二十五話
左山が公園の中央、遊具も何もない開けた場所へと身を晒すとそれを待ち構えていたかのように男が公園内へと入ってきた。
「そこにいたのかぁ。出てきたってことはついに観念したってことで、良いんだよなぁ」
何かに陶酔し切ったような声音はひどく気味の悪いものだったが先ほどと違い、左山は顔色一つ変えずに近づいてきた男を見つめている。
「あれ、あの男は。あいつはどこにいったんだ? なぁ」
左山は沈黙したまま答えない。
「なんだよ、結局逃げ出したのかぁ。まぁでもこれで俺がお前の側にいてやれる。だからさ、左山ぁ。心配しなくて良いぞ」
気分のいい妄想でもしているのかぺらぺらと男の舌が回転し、その度に左山の目をじっと見て語りかけてくる。
「なんだよ、何か喋れよ。ほら、その口を開いて声を聞かせろよ」
だが、そんな男の声に耳を貸さないとばかりに左山は口を閉ざしたまま、ただ微動だにせず。
何を言うわけでなく、ただただ男の視線をじっと見返していた。
「気に入らないなぁ、その目。なんだ、言いたいことがあるならはっきり言えよ。ほら聞いてやるよ、お前が何を想ってるのか」
左山は動かない。
何も言わず、反応しない。
男が何を言っても動じることなく、きっと前を向いている。
痺れを切らしたように男が歯噛みしてじりじりと左山へ近づいていく。
「なんだよぉ。いらつくなぁ」
そして男はふと、いいことを思いついたと表情を明るくすると、手に持っていたカッターの刃をチキチキと出して、
「ほら、怖いだろ。なぁあんまりイラつかせるとぷすっとどっかに刺さっちゃうかもよ」
わざとその刃を強調するように先端を左山へと向ける。
暗い公園の中で銀色の鋒が僅かに光って見える。
「っ」
そこで初めて左山が反応した。
「ははっ、そうだよなぁ。怖いよなぁ。そうやってダンマリしてないでちゃんと俺に返事すれば何もしないからさぁ」
しかし、左山はカッターの刃を見て僅かにその頬を引き攣らせたものの、ぐっと何かを噛み締めるように一度目を閉じると再び男を正面に見据えた。
「っ……!」
まるでだからどうしたと言外に言っているようなその態度に男は憤慨した。
「はっ、はっ! あんまり馬鹿にするなよ、なぁ!」
そしてじりじりと左山へと接近し、その肩を強くつかもうと手を伸ばす。
瞬間。
ガサリ、と茂みから人影が飛び出した。
『あぁぁぁぁ!!!!!!』
男の視線が茂みの方に向いたと同時に桜火の口からとんでもない大声が放たれた。
「っ!? なんだ、この声は!!」
拡声器でも使っているのかというほどの声、否それよりももっと大きな音として男の耳を攻撃している。
「うぐぁぁぁぁ!」
その音に耐えかねて、男はたまらず両手を耳に押し付けた。
手に握っていたカッターがポロリと地面に落ちる。
左山が足を大きく引き、
「はぁぁ!!」
掛け声と共に繰り出された蹴りは無防備な男の足の間へと吸い込まれ、鈍い音を鳴らした。
「……っぁ」
声にならない声と共に男が苦悶の表情を浮かべ、ゆるゆると力なく崩れ落ちる。
すかさず落ちたカッターを蹴り飛ばし、股間を押さえたまま痛みにうめく男の顔もついでに蹴り飛ばす。
「はっ、はっ」
左山は蹴りをもろにくらい倒れた男の上へと座り込み、マウントを取ると、
「この、今まで、よくも! 気持ち悪いことばっかり言って! その目も、口調も、ネチネチ付け回してくるのも! みーんな生理的に無理なの!」
バチン、バチンと馬乗りになったまま男の顔を引っ叩きまくる。
「ずっと怖かったんだから……! 帰るたんびにびくびくして、いつ襲われるかって!」
股間と頭にもろに蹴りをくらった男はその猛攻をろくに防ぐこともできず、弱々しく頭を守ろうと手でガードしようとしていたがその腕ごと叩かれ続けた。
