九話
翌日、教室にて。
いつもより少し早く学校へ登校した桜火は自身の席に座り、身体は黒板の方へ向けたまま入口の扉へ向けてちらちらと視線を向けていた。
――なんで逃げたのかは知らねぇが、学校がある限り必ず顔を合わせることになる
既に左山の異種をなんとかすると決めた桜火である。
教室に顔を出せば即座に詰め寄って昨日の話の続きをするつもりだ。
もちろん他の奴に聞かれないよう、教室の外まで引っ張っていく。
左山は基本的に一人で行動しているため、連れ出すのにグループの輪に入っていく必要はない。
心理的な抵抗感はなしに連れ出すことができる。
授業が始まる前ならばさらにやりやすい。
故に桜火はいつもより早い時間にアラームをセットし、朝の惰眠を生贄にしてここにいるのだ。
朝の五分は夜の三十分と等しいと考える桜火にとってこれは相当な気合のいれようであった。
――さぁ早く来い……。
眠い目蓋を吊り上げて桜火は左山を待つ。
そして――。
一限目……来ない。
二限目……来ない。
三限目も……来ない。
始まりと終わりを告げるチャイムを三セット耳にしてもなお、左山は教室に姿を表さなかった。
――そういえば不良少女だったわ
肩透かしを食らい、机に突っ伏してそんなことを思う。
思い出してみれば昨日も遅れてやってきていたのをすっかり忘れていた。
それを考えればこの時間帯はおろか、朝早く来ることなどまずありえなかった。
そう思うとわざわざ早起きして登校したのが馬鹿らしくなる。
もうちょっと寝れたのに。
「くぁ……」
大きなあくびをひとつして、滲む視界で教室の入り口を睨む。
――あの野郎……
この行き所のない衝動をどうしてくれよう。
コツコツと人差し指で机を小突きながら今、四限目のチャイムが鳴った。
「……遅れました」
左山がやってきたのはやはり、昨日とほぼ同じ時刻。
また遅刻かと怒りをあらわにする教師だが左山はどこ吹く風とばかりに適当に返事をして席に着く。
ふらふらと地に足がついていないかのようなだらしのない歩き方。
誰よりも遅く登校しておきながら目を細めたねぼけた表情。
「っっ!」
そんな眠たそうな、今にも閉じそうな目蓋がばっと勢いよく開く。
左山の視線の先にはギラギラと熱い視線を送る桜火の姿があった。
――授業が終わった瞬間にとっ捕まえる……!
己の睡眠時間を削られた怒りを理不尽に左山へと向ける男の姿は、穏やかな現国の時間には似つかわしくなく、一人激しい気迫を放つ桜火の表情に教師は首を傾げている。
そんな桜火を見て左山は眉をひそめ、嫌そうな顔をした。
「じゃあ号令」
そのまま三十分が経ち、チャイムが鳴った。
チョークを置いた教師が教室を振り返って口を開く。
「きょうつけー、礼ー」
今日の日直が気怠げに号令の合図を出し、
――よし!
いざ左山に詰め寄らんとした桜火ががたりと椅子を引いた。
「ちょっ」
「きゃぁ」
同時、小さな悲鳴と驚いたような声がいくつか聞こえた。
「なっ」
思わず言葉を無くす桜火の目に映ったのは凄まじい速さで教室を飛び出していく左山の後ろ姿。
――あいつ、逃げるつもりかっ
「くそっ」
慌ててその後を追う。
購買へと急ぐ生徒達に同化し、追い越し、その隙間を縫って廊下を疾走する左山。
中には走る左山の姿を捉えて、慌てて道を開ける者までいた。
――足速いな、くそっ!
