2.感じる熱の理由
ヘアゼナの町で最も高いサービスを提供する宿屋と言われる、【ペガサスの翼】。
セディラとファヴニールは、【竜滅の聖女】とその護衛──ではなく、【聖女様とその婚約者】として宿屋に迎え入れられてしまった。
「部屋も広くて綺麗だし、ベッドもソファもふっかふか。神殿に近い町というだけあって、王侯貴族も泊まれる水準にしてあるのは分かる。分かるんだけど……!」
頭を抱えたセディラの視界に広がるのは、とても大きなベッド。
……ただし、ベッドは部屋に一つだけ。
ファヴニールが『我とセディラは婚約者なのだ!』なんて事を言いふらしてしまったものだから、突然のおめでたいニュースに宿屋の従業員達は大喜び。
【竜滅の聖女】の電撃婚約などというとんでもない誤解を、これからどうやって解いていくべきなのか……。
ただでさえ妹のように可愛がっている聖女ミルラが勇者と婚約中であるのも影響し、第二の世界的ビッグカップルの誕生だと思い込まれてしまっている。
──それもこれも……!
「貴方が『照れ隠しだ』なんて余計な事を言ったせいで、私が何を言っても信用してもらえなくなっちゃったじゃないのよ! こんのぉ……顔だけ極上ポンコツドラゴン!」
と、相手を指差して怒鳴るセディラ。
けれども彼女の怒りをまるで理解していないファヴニールはというと、興味深そうにこの宿一番のスイートルームを観察して回っていた。
セディラの怒声に振り向いたファヴニールの長い三つ編みが、背中で竜の尻尾のようにふるりと揺れる。
「ん? 我は顔が良いのか? ほほう……。人間の美醜の価値観はいまいち分からぬが、そなたの目から見て好意的な外見であるのならば安心したぞ! さあ、存分に我の顔を愛でるが良い‼︎」
文句を言われたはずの残念な邪竜王は、何故だか罵声だけは聞き取れていないらしい。
ファヴニールはやけに誇らしげに胸を張っていた。
「〜〜〜っ! ポジティブさを極めた男って、こうも厄介なものなのかしらね⁉︎」
声にならない叫びを上げながら、セディラはやり場のない怒りを抱える。
……だが、セディラの中にあるのはそれだけではなかった。
ファヴニールが言う通り、確かに人間の姿を得た彼の見目は麗しい。
中身がここまで盲目的で残念な恋愛脳でなければ、うっかり恋に落ちてしまってもおかしくない程には。
天井に吊るされた光の魔石シャンデリアに照らされたファヴニールの黒髪は、女性でも羨むような艶やかさがある。
黒と真紅を基調とした鎧姿も様になっており、腰に佩いた長剣も相まって、どこかの国の王子だと言われても信じてしまう優雅さも感じられた。
何より、ファヴニールの切れ長の紅い瞳から常に伝わってくる──セディラを本気で愛しているという情熱。
ふと視線が合うと、彼はいつも『あの眼』でセディラを熱っぽく見つめているのだ。
──神殿騎士達とはよく関わる機会があったけれど、こんなに好意的な感情を異性から向けられた事なんて……これが初めてなものだから……!
「……どうした、セディラ? 我に見惚れたか?」
「うっ、うるさいわね! そんな訳ないでしょうが!」
「むぅ……そうなのか……」
軽く声が裏返ってしまったが、ファヴニールにはそんな動揺を悟られずに済んだらしい。
しおらしくなったファヴニールの落ち込んだ表情すらも、人間離れしたレベルで整っていた。彼のその様子はまるで、叱られた大型犬を思わせる。
けれども次の瞬間、善なる邪竜王の瞳に強い意思の炎が灯った。
「……ならば! そなたの心を射止めるまでの事っ!」
金属が擦れる音がしたと思ったら、ファヴニールは常人のそれを凌駕する速度でセディラに接近。
何事かとセディラが身構えるよりも早く、手袋に包まれたファヴニールの手が、セディラの指をガントレット越しに絡め取る。
そうして心底幸せそうに頬を染めながら、甘く声を掠れさせてファヴニールが唇を動かした。
「我がこうしてそなたと再び出逢えたのは、本来であれば実現するはずのなかった、神の奇跡のなせる業……。それが邪神の手によるものだというのが、多少複雑ではあるのだが……それでも我は、セディラの顔をもう一度見れた喜びに、この魂が震えたのだ」
「そ、そんな事言われてもっ……!」
今度こそ、セディラの裏返った声にファヴニールが気付いた。
彼の甘い微笑みに、勝手に頬が熱くなる。
それを必死で気付かないフリをして、セディラは言葉を振り絞る。
「……私は、聖女だから……。もし、貴方が世界の敵であると神が告げたなら……。私は……貴方の事を、もうこの手で一度殺さなくちゃならないのよ……?」
──それでも、貴方は。
「……それでも我は、そなたを想って地上へ辿り着いたのだ。神が我の死を望んだとしても、我はそなたへの愛を貫くと誓うぞ」
「……簡単に言ってくれるわね、邪竜王様は」
赤くなっているであろう顔を直視されるのが嫌で、空いた方の手で口元を隠して、彼から目を背ける。
「神が極上の寵愛を向ける人の子を、我が妻にしようというのだ。相応の覚悟は済ませているともさ」
そんなセディラに対して、ファヴニールは真っ直ぐに愛する女性を見上げていた。
己が本当に、この男を愛するようになるかは……よく分からない。
頬が熱くなるのも、彼の目で見詰められるのが気恥ずかしいと感じるのだって、これまで恋愛経験が無かったせいだ。……そうに決まっている。
いくら目の前のファヴニールが【善なる邪竜王】の側であったとしても、彼との恋を戦神が許すとは思えない。
──それでも貴方は……神の怒りを買ったとしても、こんな可愛げのない私を、愛し抜くと誓ってくれるというの……?
セディラはファヴニールの誓いの言葉に何も返せぬまま、静かに夜が更けていく。
とても広いベッドだからと言い訳をして、二人で同じベッドに潜り込んだ。
今夜の事はどうか神もお見逃し下さるように……と、隣に感じる温もりに包まれながら、セディラは目を閉じた。
明日は夜明けと共に、神殿へ行こう。
そうすればきっと、神がお導き下さるはずだから……。