第一話
緩やかに意識が浮上し、そっと瞼を開ける。
既に見慣れた水樹家の天井を見つめ、いつも通りの朝を迎えた。
しかし、すぐに違和感を覚える。
布団の中に――何かの存在を感じた。
具体的には俺のお腹辺りで誰かが丸まって寝ているような……。
猫を思い出しながら掛布団をめくると、案の定可愛い幼女が潜り込んでいた。
すー、すー、と聞いているだけで心が安らぐ可愛らしい寝息を立てている。
……乃々愛ちゃんだ。今は本当に猫のように体を丸め、俺の横腹にくっついて寝ている。
「おーい、乃々愛ちゃん」
「…………んぅ?」
優しく肩を揺すってやると、ぼんやりと目を開けて俺の顔を見つめた。子供特有の優しくふにゃっとした柔らかい笑みを浮かべる。
「あ、かずとお兄ちゃん。おはよー…………えへへ」
「……」
勝手に漏れ出る笑み、だろうか。可愛らしすぎて天使を彷彿させる。
「乃々愛ちゃん、どうしたの? 布団の中に入ってきて……」
可愛いと思いつつ初めてのことに驚いたので尋ねてみる。
乃々愛ちゃんは眠そうに目をこすりながら小さな声で応えた。
「んぅ……かずとお兄ちゃん、今日で帰っちゃうから……」
「そっか。最後だから一緒に寝たかったの?」
「うんー」
可愛すぎだろこの幼女。無邪気すぎる。
夏休みがもうじき終わるということで、俺は今日の夜、帰宅する予定だった。
俺が体を起こすのに合わせて乃々愛ちゃんも眠たそうに立ち上がる。
「そういえば凛香は?」
「んぅ? 朝から見てないー……」
「そっか、もう出かけたのかな」
人気アイドルにゆっくりと過ごせる朝の時間はないのかもしれない。
ここ数日間、遅くに帰ってきては早めに就寝し、朝早く出かけることが多かった。きっと今日もそうなのだろう。
「かずとお兄ちゃん、だっこー」
「はいよ」
バンザイしてねだってくる乃々愛ちゃんを優しく持ち上げて抱っこする。
まだ眠たいらしく、俺の胸に頭を預け、深い呼吸を繰り返し始めた。
朝にはとことん弱い子供だなぁ。乃々愛ちゃんの存在に微笑ましく思いながら部屋を出ようとし――背筋がゾクッとした。
すぐさま振り返り、押入れが微かに開いていることに気がつく。本当に微か。
中からギリギリ外を覗けそうな開き方だ……。
「どうしよう、なんか気配を感じる……!」
もうあれ絶対に居る。誰がとは言わないが、絶対に居る。
慎重に足を進め、押入れの前まで来た俺はゴクッと喉を鳴らす。
乃々愛ちゃんを下ろしてから腰をかがめ、ゆっくり扉を開けると――濁ったガラス玉のような目をした髪の長い女性が、体育座りをしてこちらをジッと見つめていた――!
「うわぁああ凛香ああああ!!」
「まるでお化けに襲われた時のリアクションね」
「なんで押入れの中に……!」
分かっていた……居るのは分かっていた……! それでもビビる。
クール系の人気アイドルさん、本当に何をしているんですか……いやまじで。
「和斗くん、今日で帰っちゃうから……」
「凛香もか……。それにしても押入れの中にいるのはおかしいだろ」
「一緒に寝るのは禁止されているでしょ? それならもう、押入れしかないわ」
「意味がわからない……っ! それに押入れに入ってどうするんだ……」
「この扉越しに和斗くんの寝息や存在を感じ取るの……ふふ」
「え、まさか一晩中――――?」
押入れという真っ暗な空間で、暗い笑みを浮かべる凛香。
これはヤバいな、アイドル活動が忙しすぎて疲れ切っている。
と思ったが、これが凛香の平常運転だよなーとすぐに思い直した。
「お母さんも酷いわね。私たちは夫婦なのに、別々の部屋で寝ることを強要するなんて……」
「夫婦じゃなくて恋人だけどね。でもそれが健全だとは俺も思うよ」
「和斗くんはお母さんの味方なのかしら。男の人は母親側につくと聞くし……やはり和斗くんもそうなのね」
「母親側っていうか、凛香のお母さんじゃん」
俺がそう言っても凛香は不満そうな顔をやめることはなかった。
そんな姿を見てしまうと、学校では男嫌いと噂され、世間からクール系アイドルと評される少女とは思えないなぁ。
☆
凛香の家族に挨拶をすませ、夜になり帰宅する。
久しぶりに見る家を前にし、何となく懐かしい気持ちになりながらカギを取り出してドアを開けた。
「ネトゲ、するかー」
そういえばログインボーナスを全くもらっていない。
夏休みイベントも全くしていなかったな。
あれ、最後にネトゲをしたのはいつだっけ?
――――やばい、めちゃくちゃしたい。
俺は、走った。
階段を駆け上がり、自室を目指して廊下を走る。
途中少女とすれ違ったので「あ、どうも」と挨拶すると、「……ど、ども……」と小さな声で返事をもらった。
「…………」
何か、おかしくない?
自分の部屋の前まで来ていた俺はピタッと動きを止める。
振り返った。ちょうど階段を降りようとしているのは一人の小柄な少女。フード付きの真っ黒な着る毛布で全身を包んでいる――――。
「って、誰だお前ー!」
「――――っ!」
ドタガタドタッと音を立てて少女が落ちる。
慌てて走り寄り、階段の下を覗いてみた。
「……い、いた……いた……ぅぅ」
見知らぬ真っ黒な少女が、頭を抱えて倒れていた…………。