左山が廊下の角を曲がった。
その先は別棟へ続く廊下。
授業でもない限りそっちには用事などそうそうない。
やはり左山は桜火から逃げようとしている。
「逃すかっ」
加速しようと廊下の床を強く蹴る。
「うぉっ!?」
角を曲がる際にずるりと後ろ足が滑り、転倒しかけるがグッと腰を落として堪えた。
足元を見るとふわふわと動く埃の塊が目についた。
どうやらこれを踏んづけたらしい。
――ちゃんと掃除しとけっ
その隙にも視界の先にいる左山はまた角を曲がり、姿を消す。
「くっ」
前へつんのめりながらバタバタと慌ただしく駆ける。
「左山っ!」
ほんの数秒前に左山の姿を見失った廊下の角、桜火は声を上げながら曲がり角を曲がるがそこに左山の姿はない。
外では早くも昼を食べ終えたらしき生徒達が遊ぶ声。
廊下の先では体育館に反響するボールの音、掛け声などが響き人一人の足音などとても聞き取れない。
ダメ元で電気の付いていない空き教室や、理科室なども覗いてみたが左山は見つからなかった。
「くそっ、撒かれた……」
運動不足の足がガタガタと悲鳴を上げ、春の暖かさがじんわりと体に汗を滲ませる。
身体から発する熱気が制服に篭り、鬱陶しい。
ぺたりと背中に張り付いたシャツに眉を寄せながら、桜火は渋々来た道を引き返した。
――また放課後に……、いや今日は依頼があるから無理だ
キーンコーンとチャイムが鳴り、昼休みの終わりを告げる。
小さく歯噛みし、桜火はくるくると腹の虫を鳴らしながら教室へと戻った。
――
「はぁ、はぁ……」
足の裏の筋肉が引きつっている。
ぺたぺたと力なく歩く桜火は長廊下に置かれた木製ベンチに腰掛けた。
シャツのボタンを開け、ぱたぱたと空気を蒸した制服の中へ送り込む。
「今日もダメ……」
壁に寄りかかり、大きく息を吐いて火照った身体が冷えるのをじっと待つ。
あれから何度左山を追いかけまわそうと捕まえることはできなかった。
すでにあれから二日が経ち、今また昼休みが終わろうとしている。
奴はとにかく足が速かった。
声を掛けた瞬間にロケットスタートを切り、猿のように身軽な身のこなしで校内を駆け回る。
取り付く島もないとはこのことか。
あの放課後の件以来、左山の警戒心はまるで産卵期の動物を相手取るがごとく、声を掛けずに近づこうにも驚きの察知能力で逃げてしまう。
「くっ……」
がくりと崩れ落ちる膝が無理だと諦めかけている。
所詮異種が関与しない部分では唯の男子高生に過ぎない。
これまでに何度となくぶつかってきた壁、何でも依頼をこなす魔法売りの実態。
――そもそもあいつは何で逃げる? 俺が一体何をしたって……
振り返って考えてみてもあれは完璧な対応だったはず……。
ちょっと後をつけて、少し信じられないかもしれない話をしただけ……。
「いったい何が気に入らなかったんだ」
……。
…………。
「……」
なにか考えそうになった頭を振って気を取り直す。
ここで諦めてはならない。
左山と協力関係にならねば異種の変容に対処が遅れる。下手をすれば異種は手に入らないばかりか左山がどうなるかもわからない。
――ならどうするか
あの猿女の足の速さ。
もはや全力で走ろうと追いつけないのはこの数日の鬼ごっこで理解した。
ならばもう残された手段は一つ。
「先回りしかない……!」
追いつけないなら、あらかじめ奴の行動を読み、逃げた場所へ先回りする。
飛びついてでも捕まえてやる。
決意を新たに桜火は拳を握りしめた。
「……」
桜火は四限が終わると同時に机に突っ伏して狸寝入りを始めた。
教師が扉を出ていき、生徒達が解放感に浸る声を聞きながら腕の隙間からこっそりと左山の様子を伺う。
左山はチャイムが鳴ると同時、いつも通り即座に走り出したが、誰も追ってきていない気配を感じ取ったのか不思議そうに後ろを振り返り、桜火の方へ視線を向けた。
ここ数日は休み時間に入るや否や左山を追いかけ回していた。
そんな桜火が今日は追いかけてこないと不思議そうに首を傾げている。
しかしすぐに気を取り直したようで、そのまま教室を出て行った。
「……」
それを確認してすぐ桜火はすっくと立ち上がる。
人の群れに紛れ、見失わないように距離をとったまま左山についていく。
その日から桜火は左山の行動パターンを分析した。
走って追いかけるのではなく、気づかれないように跡を尾ける。
授業中以外の休み時間、彼女がどこにいったか、何をしているかを探った。
そして、気づいた。
左山は時折自販機で飲み物を買う以外、これといった行動をとることはない。
誰と喋るわけでもなく、他クラスに行って昼食を取ることもない。
彼女は奇しくも桜火と似たような行動パターンをとる人間だった。
――これじゃあ結局意味ねぇ
そう肩を落としかけたある日。
鞄から取り出した弁当を持ちながら、左山がどこかをじっと見つめているのに気がついた。
――何を見て……?
