第十七話
「かずとお兄ちゃん! あそんでー」
ソファに座り寛いでいた俺のもとへ、元気溌剌な乃々愛ちゃんがダッシュで駆け寄ってきた。水樹家でお世話になる以上、必ず起きるイベントと言える。今晩、俺は水樹家に泊まることになっていた。この家にいるのは俺、凛香、乃々愛ちゃんの三人。凛香の両親は旅行で不在。香澄さんは友達の家に泊まっているらしい。
「だっこ! だっこしてー」
ソファから立ち上がった俺は、ばんざいしてねだってくる乃々愛ちゃんを優しく持ち上げ、だっこする。嬉しそうに明るい笑みを浮かべた乃々愛ちゃんは「わー、たかーい!」と無邪気に喜んでいた。可愛い。そこへ凛香がやってきて、俺に話しかけてくる。
「乃々愛は和斗くんのことが大好きね。ま、私の方が好きだけれど。というより、私は和斗くんを愛しているわ」
「幼女に張り合わないでください……!」
「張り合う? 変なことを言うのね。私は事実を言ったまでよ」
ちょっと不満そうに言う凛香。絶対に張り合っている。
「乃々愛、そろそろお風呂に入りましょうか」
「んぅ? まだ早いよ?」
「明日、早く起きなくちゃダメでしょ?」
「うんー。凛香お姉ちゃんのライブにいくー」
乃々愛ちゃんが凛香に向かって両腕を伸ばす。抱っこの移動だ。凛香は俺から乃々愛ちゃんを受け取り、そのまま抱っこして浴室に向かった。……明日は凛香のソロライブだ。俺が凛香の家に泊まっているのも、ライブに備えてのこと。明日の朝、香澄さんが帰ってきて、俺と乃々愛ちゃんを車に乗せてライブ会場に向かう予定になっている。
「ライブ、か。初めてだなー」
スマホの画面越しにしか見たことがない光景を、生で見ることができる。ライブならではの迫力をこの身で体験できるということだ。緊張と期待が同時にこみ上げてくる。
「かずとお兄ちゃん! いっしょに入ろー」
浴室に連れて行かれたはずの乃々愛ちゃんが、タターッと駆け寄ってきた。服は着ているものの、頭の両横で結ばれていた髪の毛は下ろされている。子供らしさが軽減されているが可愛らしい。そんな乃々愛ちゃんは俺の服を引っ張って「はいろー」と無邪気に誘ってくる。
「いや……さすがにちょっと……」
「んぅ? わたしとお風呂に入るの、いやなの? ……ぐすっ」
「いやじゃないよ!」
「ほんと? じゃあ入ろー」
一瞬涙目になっていたが、俺の返事を聞いてニコニコになる。
天使とお風呂……? 最高のイベントに思えるが、何かのミスで天使の目を汚すわけにはいかない。そもそも人間風情が天使とお風呂に入ることは許されないだろう。何よりも俺自身が許さない。
「かずとお兄ちゃん?」
「凛香とお風呂入るんでしょ? なら俺は邪魔になるよ」
「んぅ? だいじょうぶ! 三人で入れるもん」
「それは余計にまずい……!」
天使+人気アイドル+ネトゲ廃人。どう考えても俺が邪魔な存在だ。
浴室で待っていたのだろう凛香が、しびれを切らしてやって来る。俺の服を引っ張る乃々愛ちゃんを見て、若干呆れたような表情を浮かべた。
「乃々愛ー。早くいらっしゃい」
「ねね、凛香お姉ちゃん。かずとお兄ちゃんもいっしょがいいよね?」
「一緒? ……和斗くんも一緒にお風呂ということかしら」
「うんー!」
「そ、それは……そのっ……まだ、早くないかしら……!」
「んぅ?」
サッと頬を赤く染めた凛香は、俺に一瞬だけ視線を飛ばしてから目を伏せた。恥ずかしがっているらしい。普段から夫婦とか言っているのに……。俺も凛香とお風呂に入ることを想像し、顔が熱くなるのを感じる。
恥ずかしいという感情を未だに体験したことがないのだろう、乃々愛ちゃんは凛香の仕草に疑問を抱いている様子だった。
「凛香お姉ちゃん? かずとお兄ちゃんも入れて、三人でお風呂に入ろー」
「だ、ダメよ! 確かに私と和斗くんは強く愛し合う夫婦……けれど、肌を見せ合うのはまだ早いわ……」
「そうなの?」
「ええ、そうなのよ。だから和斗くんはリビングで待機」
「んぅ……わかった」
しょんぼりと項垂れた乃々愛ちゃんは、凛香に手を引かれてリビングから出ていく。残された俺は「夫婦って言いながら、その辺は恥ずかしがるんだな……」、と凛香の反応を思い出しながら、熱が宿った頬を指で掻くのだった。
☆
凛香たちがお風呂から上がり、俺の番となる。熱気が抜けきらない浴室に入るのは初めてのことだった。風呂椅子に座り、シャワーを浴びる。人気アイドルの家で何をしているんだろうな、俺は……。貴重な体験なのは間違いない。
頭を洗い終えた直後のことだった。浴室のドアが開かれる音が、背後からした。まさかと思いながら振り返る。そこにいたのは凛香だった。淡い水色のパジャマに着替えていたはずなのに、今はシャツと短パンに変わっている。
「夫の背中を流すわ――――あ、だめ。それ以上振り返らないで。和斗くんのあそこやあそこが……見えちゃう」
ササっと顔を背けた凛香が、小さな声でそんなことを言う。仕方なく俺は前を向いた。
「は、肌を見せ合うのは早いと言ってなかった?」
「ええ、だから見せ合っていないでしょう?」
「一方的に見るのはいいのか……!」
「正しくは、私が和斗くんの肌を見るのはオッケーよ。……あ、でも大切なところは、なるべく隠してほしいわ。まだちょっと、心の準備が…………っ」
「…………」
振り返らなくてもわかる。浴室の温度関係なく、凛香の頬は真っ赤になっているだろう。恥ずかしがるくせに、夫婦としての行動を一貫しようとしている。不思議な女の子だなぁ……。
ドアを閉める音が響き、すぐ後ろに気配を感じた。背中越しに「タオル……いいかしら」と言われたので、用意していたボディタオルを振り返らずに渡した。人気アイドルから背中を洗ってもらえる、そんなシチュエーションに幸福感よりも緊張感が勝ってくる。
「じゃあ、いくわよ」
凛香の声も微かに震えていた。俺と同じく緊張している様子。
背中にそっとザラザラした感触が当てられた。優しく上下に擦られ、少しくすぐったく感じる。徐々に力は増していき、快感を覚え始めた。
「どうかしら?」
「気持ちいい……。凛香、上手…………」
「それは良かったわ。毎日イメージトレーニングをしてきた甲斐があるわね」
「イメージトレーニング? 背中を洗うイメージトレーニングを?」
「ええ。愛する夫、和斗くんの背中を洗うイメージトレーニングよ。この瞬間のために私は努力を重ねてきたわ」
そ、そこまで俺を……! 過剰気味に思えるが、凛香の想いに対して素直に嬉しく感じる。
「和斗くんの妻は…………私よ。たとえ何があろうと、ね」
「…………?」
どこか重みのある真剣な声だった。




