五話
「で、目が覚めたときにはその"声"は聞こえなくなってたと」
「はい」
魔法売りは千羽の話を聞き終わると一言なるほど、と呟いて腕を組んだ。
「今は何ともないんですけど」
今まで生きてきた中で遭遇したどんな出来事よりも異常な出来事。
恐怖を覚えた千羽はすぐさま解決策を捜した。
こんな怪現象に遭ったところでどうしたらいいのかなどさっぱりわからず、お祓いや魔除け、すぐに取れる手段は試して見たがどれも効果はなかった。
そこで智子に連絡をとり、藁にも縋るような思いでメールを送ったのだ。
「まぁ……位は低そうだよな……」
位……? 低い……?
ぼそりと魔法売りが何か呟いていたが、その言葉の意味はよくわからなかった。
魔法売りは少し考えるそぶりをした後顔をあげて言う。
「心配しないでも、それ位なんとかできるよ」
「ほ、本当ですか?」
「なんてことないよ」
本当になんでもないような口調ではっきりと告げられた言葉。
「よかった......」
それが不安に押し潰されそうになっている千羽には頼もしく思えた。
ほぅ、と知らず知らずのうちに安堵のため息が溢れる。
「実は似たような依頼がもう一つ来てたんだ。その時はここまでひどいことにはなってなかったんだけど」
「似たような依頼……」
この不可解な現象は今のところ他のクラスでもあったという話は聞かない。
何故かうちのクラスだけで、うちのクラスの人間が被害に遭っている。
そんな中で似たような依頼があったということは。
「森野さん? かな。多分同じクラスの人でしょ」
――森野さんって……。
樽井と野木目にいびられていたあの大人しい感じの女子。
「多分、同じクラスです。あまり話したことはないですけど」
何故彼女は魔法売りに依頼をしたのか。
もしかしたら彼女も千羽と同じようにあの"声"が聞こえたのだろうか。
疑問符を浮かべる千羽の心を読んだように魔法売りが、
「なんだか佐藤くん? を助けてあげて欲しいって依頼だったんだよ。その時はただいじめを無くしてくれ、みたいな依頼かと思ったんだけどまさか"異種"絡みの相談だったとは思わなかった」
ぺらぺらと語る魔法売りの言葉の中にまた気になる単語が聞こえた。
「あの、異種ってなんですか? 幽霊とかそういう類の話……?」
「……」
一瞬の沈黙の後、
「幽霊とはちょっと違う。異種は今日あなたが話したような変な現象を起こすものを指すもので――」
そこで少し考える素振りをした魔法売りは、
「幽霊ってのは死んだ人の怨念とか未練とかそういうものだろう?」
そう問いかけられても千羽は幽霊の定義について詳しいわけではない。
「そ、そうなんですか」
「そう。でも異種は生きている人間の感情。例えば怒りとか憎いとかそういったものに影響されたりして不可解な現象を引き起こす。あなたの言う変な"声"もそれ」
まぁ見せた方が早いな、と呟いた魔法売りが手に持っていたボールペンを強く握り、ばきりと真っ二つにへし折った。
――何を……
呆気にとられた千羽の目の前で、"それ"は起こった。
へし折られたボールペン。
その折れた部分から何かが出てこようとしている。
ずるりと湿った泥が滑り落ちるように、ゆっくりと"ソレ"は姿を表そうとしている。
「……」
視線が離せない。
未知の何かが今目の前に。
『――ァア』
鎌首をもたげるように、黒い蛇のようなナニカがボールペンの中から這い出てくる。
「っ!」
「大丈夫、周りに被害を出す類の異種じゃないから」
その場から退きそうになった千羽へ、魔法売りは軽い調子で宥めてくる。
――って言われても
大きさは、手先から膝ほどの長さ。
指二つ分ほどの太さで影を切り抜いたような蛇の姿をしている。
そして何よりもあの夜の時と同じ、不安を煽られる嫌な存在感。
存在感とはそれが良い悪いに限らず意識せざるを得ないもの。
広い空間であればその気配は薄くなるものの、この狭い空き教室の中では否が応でも感じ取ってしまう。
さほど大きくはないにも関わらず、千羽はその黒蛇から目を離すことができなかった。
「さぁ、行ってこい」
魔法売りの言葉を合図に、黒蛇がしゅるしゅると身をくねらせた。
鼻先に当たる部分を何度か動かした後、身体全体を使い、地を這うように移動する黒蛇は真っ直ぐ千羽の元へと近づいてきた。
