。とりあえず最も明るい状態にしておく。
次に色見。これに意識を寄せると、円状の何かが現れた。赤、青、緑と色の諧調が流れており、目に美しく私の心をもう一つときめかせた。私の好きな色、深碧の辺りを選んでみると、途端にウビキトゥ自体の色が深碧に変わった。
「目の色を変えることができるのだ」
付随してどのような効果があるかはワカらないが、改めて驚異的な技術である。
次は矯正。途端に複雑なグラフや表が現れた。
通常動作
『設定』
照度
色見
『矯正』
近
遠
奥
前
広
動力
連動
合言
ウビキトゥが捕らえる風景の空間的要素を定義するのだろうか。道具それ自体が、意味を定義する、人間の求めに応じるため。素晴らしすぎる。試しに近、を変更してみると、画面が見にくくぼやけた。なるほど、これはメガネの機能だ。一つでどれほどのメリットがあるか知れない。しばらくこの矯正を試していたら、楽しくて仕方がない。どこまでも時間が過ぎ去ってしまう。
そして動力。だが、これは意識を向けても何も反応が無い。その代わりに矯正を構築していた文字が消えた。文字が広がりすぎると見難くなるからということか。次。連動。また文字が浮かぶが、それは意外な文字であった。
通常動作
『設定』
照度
色見
矯正
動力
『連動』
公正
邪悪
合言
「公正と……邪悪?」
公正とは正義と言い換えることができるだろうか。また邪悪とはそのままの意味。このウビキトゥがかくも重大な意義を備えているのだとすれば、機能について以外に無い気がする。公正を視る。そこには数多くの人間の名前が掲載されていた。
「あ、これはクララ……?タクロの名前も……」
恐らくこのウビキトゥに由来するだろう決して忘れてはならない、相手を意のままにする、という能力はこの設定に依っているのだろうか。そんな気がする。見れば、蛮斧の戦士たちの名も数多く含まれているし、
「私の名前……」
マリス、とあり私の家門名も古代文字により記されている。
脱し得たとは言え、軍司令官に魔術を掛けられたことがあった。これはその名残なのだろう。このレンズを通して人を凝視し、言葉で命令を与えた時、相手を支配することができる。
素晴らしいが、恐るべき機能である。人の心から名前を見抜くことを公正、と称するとは、どのような用途で造られたものなのか。おや?
誰かが階段を上がってくる。足音と歩幅の気配から、これはアリシアだ。そう言えば、そろそろ清掃の時間である。丁度良いといってはなんだが……
「閣下失礼いたします。お掃除に参りました」
「ありがとう。それにしても、今日は大変でした」
「はい……」
この部屋で生じた事態について、全てと言わなくともある程度は知っているはず。
「その後、軍司令官閣下のご容態は……?」
「命に別条無しとのことですが、まだお目覚めではないと聞いています」
「そう……」
「しかし、出撃隊長殿が付きっきりで看病しています。彼女は看病の心得を持っています」
「ああ。では、安心ですね。庁舎隊長殿は?」
「それなりに負傷していると聞いています。何処かで治療中なのでしょうが……」
今、どこで何をしているかは知らない、ということだ。そして、アリシアの感情が僅かに揺れた。この娘は、他のメイドらと異なりタクロを悪く思っていないはずだった。だから、僅かながら躊躇を感じた。私もつくづく甘い。
しかし、思い直し、決意した。
『通常動作』
設定
真面目に業務をこなすアリシアを、改めて呼ぶ。これは実験だから、名は呼ばない。
「あの、すみません」
そして、娘は手を止め、こちらを向く。
「はい」
私はウビキトゥを限界まで顔に近づけてそれ越しに娘の目を見つめ、指示内容を強く意識しながら述べる。彼女からは、額に触れているようにしか見えないだろう。
「お願いです。観葉植物にお湯を上げてください」
「……はい」
するとアリシアはやや虚ろに、部屋にある湯壺から湯を器に取る。なるほど、こう機能するのか。そして公正の古代文字の羅列を確認すると、その中にアリシアの名前が加わった。私はその名を呼んでいないのに、である。私の心か、彼女の心を読み取ったのだろうか。そして娘は鉢に湯を投じようとしている
「アリシアさん」
「……はい」
「私が間違えていました。お湯は観葉植物ではなく、私の器に入れてもらいたいのでした」
「……はい」
向きを変えこちらにやってきたアリシアは、私の器に湯を注ぎ始めた。
「ごめんなさい、ありがとう」
「……はい」
ウビキトゥの指示は達成された。それから数秒が経ち、
「あ……し、失礼いたしました」
その支配が解けた。それでも、
「私……」
「どうかしましたか?」
「何か失礼はございませんでしたか」
「いえ、別に……」
「……」
タクロにも聞いてみなければならないが、妙な行動をとったという記憶は残るのだろう。その後、アリシアは仕事を終え、いつもと同じように退出していった。このウビキトゥの効果は確認することができた。思いのままに人を従わせることができる、大変魅力的だが、使用を誤ると危険な道具である。
私は残る邪悪を意識し、文字を視る。さらに文字が現れる。
通常動作
『設定』
照度
色見
矯正
動力
『連動』
公正
『邪悪』
機能分配
動作確認
合言
機能分配と動作確認。機能分配は複雑なものではなく、公正と邪悪、どちらを優先させるか、という文字が浮かんでいただけ。今は公正に白枠が付いている。邪悪が何かワカらない以上、ここは触れない。
動作確認を視ると、文字が浮かんでくる。
機器確認できず、機器が近くにあることを確認せよ。
「これは……」
つまり、このウビキトゥは対になっているということか。公正と邪悪、揃いで一つなのか、片割れ同士なのかは不明だが、関連する他のウビキトゥが存在している。それを、軍司令官は持っているのだろうか。
先程、軍司令官の左眼に何も付いていないことは確認している。彼が入手したのはこの公正のウビキトゥのみなのか、あるいは彼が別に保管しているか。
最後の合言。
通常動作
『設定』
照度
色見
矯正
動力
『合言』
しか、しこれは新しい表示が現れない。合言、とはあいことば、という意味なのだろうか。例えば、その言葉とともに、別の機能が有効になるような……これは軍司令官本人から聞くしかないのかもしれない。
また新たな謎が出てきた。ウビキトゥの詳細は、この場にタクロが居れば退屈に欠伸するようなもの。だが、私にとってはそれがいい。研究とはこうでなければならないし、過去を調べるということは、過去に存在したものを探るのだから、未来を求めるより確実性がある。私の性に合っていると言えるだろう。他者の理解など、求めるべくもない。
では、次の目標だ。軍司令官が対となる邪悪のウビキトゥを所持しているか調べること。早速、クララを呼び戻し、どこぞで治療中のタクロを探して連絡を取らなければ。