第九話
にしても、さっきの凛香は可愛かった。
猫耳メイドという姿に加えて、にゃんにゃん鳴きながら甘えてくれたのだ。
ちょっと特殊な楽しみ方だとは思うが、男としては最高のシチュエーションだったかもしれない。
しかしお風呂ではどうなることか……。
俺の予想だが、凛香は『夫婦だから一緒に入るのは当然だと思うの』という謎の理論を展開してくるだろう。
「ご主人様……その、お風呂の準備ができたわよ」
「あ、はい。ありがとうございます」
なぜか敬語になる俺。
そして凛香は何かを言いたげにモジモジしていた。
どうしたんだ?
「その、一緒に……お風呂に入っても、いいかしら?」
予想は的中したが、思ったよりも控え目な言い方だった。
こちらの機嫌を損ねないように気を遣っている。
「凛香なら、もっと強気で言ってくると思ってたんだけどな」
「和斗くんは、お風呂は一人で入りたいタイプかもしれないじゃない? だから無理に言うと嫌われるかなと思ったの」
「嫌いにまではならないけど……」
「夫婦なんだから一緒に入るのはおかしいことじゃない。というよりも私が和斗くんと一緒に入りたいの……。やっぱりダメかしら?」
そんな言い方をされては断るに断れない。
まあ前提として夫婦ではないけど、恋人なのだから一緒にお風呂くらいは入ってもおかしくないだろう。
……世間のカップルはどんな感じなんだろうな。
「いいよ。一緒に入ろうか」
「ほんとうに? ありがとう和斗くん……いえご主人様」
安堵の笑みを浮かべる凛香。
そんなに俺とお風呂に入りたかったのか。
「でも条件として、凛香は水着を着用してください。俺はタオルを巻くので」
「何を言っているのかしら。私たちは夫婦なんだから、お互いの裸を見せあっても問題はないはずよ?」
「なんでそこは強気なんですか……っ! 猫耳メイドになるよりも躊躇いがないじゃん」
「そうね。猫耳メイドは恥ずかしかったわ」
「裸になるのは恥ずかしくないのか?」
「も、問題ないわ。だって私の体は……ずっと前から、和斗くんのものだし……」
「っ――――」
な、なんということだ。
顔を真っ赤にする凛香さんが凄まじい発言を放り込んできました。
やばい、全身の血が沸騰しているような気さえしてくる。
もし俺が草食ヘタレ男子でなければ今すぐ押し倒しているに違いない。
良かったな凛香、俺がヘタレで!
……これ、いいことなのか?
「やっぱり私は水着を着たほうがいいかしら? できれば何も着ずに入りたいのだけれど……」
「すみません。水着をお願いします。まず間違いなく俺の理性が吹き飛ぶので」
「そっちの方が嬉しい……いえ、ご主人様が言うなら仕方ないわね。水着に着替えてくるわ」
そう残念そうに言うと凛香はリビングから去って行った。
本気で裸が良かったらしい。
というか俺の理性が吹き飛ぶのも歓迎らしい。
「……色々とヤバいって」
水樹家に来る前、香澄さんから一線を超えろと言われた。
そして現在、凛香からも”そういうこと”を誘っている気配が感じられる。
いや気の所為かな?
勘違いかも。
俺が何をしても凛香は受け入れてくれそうな気はするんだがな……。
まだちょっと一線を超えるのに勇気を持てない。
我ながらヘタレだ……。
◇
「どうかしらご主人様。かゆいところはない?」
「えーと、大丈夫です」
目をぎゅっと閉ざし、体を強張らせて時間が過ぎ去るのを待ち続ける。
頭部全体に駆け巡るのは強弱のついた心地よい感触。
女の子の指……。
まさか凛香に頭を洗ってもらう日が来るとは思わなかった。
凛香が、どうしても俺の頭や体を洗いたい、と言うので承諾するしかなかったのだ。
椅子に座る俺は前傾姿勢を維持する。
薄っすら目を開けて横に視線を向けると、膝立ちして俺の頭を洗ってくれている凛香の姿が見えた。
長い後ろ髪を後頭部で一本に束ねている。
そして格好はオフショルダービキニ。
今日のプールライブで着用していた水着だ。
「和斗くん……ご主人様の髪の毛はさわり心地が素晴らしいわね。ずっと触っていても飽きないわ」
「そ、そう?」
「ええ。凄く幸せな気持ちになってくるの」
恍惚とした声が頭上から聞こえてくる。
本当に幸せそうだった。
わしゃわしゃわしゃ。
ひたすら頭を洗われる中、俺も凛香の指を頭で感じる。
優しく丁寧な指使いが非常に気持ちいい。
洗うというよりも、指の腹で揉むといった感じだろうか。
ほぼ頭皮マッサージだな。
あまりの気持ちよさに、緊張していた心が少しずつ落ち着いていくのが自分でも分かる。
「そろそろ流すわね」
「わかった」
目に水が入らないよう配慮されたシャワーで頭を流してもらう。
最初はどうなるかと不安だったけど、終わってみれば爽やかな気分に包まれていた。
「次は背中…………これは聡子さんに教えてもらったんだけど、男の子は女性の体で洗ってもらえると――――」
「普通にボディタオルで洗って下さい。俺のを持ってきたので」
「…………」
返事をすることなく、凛香が椅子に座る俺の背後に回った。
……ひょっとして体で洗いたかったのですか?