男の顔に一発入れてからタガが外れてしまったのか堰を切ったように感情を爆発させる左山。
我を忘れ、執拗に男の顔面を狙い続けるその様は恐ろしいほどの剣幕だった。
人気もなく、彼女を止めるものは誰もいない。
一発、二発。
抵抗する男の腕をすり抜けて五回打ったビンタのうち二発が顔面をとらえる。
悶絶する男も黙ってやられているわけでなく、なんとか叩かれるのを防ごうともがいているものの、左山の手数はその抵抗を上回る。
叩いて、叫んで、また叩く。
がむしゃらにそれを繰り返す。
男が何かを口にしようとその言葉ごと黙らせる。
叩いて、叩いて、叩いて、叩く。
夜の帳が落ちた公園にしばらくの間乾いた音が響き続けた。
――
結局、もうその辺でと桜火が肩を叩くまでそれは続き、左山が退いた後には顔がパンパンに腫れ上がった痛々しい男の姿が残った。
「はーっ、はーっ」
息も絶え絶えといった左山だったがその視線は未だ男を捉え続けており、興奮状態にあった。
桜火はそんな左山の肩を押さえつつ、左山の耳に手をやりそこに嵌められた耳栓を外した。
「とりあえず、落ち着け」
そこでようやく声に反応した左山が桜火の顔を見る。
私、私、と呟きながら自分の手に視線を落とし、身体を震わせた。
それが昂りからか、はたまた違う感情によるものかは桜火にはわからない。
桜火は落ち着かせるようにぎゅっとその手のひらを包み込むと左山の震えはゆっくりと収まっていった。
「怪我は?」
桜火が尋ねると左山は下を向いたまま、小さく首を振る。
桜火がちらと視線を移す。
男は散々左山にボコられたのが効いたらしく、痛みに呻くだけで襲ってくる気配はない。
もはやそんな力も残っていないように見える。
「上手くいってよかった……」
この男の対策として桜火が考えたのは、【大声】の異種を使い一時的に男を無防備な状態にすること。
この異種の力はシンプルで取り憑いた相手の声を大きくすると言うもの。
直接相手の耳に響くよう調節すれば男はたまらず両手で耳を塞ぐだろうと予想していた。
そうして両腕を封じた隙をついて男を無力化するという作戦だった。
しかし、そうなるとその一瞬の隙を突くためにある程度男との距離を詰めておかなくてはならない。
不意打ちに近い形で男を無力化する以上あまり離れすぎていると男が何をしてくるかわからない。
さらに【大声】の異種は特定の一人に声を浴びせることはできないため、男に近づけばその範囲の中。
何か対策の必要があった。
ティッシュか何かで耳に詰め物でもするかと考えていた時、ふと以前受けた依頼で小和井千羽から耳栓をもらっていたことを思い出した。
制服のポケットから出てきたそれを使えば、【大声】の異種の範囲にいながら動ける。
そうして作戦が決まったは良いものの、問題は男を引きつける役をどうするか。
青い顔をしていた左山はさっきに比べ、幾分かましになったとはいえまたあの男の前へ立つのは厳しいだろう。
そうすると桜火が囮役となって出るしかないのだが、左山に【大声】の異種を使わせるのにはいくつか不安要素があった。
まずこの【大声】の異種は黒蛇や水亀なんかと違い、使用する者に取り憑かせなければ効果を発揮できない。
既に異種に取り憑かれている左山にどんな影響が出るかわからない。
そして一番大きな問題はそもそも左山が異種を扱えるかどうか。
『……私、できるよ』
そういった問題があったこの作戦だったが、話し終えた桜火に対して一瞬の間を置いて左山はそう言い放った。
いまだ小さく震える身体。
怖いと、そう想っていることはすぐにわかった。
しかし、それ以上にその目は強い意志が篭っていた。
ぎゅっと握った拳が、食いしばる様に唇を噛む様が。
何かを乗り越えようとしているのだと桜火に訴えかけていた。
「ちょっとやりすぎた感は否めないけど……」
