第116話 飛んだ蛮族
―王都 病院 学園長の病室
学園長はまだ目覚めていない。精神に及んだ反撃が相当深かったのだとすると、彼女が戦った相手は間違いなく前宰相マリスなのだろうという確信が深まっていく。
だが、病床で眠り続ける同僚の顔を眺めながらも、考え戻ることは自分の解任についてのみ。意識戻らぬ者の前ですら……私は随分なエゴイストだったようだ。
飛龍乗雲夫人の発言を信じるなら私の解任は大農場の職員たちの嘆願と告発による。これは事実あったのだろう。しかし仕掛けた者がいるはずだ。それが誰か?
憲兵長官の画策か?彼女の性格からしてそれは無いだろう。だが、彼女は私がこうなることを事前に知っていたのかもしれない。誰から?殿下か?彼女は憲兵長官を気に入っている。
今回、私は殿下……太子に呼ばれて王都にやって来た。だが、まだ面会は叶わず、暇を持て余している。だが、深い意図があってのこととも思えないし、彼女が下々の意見を重視するとも思えない。良くも悪くも独善の人物なのだから。誰かの提案を受けてそうするとも思えない。
私にはこれといった政敵はいない。自覚が無いだけならお笑いだが、私自身大農場の公平な運営実現以外に強い政治的野心を持っていない。
自領から労働者を失った荘園領主たちは私を憎むかも知れないが、彼らの敵は太子であり、飛龍乗雲夫人だ。私の名前がそれほど売れているとも思えない。
飛龍乗雲夫人はどうか。私や学園長、研究所長といった者たちにも事実公平だが……女性職員たちの声には最も同情的なのかもしれない。夫人は、公正だが手段を選ばないところがある。彼女の機嫌を損ねたということかもしれん。
考えていても仕方がない。地位が無いなら無いで、気楽というもの。それに私の魔術は必要とされる場面が多いだろう。
「お呼びがかかるまで安穏と暮らすのも悪くないという気持ちになってきている。といわけで、また顔を見にくるよ。ではな、グロリア」
病院を出て、王都の通りを歩く。すると、応えぬ彼女にかけたあの言葉が哀しい嘘であることをすぐに自覚してしまう。今、私の心は何も無く、虚しさに涙が溢れそうになる。
「……っ」
公正、平等、理想の実現。私にとってこれらは人生の目標であり、生活の全てだった。それが失われた今、どんな張り合いが持てるというのだろう。私には働く事以外何もない。働く事とは理想の実現のため直走ること。理想の実現は、国家の力の中にいなければただの妄想で終わる。
だが大農場に勝手に戻れるわけもなし。何か、何か手はないだろうか?……こんな時、タクロなら何か良い案を思いつくのではないか。あの発想力が懐かしい。今、こんな形で王都に抑留されている以上、もうあの者と会うこともないのかもしれないが。私の思考は何も生み出さぬまま、巡り続ける。
これが太子の命令か否かを考えよう。
これが憲兵長官の命令か否かを考えよう。
これが夫人の野心によるか否かを考えよう。
これがその他の者の命令か否かを考えよう。
タクロなら何と言うか考えよう。
これが太子の命令か否かを考えよう……
これが……
無為な日暮らし五日目、公園のベンチでドバトに餌を与えている時、タラナに連絡が入った。タクロを支援したあの五人の内の一人からだ。彼女は配慮して要点のみ伝えて来ている。それによると、
・女性職員の内の嫌タクロ筆頭の一人が所長へ昇格したこと
・蛮斧系労働者の大規模な配置転換の実施が決定したこと
・それに伴い、タクロが監督の地位を解かれたこと
これは想定されたことで、私の心を暗澹たるものにさせるが、
・今朝、タクロが失踪したこと
・そのため、大騒動になっていること
「フ……」
愉快な男だ。何故タクロが大農場を去ったか、私にはワカる。確信がある。すなわち、大都会へ行きたかった。退廃と堕落の都に興味津々だったし、これしかあるまい。何故このタイミングで?監督の地位を失ったことなど理由にはならない。
私が居なくなったからだろう。決して自惚れなどではない。あの男は私に好感を持ってくれていた。好意ではなく好感。思えば公平であろうとする私の姿勢を、タクロは一度も非難しなかった。理念として相通じていたからだ。
私がいたからこそ協力を惜しまず、私がいたからこそ誰も害しなかった。命を狙う害意ある者すら。いつでも何処かへ去ることも出来たのに、私がいたからこそ、大農場に留まっていたのだ。
だがそれはつまるところ、私のいない大農場には用がないということなのだろう。大農場に先が無い、と見たのではないか。大農場は私の作品だ。タクロはよく、大農場をクソ農場と言っていたが、今こそその真意を聞いてみたい。
それにしても、タクロは国境の町でどのような独裁者を勤めていたのだろう?此処一番というところで部下に背かれたというが、失脚原因においてすら、やはり相通ずるものがあるではないか。
「フフフ……あは……あははは」
私を評価してくれる者がいた。それも同胞の光曜人ではなく、敵対し一段下に見ていた蛮斧人の中に。さらにその元独裁者は言葉ではなく態度でそれを示した。こんな愉快なことがあるだろうか。いや、ないな。つい先ほどまで私を支配していた哀しみの感情も消え失せた。気持ちが晴れれば気力も湧いて出る。私は私で日々の責務を果たしつつ復権の機会を待つとしよう。
そう言えば、結局タクロからは前宰相マリスに関わる情報を全く取得できなかったことを思い出した。なかなかどうして、強かな男だ。堕落と腐敗の極地にあっても、元気にやっていくに違いあるまい。
無論彼にも弱点はある。諧謔を交えることの有用性は知っているが、正直過ぎ、繰り出してくる批判は容赦ない。自分に自信があり過ぎるからか、相手は屈辱を感じずにはいられないだろう。
故に、彼にまつわる暴力沙汰は必ず起こる。これは確信を持って言える。故に、彼を止めることができる点からも、私の出番は遠くないはず。
気がつけばドバトは居なくなっていた。手の中に餌は残っているのに。タラナに飛龍乗雲夫人から出頭命令が届いていることに気がつく。タクロの失踪について、調査をされるに違いなく、そのようにして私も戦場を変えるわけだ。願わくば、その先で理想の道に戻れることを願おう。いや、そうなるように動かねばならない。
手に残る餌を口に含んでみる。それはとても素朴で、草木の風味が都会を忘れさせるが、なぜか酷く不自由な味がした。