だがそんなエロ展開に耐えられるほど俺のメンタルは完成されていない。
許してくれ……。
「ふ……んっ……ん」
ボディタオルによる程よい刺激が背中に与えられる。
同時に、後ろからは妙に色っぽく吐き出された声が聞こえてきた。
一生懸命にゴシゴシと背中を洗ってくれているのだろう。
人気アイドルの凛香に体を洗わせていることに背徳感を覚えてくる。
しかも俺が洗わせているのではなく、凛香自身が望んでのこと。
今も「ふっ、ん、ん……っ」と凛香の口から漏れ出る声が艶かしく感じられ、自分の心拍数が上がっていくのが手に取るように分かった。
「背中は……こんな感じかしら」
「あ、うん。ありがとう」
「次は――――前ね」
そう言うなり、凛香が眼前に回り込んできた。
さらに俺の下半身に巻かれているタオルに手を伸ばしてくる。
「ま、まま、待ってくれ! 正気か⁉︎」
「正気に決まっているでしょう? 私は冗談でこんなことしないわ」
「もっと困るわ! え、抵抗ないの? 男のアレを触るのに?」
「和斗くんのだったら……むしろ触りたいくらいよ!」
「そんなハッキリ言われてもっ!」
「だ、大丈夫、安心して。こういうシチュエーションの妄想は何度もしてきたから、上手くできると思うの……っ」
ごくっと生唾を飲み込む凛香。
その艶めかしい光を宿す瞳は、もはや捕食者のそれだった。
……一応、凛香の言う夫婦という関係を抜きにして考えてみる。
恋人同士なら、別に問題はない気がしてきた。
というか世の中のカップルは、どんな感じなんだろう。
詳しくは知らないが、俺たちは平均的なカップルに比べて、進展が遅れている気がする。
俺が頭を悩ませていると、頬を赤らめる凛香が露骨にソワソワし始めた。
「いずれ…………だし、いいんじゃないかしら」
「え、いずれ、なに?」
声が小さくて聞き取れなかった。
深く考えずに聞き返す。
すると凛香は首元まで真っ赤にさせて口をモゴモゴさせた。
「い、いけずねご主人様。わざわざ私に言わせようとするなんて。いえ、それで喜ぶなら言ってあげる。せ――――」
「はいストップごめんなさい俺が悪かったです!」
その恥ずかしがる素振りと、そして”せ”で何を言おうとしたか分かってしまった。
まあ……そうだよな。
この状況、意識しない方がおかしい。
「…………」
「…………」
俺と凛香の間に沈黙が漂う。
泡立ったボディソープが背中に垂れていくのを感じる。
そういえば背中を流していなかった。
「……ま、前は自分で洗うよ。背中を流してくれるかな?」
「……え、ええ。任せて」
なんだろうな、世界中の男たちから「ヘタレ」と叫ばれそうな決断をした気がする。
いやでもなぁ、やっぱり恥ずかしい。
この一線を俺が越えるには、もう少し時間がかかりそうだ。
ザーッと適温のシャワーを背中に浴びせられる。
というかシャワーなら自分でも流せたじゃん。
「ありがとう凛香。じゃあボディタオル渡してくれるか? あとは自分で洗うから――――」
言葉を最後まで紡ぐことはできなかった。
なんせ、背中に驚くほどの柔らかい物体を押しつけられたからだ。
このザラザラとした感触は水着か。
その感触の向こうに、ムギュムギュと形を変える何かがあるのは間違いなかった。
さらに凛香の両腕が俺の上半身を強く抱きしめ、胸をこれでもかと押し付けてくる。
「り、凛香さん! どうされたのですか⁉︎」
ついに強行手段か!?
ヘタレな俺を見兼ねて、凛香から押し倒すことに決めたのか⁉︎
「そんなに……私って魅力がないかしら?」
「……凛香?」
「聡子さんが言っていたわ。精一杯アピールしても男が手を出してこない場合は脈なしだって…………。和斗くんは私のことが嫌いなの?」
今にも泣き出しそうなほど震えた声が耳元に聞こえてくる。
背中で感じる凛香の体も小刻みに震えていた。
「そんなこと、ないよ。俺は凛香が……好きだ」
「ならどうして?」
どうして……その言葉の意味は、あれだろうか。
押し倒すとか、そういう意味なんだろうか。
「それは……俺がヘタレと言うか、まだその段階じゃないと言いますか……」
「まるで言い訳みたいな喋り方ね。教えて和斗くん。私のどこがダメなの? 全部改善するから嫌いにならないで……」
「ダメなところはないよ! ……や、やっぱり初めては普通に部屋が良くないかなぁ!? お、お風呂でアレをするのは、もう少し段階を踏んでからだと思います」
自分でも混乱状態に陥っているのが分かる。何を喋っているのか分からない。
でもそれは仕方ないことだろう。
水着姿の凛香に抱きつかれ、儚げな声で何がダメなのかを尋ねられ……。
もう何から対処したらいいのか分からなかった。
「……私に魅力がないわけじゃないのね?」
「あ、当たり前だろ! 凛香は世界一魅力的な女の子だ」
「本当は手を出したくてたまらない?」
「も、もちろん……!」
「私のこと好き?」
「もちろんっ!」
「今日は一緒のベッドで寝てくれる?」
「もちろんっ」
「電気は少し暗めでいい? 初めてだから恥ずかしいの」
「もちろ――――え?」
「ありがとう和斗くん……本当に大好き」
ギュッと強く背中側から抱きしめられる。
今のやり取りは……そういうことなのか?
流れるような会話の中で、もの凄い約束をさせられた気がする。
どうやら凛香は――――本気のようだった。