結果作戦はうまくいき、あまり見たことがないほど顔を腫らした男を見下ろすに至っている。
この分じゃしばらくまともなものは食えなさそうだ。
「あとは……」
男を見下ろしながら、桜火は懐から最後の器を取り出した。
深く対象に取り憑いた異種を引き剥がし、取り除くには本人の抱えている問題を解消し、異種の巣食う空間を消してしまうこと。
そしてもう一つ。
それは対象に強烈なショック、強い衝撃を与えること。
異種は取り憑いた対象の精神状態によって力を得たり、逆に対象の精神に揺らぎが起こることで結びつきが弱まる。
ただ物理的に殴れば良い訳ではなく、その精神に強い揺らぎを与えなくてはならない。
だからこの男が執着している相手が、左山が何かする事が大事だった。
好きな女からあれだけ拒絶されて、ボコボコにされるのはなかなかの衝撃だったはずだ。
「これだけ弱まれば、いけるな」
桜火は感覚で男と異種の結びつきが弱まっているのを感じとった。
【黒蛇】に【意思疎通】、【大声】と立て続けに異種を消費してしまい、男から異種を追い出す異種をひとつしか残しておけなかった。
だが、あとは男の異種を追い出して器に閉じ込めるだけ。
温存する必要はもうない。
黄緑色のシャーペンを砕き、中に込められていた異種が仰向けに転がる男へと向かう。
「むが、ぅぅ」
男が一瞬苦しげに声を上げて、全身から黒い靄が煙のように吹き出した。
桜火はその異種を封じ込めるべく新たな器を取り出して――。
「なに、この靄」
呆然と呟いた左山が上を見上げる。
男から溢れ出した靄がまるで雲のように集まり、頭上を覆っていく。
「ちっ、随分位の高いのを飼ってやがったな」
頭上を覆い隠していくその靄の量を見て桜火が舌打ちを一つ。
男の中で随分力を蓄えたらしい。
靄はぐるぐると頭上で渦を巻き、このままいけば公園一帯を包んでしまうのではと思うほど。
宿主を追い出された異種はまるで次の宿主を見定めるように桜火達の頭上で不気味に蠢き続けている。
「これじゃ、収まりきらねぇ」
手に持った器を握りしめる。
この器では目の前の位の異種を閉じ込めておくには力が足りない。
だからといって外へと解き放たれた異種を、それもこんなに成長した異種を放置しておくなんて無理だ。
今まで遭遇した中でもかなり特殊な異種。
一方は病を周囲に感染させ、一方は宿主の執着心を周りに感染させる。
このタチの悪い異種が再び宿主に取り憑くことがあれば今回以上に被害を増大させることは間違いない。
「ふ――……」
ならば、残された手段はもう一つだけ。
桜火は深く息を吐き出して目を閉じた。
身体の内側に意識を向け、それがそこにあるのを確かめる。
否、確かめる、なんて馬鹿馬鹿しい。
今まで忘れたことなんてない癖にそんなことを思ってしまうのは、きっと知らぬ間に無くなっていることを期待でもしているからだ。
それなのに、今こうしてこれの力に頼ろうとしている自分が嫌で。
それでもやるしかない。
これが、間違いなく今できる最適解だとわかっているから。
かっ、と目を見開き桜火は力強く左手の拳を握りしめる。
男の身体から靄が全て出切ったのを見て、桜火は前方へと跳んだ。
頭上に渦巻く黒い雲へと吸い寄せられる靄の一端を伸ばした左手で捕まえる。
柔らかいわたあめを掴むような感触。
同時に強烈な空腹感と共に靄を掴んだ左手が熱を持つ。
「靄が……」
捕まえた靄の一端が桜火の左手へと吸い込まれる。
頭上に渦巻く雲がまるで逆再生でもするように蠢き、桜火が掴んだ一端に引きずられるようにして左手へと吸い込まれていく。
左山は唖然としながら、桜火の腕をへと靄が吸い込まれていく様を見ていた。
あっという間の出来事。
激しい音もなく、陽の落ちた公園に生まれた黒い雲は瞬く間に桜火の左手へと飲み込まれ、その姿を消した。