「いやっ!?」
一人でに動く影が自分を目指して這い寄ってくるという不気味な光景に思わず悲鳴を上げる千羽。
「大丈夫だから動かないで」
そんな千羽の悲鳴を聞き、魔法売りがぴしゃりと言った。
大声を出されたわけではないが、低く、威圧的なトーンの声に反射的に身体が固まる。
『――ァァ』
その隙にしゅるりと這い寄ってきた黒蛇が千羽の足元に絡みつき、添木を伝って育つ蔦の如く、ぐるぐると巻きつきながらよじ登ってくる。
「っ、ひぅ」
黒蛇が触れた足にはなんとも形容し難いぬるりとした感覚が。
得体の知れないものが自分の身体に巻きついているという状況に、本能的な恐怖が湧き上がる。
「大丈夫だって」
念押しするように魔法売りが千羽の目を捉えて言う。
相変わらず何故か認識できない顔を見つめながら、千羽は口をひき結んで、絡みつく蛇を引き剥がしたい衝動を抑え込む。
『ァァ』
すると、黒蛇はよじ登った千羽の制服の左ポケットへと身体を潜らせた。
「なに……?」
ぎゅっと目を瞑ってしまいたいのを堪え、半目で恐る恐るポケットの中を見る。
「あれ、いない……」
そして同時に、さっきまで感じていた気配がぐっと薄まっていた。
ポケットの中に入れていた携帯を掴み、取り出してみるものの、やはり黒蛇の姿はない。
「どこにいったの……?」
首をひねる千羽に、
「潜ったんだよ、それに」
魔法売りが指さしたのは千羽が手につかんでいる携帯だった。
「これ?」
何を言っているのかと手に持った携帯に視線を落とす。
すると、
――とぷん、と水音が聞こえた。
「私の携帯が――」
千羽の携帯画面には波紋が浮かび上がっていた。
そこには黒蛇が潜っているのだろう。
その尾の先を時折飛び出させ、まるで携帯の画面が水面に変化してしまったかのように波紋を作る。
そして飛び出た蛇の姿が完全に消えると同時に、池に石を投げ入れたような音がする。
千羽の目には携帯の中に黒蛇が溶け込んでしまったかのように見えた。
「今辿ってる。少し時間がかかるからまた日を改めてここに呼ぶよ」
そう言って魔法売りは席を立った。
何がなんだかわからないまま、魔法売りが隣を通り過ぎて――。
「ちょ、ちょっと待って!」
慌てて千羽は口を開く。
あまりにも状況が理解できていない。
今ので何が解決したのか、そもそも今何をしたのか。
分からないことが積もりに積もっている。
「あー、そうか」
呼び止めた瞬間、怪訝な顔をした魔法売りだったがはたと何かに気づいたと千羽の元へ引き返してくる。
「うっかりした。そういえばまだ報酬の話をしてなかった」
「ほ、報酬?」
「そう、報酬。慈善事業じゃないんだから依頼を解決したなら、対価が必要だろう?」
詰め寄られる千羽は少し怯んだように一歩下がるが、
「ちょっと待って! 私まだ何にもわかってない。今の蛇は何? もしかしてあれでおしまいなの? これで解決したつもり!?」
――ちゃんと何が起きているのか説明してもらわないと
じゃないと、あの時からつきまとうこの不安は拭えないまま。
「あー」
声を荒げた千羽に魔法売りは少し面倒くさそうな声を出した。
何をどうしたものか、と考えているのがありありと伝わるような人間臭い態度。
これまで感じていた不気味な人物の素の部分に触れたような気がした。
だが、彼はすぐに、
「あの黒蛇は今あなたの携帯から異種の痕跡を辿って、喰らっている。話を聞く限りだと中々の人数が被害に遭ったみたいだから犯人まで辿り着くにはまだ少しかかる」
――喰らっている? さっきの蛇が?
「でも後は時間を掛ければいいだけだから、心配しなくてももうあなたが怖い思いをすることはない」
「ほんとに? 本当にこんなあっさり――」
言いかける千羽の言葉を遮って、
「パパッと終わるときはこんなもんだよ。依頼としてはそんなに難しくない方だし」
本当にそうなのだろうか。
あっさりしすぎていて、未だにあの恐怖が消え去ったという感覚が千羽にはない。
「まぁ、そう言ってもまだ半信半疑か。ひとまず今日はもうできることはないから、報酬については犯人を突き止めてからってことで」
じゃ、と軽く手をあげて今度こそ魔法売りは教室を出て行った。
扉の閉められる音と共に空き教室に一人残った千羽は、狐に化かされたように10分ほどその場で呆けていた。