第一話
「あ〜3日後には夏休みだな〜」
額に汗が滲む昼休み。熱気のこもる教室。
セミたちの騒々しい鳴き声が鼓膜を震わせる状況下で、いつものように俺の席にやって来た橘が気怠そうに呟いた。
前席の椅子を借りて座る斎藤も「そうだね〜」と呑気な声で相槌を打つ。
「おい斎藤よー。お前、夏休み予定あんの?」
「何を言うんだい橘くん。あるに決まってるじゃないか」
「ほーん。なんだよ」
「まずは新刊に向けてラノベの読み直しをして、次にアニメ鑑賞したり、映画を観に行ったり……やることは山ほどあるね!」
「去年と同じじゃねえか」
「チッチ、その表現は少し違うかな。正しくは、中学一年の時から同じ、だよ!」
メガネをクイっとした斎藤が、無駄な決め顔で言い放った。
いつもなら憎まれ口を叩く橘だが、この唸るような暑さで気力を削がれたらしい。
へへ、と乾いた笑いを漏らすだけだった。
「綾小路くんは何か予定あるのかい?」
「俺は――――」
「いいよ答えなくて。どうせ水樹とイチャイチャしまくるんだろ? お互い汗だくになってよ」
「生々しいんだよ言い方がっ。凛香は忙しいから、あんまりプライベートでは会えないぞ」
イチャイチャと言う単語に顔が熱くなるのを感じる。
橘の言う通り、本当にイチャイチャできたらいいんだけどな。
凛香と付き合い始めて三ヶ月経つけど、デートしたのは一回だけだ。ネトゲの夫婦期間も合わせると数年間付き合っていることになるわけだが、まだ手を繋いだのみ。
プラトニックだな、俺たち……。
「あーチクショウ! リア充が妬ましい! お前ら知ってるか? あの佐々木に彼女ができたってよ」
「え、佐々木くんと言えば僕たちと同じクラスで、僕たちと同じく目立たない存在じゃないか! 一体どうして……」
「知るかよ。他にも彼女ができた奴が続出してるっつう話だ。夏休み前に駆け込んでやがる」
「き、気にすることないよ橘くん! 僕の計算によると、夏休み直前に付き合い出したカップルは、夏休みが終わる前に別れる確率が99%もあるからね!」
引きつった笑みを浮かべる斎藤が、プルプルと身体を小刻みに震わせながら強がる。
……何を根拠に確率を導き出したのだろうか。
「くそー! 夏休みのイベントなんて全部消えちまえ! とくに夏の最大イベント、花火大会! 全国の花火大会がゲリラ豪雨に襲われて中止になりますように!」
もはや血涙すら流しそうな勢いで、橘は窓から青空に向けて拝んだ。雨乞いか?
「なあ橘。なんで花火大会にそこまで言うんだよ」
「そりゃお前、花火大会がリア充イベントの代表格だからだよ。リア充爆発しろ!」
怒りに満ちた声を上げたせいで、クラス内の視線を集める橘。
一部男子からは勝ち誇ったような顔を向けられている。
あー、あれはムカつくな。
ビンタしてやりたい。
まあ橘からすれば俺もリア充だろう。
実際、否定できないし、自分でも最高の人生だと思っている。
俺の人生は、凛香とネトゲの二つがあれば究極的に満ち足りちゃうのだ。
「ちょっとトイレ行ってくる」
ふと尿意に襲われた俺は立ち上がる。
いってらー、と橘たちに見送られて教室から出て行き、何事もなく男子トイレに辿り着いた俺は小さい方を済ませる。
そして教室に戻るべく、たまたま無人となった廊下を歩いている時だった。
「…………」
背中に穴が空くほどの視線を感じる。
俺は人の視線を感じ取れるような暗殺者的な特殊技能は持ち合わせていないが、それでもヒシヒシと熱い視線を背中に感じていた。
「…………」
おもむろに振り返ってみる。
凛香だ。
少し歩いた先にある曲がり角。
そこから頭だけをひょっこり出して、こちらをジーっと見つめていた。
どこか小動物的な可愛らしさを彷彿させる。
校内での接触は控えるのが約束だけど、今は運良く周りに生徒が居ない。
少しだけなら構わないか。
俺は廊下を見渡して人が居ないかを確認してから、曲がり角から頭だけを出す凛香に歩み寄った。
「そのー、凛香さん? 何をしていらっしゃるんですか?」
「愛する夫を眺めているのよ」
平然と言ってのけた凛香の顔を見つめていると、不思議そうに首を傾げられた。
周囲から声や足音は聞こえないし、もう少しくらいなら構わないか?
橘たちとの会話の影響だろうか、もっと凛香と距離を詰めたい欲求が生じていた。
俺は凛香の頬に両手を伸ばし、ムニムニと優しく揉んでみる。
「か、かふとくん……?」
頬をムニムニされていることに疑問を抱きながらも、そのクールな目つきは心地良さそうに細められている。抵抗することなく、されるがまま。ムニムニ。めっちゃ柔らかい。
きっと凛香は俺以外の男には頬を触らせないんだろうなぁ。それが分かっているだけに、今の時間が特別に感じられる。
「ん、ん……っ」
ムニムニしていると、次第に凛香の表情がとろけていく。
手の感触から柔らかい頬の感触と温かさが伝わってきた。
やみつきになりそうだ。
くわえて俺たちの関係は誰にもバレてはいけないというのが、これまた絶妙のスパイスとなって緊張感を演出してくれる。
いや、危険なのは理解しているけども。
「か、和斗くん……そろそろ……」
「あ、あぁ、ごめん」
申し訳無さそうに名前を呼ばれたので手を離す。
しかし凛香も名残惜しそうに俺の手を見つめていた。
「ごめんなさい。本当はもっと和斗くんに触ってほしいのだけれど……足音が聞こえてきたから……」
「そ、そうだな。ごめん」
曲がり角の向こうから足音が近づいてくる。
甘えるような顔をしていた凛香だったが、すぐにキリッとしたクール系の顔を浮かべて去って行った。
……なるほど、あれが人気アイドルの実力か。
切り替わりが恐ろしく早い。
俺なんか未だ両手に感じる頬の余韻を忘れられないからな。
「……今更だけど、恋人らしいことをしてない気がする」
去っていく凛香の背中を眺め、改めて思う。
それっぽいイチャイチャはしているけど、時間にしたらごく僅かだ。
デートも一回だけ……というか、付き合ってから一度もデートをしてないんですがっ……!
この間の休日も凛香の家に遊びに行ったけど、乃々愛ちゃんと3人で過ごしたからなぁ。
俺と凛香が気兼ねなく遊べる環境と言えば、やはりネトゲしかない。とはいえリアルでも一緒に過ごしたいわけで……。
「せっかくの夏休みだし、一緒に遊びたいよな~」
今までのようにネトゲ内で遊ぶのも悪くはない。
しかし、お互いの正体が判明して恋人になったのだ。
リアルでも一緒に遊びたい……!
「よし! 計画を練ってみるか!」
今までの夏休みは、ネトゲをするor橘、斎藤と意味不明な遊びをするくらいだった。
けど今年の夏休みは違う!
出来る限り凛香と充実した日々を送ってみせるぞ!