「っ」
全てを吸い込み切った桜火が小さくうめき、膝を落とす。
「だ、だいじょうぶ!?」
ざり、と砂の擦れる音で我に帰った左山が桜火へかけよろうとする。
「来るな!」
鋭い叫び声を浴びせられ、その場に硬直した。
「今は、マズイ。俺の身体には触れるな……」
息も絶え絶えに言う桜火の言葉に左山は素直に頷く。
数分の間、桜火は腕を押さえつけたまま動かなかった。
しばらくしてようやく落ち着いてきたのか、ゆっくりと身体の調子を確かめながら桜火が立ち上がり、
「いや、悪い」
思わず声を荒げたことに謝罪の声を入れる。
「私は大丈夫だけど。今のって……」
気にしないでと話す左山。
それよりもその目は今何が起きたのかを聞きたがっていた。
「君の腕に吸い込まれてったのは見間違いじゃないよね?」
桜火は否定することもなく、首肯した。
「……前になんで俺がこんなことをしているか、聞いたよな」
「うん」
左山は以前なぜ桜火が魔法売りとして依頼を受けているか尋ねていた。
少し迷ったが今更話してしまったところで別に困ることはない。
「俺の中にも、厄介な異種が住み着いてるんだ」
ぐっと握った拳を開きつつ、桜火はため息でも吐くように言う。
「こいつはとんでもない大食いでな、餌をやらねぇと周りにどんな影響を及ぼすかわからない」
「餌っていうのは」
「異種だ。今みたいに触れることで大体どんなもんでも喰らいつくす」
そこで左山が納得いったように、
「じゃあ依頼を受けるのはその餌である異種を集めるために?」
「あぁ」
桜火は大きく息を吐き出して地面に座り込む。
「異種は人に憑くやつだけじゃなく、その辺に渦巻いてたり、よくわからない場所にポツンと居座ってたり色んなのがあるけど俺の中にいるのはある程度力を蓄えた異種を喰わないと収まらない」
開いた手のひらを胸にあて疲労感を漂わせる桜火は先ほどと比べ、消耗していた。
「基本的に人に憑いた異種は力を蓄えやすいんだ。だから俺は依頼って形で人に憑いた異種を取り去って俺の中のこいつに喰わせてる」
「それって、いつから?」
「魔法売りなんてのをやり始めたのは高校からだ」
そう言って桜火は勢いをつけて立ち上がり、制服についた砂を手で払う。
「さて、話はこの辺にして」
そして左山の顔をじっと見つめ、
「やっぱり、もうお前の中の異種も消えたみたいだな」
「じゃああのゾンビ男も」
「あれもこの男を中心に感染が広がった結果――言うなればお前の周りで咳やら体調不良が広まったのと同じ。時間が経てば解決だ」
言うとようやく安心したのか表情を和らげる左山。
「色々負担掛けて悪かったな」
怯えて声を聞くだけで固まってしまうような状態だった左山に男を近づけさせる作戦を取ってしまった。
あの時、あの階段の場で左山が語った過去を思えばそれは桜火には想像できないほど恐ろしい事だったはずだ。
それなのに左山はその恐怖に立ち向かった。
まるで挑むように男の顔を正面から睨み返していた。
あの左山の勇気がなければこうも上手くはいっていない。
「ううん。むしろ君にお礼が言いたい位」
「ん?」
予想外の反応が返ってきて聞き返すような声が出る。
何を言われたのかわからないと片眉を上げる桜火に、
「嫌な思いもしたし、怖い目にもあったけど……。でもそんなことよりもっと大事なことを知れた」
どことなく芯の入った声音。
もう顔を青くして震えていた左山は感じられない。
「真中さんの件もそうだし、今の男の件もそう。私の心の弱い部分、乗り越えなくちゃいけない部分で折れそうな私を君が支えてくれた。だから……」
晴れやかな表情で微笑む左山。
「本当にありがとう」
「お、おう」
あまりに純粋で直球の感謝に思わず照れた表情を見せた桜火の姿に、左山は目を見開いた後、弾けたように笑った。