その視線の先にいたのはある女子グループだった。
机を近づけ、姦しくも楽しそうに話に花を咲かせている。
その光景を左山はじっと見つめていた。
何分見つめていたのか、左山は唐突に教室を出て行く。
こっそりついていくと、別棟の方に歩いて行き人気のない教室へ入っておもむろに弁当を広げ出した。
――ぼっち飯……
何故こんなところで食べているのかは分からないが彼女はその後も静かに昼食を食べるだけ。
数日、観察を続けていると、左山が何度か同じような行動をとっているのを見かけた。
昼休み、移動授業、体育で外に向かうときなどにある女子生徒にむけてじっと視線を送っているのだ。
真中実里。
クラスでの人気は高く、常に誰かと一緒にいる印象のある女子だ。
「あ……」
そしてまた今日も、しばらく彼女達の方を見ていたかと思えば、一人教室を出ていく。
きっとあの空き教室へ行ったのだろう。
ぽつんと一人、静かな教室で箸を口に運ぶ左山の姿が思い浮かんだ。
あの表情の下で何を考えているのか、桜火にはまるで分らない。
真中が左山に何かしたのだろうか。
――嫌がらせでも受けたか? もしくは単に気に入らない……
クラスの中では気の良い人気者である真中だが、何か左山に対し嫌がらせや悪評をばら撒いたりと裏の面がある可能性も考えられる。
しかし何かにつけてぶん殴ると口にしていた左山のことだ。
何が琴線に触れたのかは想像できない。
些細なことが気に障っただけということもある。
肩がぶつかったり、喋り声が気に入らなかったり。
そしてそれを理由に真中に喧嘩をふっかけるつもりなのかもしれない。
「ありそうだ……」
静かに凄んでいる左山の姿がありありと想像できる。
もしくはあの誰もいない静かな教室で何かしようと企んでいる可能性。
じっと真中を見て、その怒りを忘れないままあそこへ……。
「……待てよ」
好き勝手に想像を膨らませている途中にあることに気づく。
奴が決まって別棟の教室に行くということは……。
「……」
静かに扉を開けて入ってきた左山を確認し、桜火はこっそりと左山の死角に回り込む。
ガタリ。
入り口の扉へ寄りかかると、扉が僅かに動き音を立てた。
「っ!」
音に驚いて、左山が振り返る。
そこでしたり顔の桜火とばっちり目が合った。
そしてすぐさま閉じ込められたのを察すると即座に後ろの扉へ駆け出そうとし――。
「……通れない」
この教室の後ろの扉付近にはごちゃごちゃと備品の類と思われる段ボールが積み上がり、入り口を塞いでいる。
つまり出入りは前の扉のみ。
「これなら、話を聞くしかないだろ」
したり顔で言う桜火に対し、左山は少し表情を引きつらせたまま黙っている。
「? なんだ?」
どうしたのかと尋ねる。
「ここのところ急に大人しくなったと思ったら、やっぱりこんなこと……。何なの? 人のことねちねち追いかけまわして、気持ち悪い」
きっと睨みつけてくる眼差しに思わず一歩引きたくなる。
「俺だって本当はこんなことしたくねぇ。でもお前が逃げるから」
「……」
「何だよ」
左山が少し目を見開いたような反応を見せた。
「会話できてる……?」
「俺はずっと前からしてるつもりなんだが?」
唐突に挑発してきたのかと左山の顔を見るが、その表情は真剣そのもの。
信じがたいことに別に煽ろうとしているわけではないようだった。
――いや、そのつもりがなくても煽ってんだろそれは……
左山は下を向き、何かブツブツと呟いている。
「おい」
「っ、なに」
声をかけるとびくりと大きく後退った。
「何でそんなに警戒するんだよ、何もしてないだろ」
「何もしてない……?」
桜火の言葉に左山が苛立ったような声を上げた。
「何日も何日も私のことを尾け回して、今こうして教室に閉じ込めてるのによくそんなことが言える……」
「だからそれは――」
「うるさい、ストーカーの言うことなんて聞かない」
「ス、ストーカー……!?」
桜火は予想だにしない単語を浴びせかけられ、思わずたじろいだ。
「まさか自覚がないなんて言わせないけど」
「ち、違う! 俺はストーカーなんかじゃ……」
誤解を解こうと声を上げるが左山はしらっと冷たい視線をぶつけてくる。
「自分の行動を振り返ってもそんなことが言えるの?」
行動……。
ここのところ桜火がしたことと言えば、
授業が終わると同時に左山を追いかける。
休み時間の度に追いかける。
左山がどんな行動をとっているのか観察するため、絶えず視線を巡らせる。
左山を捕まえるために先回りして、教室に閉じ込める。
「…………」
「ほら」
「これは、俺はお前のために……!」
「ストーカーは皆そう言うし」
確かに少し意地になって追い回していたかもしれないが。
「元はといえばあの帰り道にお前がちゃんと話しを聞いてくれれば……!」
そもそも、左山が逃げるから今俺はこんな行動を取っているんだ。
僅かに滲んだ冷や汗に見ないフリをかましながら、桜火はそう反論した。
「だから俺はもう一度お前と話そうと、こうして」
口から出る台詞がどんどん真実味を増しているのはきっと……、気のせいだ。
「あんなの逃げるなってのが難しいと思うんだけど」
左山はムッとして、
「訳のわからないオカルト話を語られて、『あなたに何か憑りついてるかもしれません、だから連絡先を交換しましょう』なんてすんなり信じる方がおかしい」
「聞こえようによってはそうきこえるかもしれない、でも俺は至って真面目に――」
「真面目ならもっと怖いし」
また、左山の心の距離が離れる音がした気がする。
しかし言われて気づいた。
今までも異種について懐疑的な人はいた。
だが、すぐ身の回りに起きた異常に信じざるを得なかった。
だからするすると話が進んだのだ。
つまり、
――左山の周りで異変は起きていない……?
