二話
特別棟3階。
そこにほとんど物置と化した空き教室が一つ、存在する。
立て付けが悪く、滅多に人の出入りのないその場所は何故か時折、中の様相が変わっていることがあるらしい。
噂によれば、密会に使われているとか、カップルの憩いの場と化しているとか、中には幽霊の仕業ではないかという話も上がり、様々な憶測が嘯かれている。
――なんか気味が悪いな
小和井千羽は今日届いたメールをチラチラと見ながら、件の空き教室へと向かっていた。
蚊帳の外にいる時はなんとも思わなかった場所だが、いざこれから自分がその場所へいくとなると途端にその場所が薄気味悪く見えてくる。
千羽もこれまで、ホラー番組やネットに上がっている動画などオカルトチックな情報に触れることはあった。
ホラースポットに行く人たちが怖がったりする様。
不可解な現象が起こる様を映像に残さんとする番組を見ることで、恐怖の擬似体験をしたりするくらいには面白いと思っていた。
だが同時にそんなことをする人間に対して疑問を持つこともあった。
どうして自分からそんなに怖い思いをしにいくのか。
ひょっとしたらどこか人間として大事なセンサーが欠落してしまったのではないか。
もちろん幽霊を信じ、自分の興味、好奇心に従ってやっているであろうことは千羽にもわかっている。
しかし、
「着いた……」
こうしてそれを目の前にすれば、こんな場所へ好き好んでくる連中はやはりどこかおかしいと思わざるを得ない。
身体が妙にソワソワする。
空気が、ここだけはっきりと違うのが感じ取れる。
もしかしてこれが霊感というものなのか。
千羽はその扉を前にごくりと唾を飲んだ。
緊張で手足の感覚が鈍い。
汗がじわりと滲み、呼吸が浅くなる。
もう入ってもいいのだろうか。
それとも何か合図があるまで待った方が良いのか。
再度送られてきたメールを見る。
『特別棟3階の空き教室にて』
内容はそれだけ。
何を持ってこいとか、何時にとか詳しい情報が一切ない。
「もう、なんで私が――」
こんな目に、そう口にしようとした瞬間。
がたり、と中から物音が鳴った。
「ひゃぁ!」
後退り、自分の足にもつれて転倒する。
受け身を取り損ね、打ち付けた衝撃で尻がじんじんと痛む。
「――っ」
中からはまだ物音がしている。
――何かいる、絶対
確かな確信。
そして迫り上がってくる恐怖は打ち付けた痛みを飲み込んで身体を支配した。
帰りたい。
そんな思いがすぐそこまでこみ上げる。
日にちや、時間指定はなかった。
なら、今日じゃないかもしれない。
また明日にすれば……。
「……っ」
千羽は強く足を叩いた。
それではダメだ。
後回しにすれば、アレは解決しない。
脳裏に、あのときの恐怖が蘇る。
――もう、あんなのは嫌……!
怖気ずく気持ちを奮い立たせる。
そうだ、ここでなんとかしなければもしかしたらまた――。
「――っ」
頭によぎった可能性を必死に否定する。
それだけは嫌だ。
もう、見たくない。
考えたくない。
今日で、片をつけたい。
そのためにもここは。
「ふ――」
深く息を吐き、あえて意識を目の前に集中させて感覚を絞る。
周囲に蔓延する得体のしれない空気を見て見ぬふりをする。
じんわりと背中に滲む汗に制服が張り付いた。
「よしっ!」
僅かに空いた扉の隙間へと指を入れ、扉の淵をぐっと握る。
「こっ、の!」
力任せに引いた扉はガリガリと音を立ててながら動く。
瞬間、中から溢れた空気が千羽を包んだ。
――あれ
扉を開けた途端、今まで身体にまとわりついていたナニかが晴れるような感覚があった。
身体にのしかかっていたプレッシャーのようなものが、せり上がって来ていた怖気がスっとなくなったような。
――どういうこと?
ぎゅっと閉じていた目を開ける。
そこはある種噂通りの場所だった。
物置と化しているのか封の開いた段ボールが床に積まれ、隅にある棚には袋にくるまれたなにかが押し込まれている。
何に使うのかわからない鉄の棒が立てかけられ、予備のものらしい机や椅子が敷き詰められるにして端に置いてあった。
薄暗く、少し埃っぽい空気が充満している教室の中に、窓から入り込んだ夕陽の橙色が明るく彩る。
教室の中央には片された備品の中から引きずり出してきたと見える机と椅子。
教室と同じ机をくっつけて長机のようにならべてあり、その机を挟む形でこちら側と奥側に二つの椅子が用意されている。
扉を開けた千羽に向けられた視線。
奥側の椅子に誰か座っていた。
「ん? もしかしてちょっと強すぎた?」
その人物は小首をかしげ、千羽の様子を見て不思議そうにしている。
――この人が……
確かに顔を見ているはずなのに目で見た情報がするするとどこかへ逃げていってしまうような不可解な感覚。
ぼんやりと霞がかったようにその人の顔が認識できない。
――誰なの
目の前の人物に関する情報が何一つわからない。
が、ぼやけた輪郭からおそらく男性であろうことは辛うじて理解できた。
「まあ座って」
促されるままに椅子に座る。
「あなたが依頼主の小和井、さんで合ってる?」
「はい」
手に握られているのはポッキリとへし折られたシャーペンだろうか。
彼はそのシャーペンの残骸をポロリと机の上に置くと、
「ごめん、人払いの効力が思いの外強かったみたいだ」
そう言って軽く頭を下げた。
低いような高いような、曖昧な声。
耳に入ってくる声までも捉え所がない。
顔と同じく、耳で音を聞いた瞬間、それがどんな声なのかがわからなくなる。
――まるで自分に関する情報を隠しているみたい……
しかし千羽はまるでその正体がわからないこと、その事実に確信を得た。
今目の前にいる人物こそ――。
――魔法売り……!
今学校内で最も流行りの噂。
依頼すればそのことごとくを魔法のように解決してくれると評判だ。
依頼をするには魔法売りへメッセージを送るための連絡先が必要となり、その連絡先は実際に魔法売りへ依頼したことのある人物しか知ることができないという仕組みらしい。
千羽も友人に教えてもらい、藁にもすがる思いで依頼のメッセージを送った。
まさか当日、すぐに返信が来るとは思っていなかった千羽だが、早く解決してくれるのならば何も不都合はない。
――本物だったんだ
魔法売りは、誰もその正体を知らない。
連絡先を教えてくれた友人も、その外見、風貌、性別、年齢、何も覚えていないと言っていた。
何をとぼけているのかと思ったが、いざこの人物を目の前にして理解した。
夢に出てくる登場人物のように、ここを――この教室を出ていくと記憶がなくなっていくのだろう。
そういうものなのだ。
だから皆依頼を終えた後の記憶が曖昧で、誰に聞いていも詳しいことがわからない。
ただ一つ共通して広まっているのは、
――どんな願いも叶えてくれる
期待が、胸の中に生まれる。
「じゃあ早速だけど依頼内容を聞かせてもらおうかな」
魔法売りが平坦な口調で問う。
「この前――」
目には目を。
歯には歯を。
得体のしれないあの現象をどうにかするには、得体の知れないものに頼る他ない。
千羽はつい先日起きた出来事を語るべく、堪えていた恐怖を吐き出すように話し始めた。