もし何か起きていれば、少しは桜火の話に耳を傾けようと思うだろう。
妙な現象を見て、不安に思っていれば誰かに助けを求めようという発想に至るはずだ。
が、この拒絶具合を見るに……。
「それに、そうやって妙なこと言って連絡先を聞き出そうとしたって、私わかってるからね」
「言っとくがナンパしたわけじゃねぇぞ、あくまで俺は――」
「嘘。あれは完全にそういう雰囲気だった。誤魔化したってそうはいかない」
左山がむん、と唸りつつ威嚇してくる。
もはや敵として見られていそうな態度。
――待て待ておちつけ
これではいけないと、桜火は一度荒れた心を落ち着ける。
左山はきっと異種を目にしていないから桜火の言葉が信じられないに違いない。
幽霊なんかと同じ、オカルトの四文字で一括りにされているせいで、まともに聞かなくてもいい話だと思っている
なら一度異種を目にしさえすれば少しは信じてくれるのではないか。
今器があまりない故、無駄使いはあまりしたくはないが仕方ない。
そう思考したところで桜火は口を開き、
「それなら――」
「こ、来ないで!!」
これを見てくれと、一歩近寄ろうとすると鋭い声が桜火の身体を突き抜けていった。
がたがたと、少し扉が震えたような気がする。
「……っ、そんな大声出さなくたって何もしないっての」
今までの雰囲気とは一線を画す、本気の拒絶だった。
「ふぅ、ふぅ」
息を荒く吐き、強い眼差しで桜火を睨む左山。
一体何をすると思われたのかわからないが、とりあえずポケットから取り出そうとした器を引っ込める。
――そこまで警戒することは……
ないだろと思ったが、今密室に閉じ込めていることを考えれば女子としては当然の行動、なのか?
しかしこちらは何の含みもない、真っさらな心持ちで話しているだけなのに。
第一左山に触れようなんてした日にはこちらの身がどうなるか。
女子とは言え学年でも有名な不良に手を出そうとする馬鹿は……。
そこで少し違和感のような、妙なひっかかりを感じた。
左山花音はクラスどころか学年レベルで知られている不良である。
風を切り、とは言わないまでも廊下を歩いていれば自然と端に寄って道を開ける生徒が大半だ。
まず入ってくる印象は、怖い。
口数も多くないためどんな人間なのか、何を考えているのかもわからない。
だからきっとこうだろう。
多分そうだろう。
などと自分の勝手なイメージでその人を形づくる。
桜火もまた、左山はその見た目通り気が強い少女なのだと思っていた。
ピリピリと縄張りに入ってきた敵を威嚇するかの如く近づいてきた桜火に強い警戒心を抱いていただけだと。
しかしこの反応は。
ただ警戒するにしては……。
相変わらず語気は強いもののどことなく声が硬い。
――なんだ?
よく見てみれば少し身体が震えているような……。
「お前、もしかして怖がって――」
「っ!」
弾かれたように迫ってきた左山は無防備な桜火の胸元に飛び込んで、勢いよく突き飛ばした。
「痛っ」
咄嗟に胸を抑え、よろめいた隙に驚きの速さで左山は教室を出ていってしまった。
――あいつ……
予想外の反応、行動。
飛び出していく直前の左山の焦ったような表情がやけに記憶に残った。