第三話
朝の教室。辺りは生徒たちの談笑で騒がしい。
その空間の中で、自分の席に座る俺は未だに緊張していた。
昨晩から心臓がドキドキしっぱなしである。
おかげで朝食をまともに食べることができなかった。ゆで卵一個だけである。
「……」
教室の角の席に座る俺は、教室全体をグルリと見回す。
隣席の人と楽しそうに会話する女子生徒や、運動部仲間で集まった男子生徒の集団……。他にも派手目な女子生徒たちが騒いでいるのが確認できた。
もちろん最前席に座る水樹さんの背中だってバッチリ見える。
おもむろに俺はズボンのポケットからスマホを取り出した。
ゲーム用のボイスチャットアプリを起動する。
リン……水樹さんからのメッセージは来ていない。
俺からチャットを送りたいけど、どういった内容を書けばいいか思いつかなかった。
何でもいいから彼女から反応が欲しい。
そう思いながら俺は水樹さんの背中を眺める。
お手本のように綺麗な姿勢で座る彼女は、周囲の喧騒を気にせず本を読んでいた。
どんな内容の本なんだろう。勝手なイメージだが、水樹さんは海外の作家さんが執筆した小難しそうな物語を好む気がする。
ちなみに俺は完全無欠ゴリゴリのライトノベルが大好きである。
とくに最近はウェブ小説にハマっていた。
「……水樹さん」
後ろ姿を見ているだけで心が癒やされるなぁ。
今でも水樹さんとゲームをしていたなんて信じられない。
それも中学の頃からなんて……。
机に肘をついてボーッと水樹さんの後頭部を眺めていると、不意に水樹さんが振り返ってきた。
目が合う。
「――――っ」
ドクンッと心臓が跳ねた。
突然の事態に身体が固まってしまう。
すると次の瞬間、水樹さんが無表情のまま右手を小さく振ってきた。
俺もとっさに振り返す。
それで満足したのか、水樹さんは再び体を前に向けて読書を再開した。
「お、おぉ……!」
たとえようのない感動が胸の内から湧いてくる。
俺、あの人気アイドル水樹凛香と手を振っちゃったよっ!
しかも目を合わせながら!
昆虫のような素早い動きで、俺は周囲にいる生徒たちの様子を窺う。
誰も今のやり取りに気づいていないようだ。
もし気づかれていたら、ちょっとした騒ぎが起きていたことだろう。
なんせ水樹さんは男嫌いという噂が立つくらいのアイドルだからな。
こんな冴えない男子と交流があるなんて知ったら誰もが仰天する。
「……本当にリンは水樹さんなのか」
昨日の時点で確定した事実を再度改める。
こんな奇跡って、あるんだな。
☆
四時間目の授業が終わり、昼休みを迎えた。
食堂組の生徒たちは、立ち上がり教室から出て行く。残された生徒たちは、友達と机をくっつける者と、自席で大人しく弁当を広げる者に分かれた。
俺も弁当組なのだが、今回は約束があるわけだ。
「うす綾小路。飯食おうぜ」
「やあ綾小路くん。今日もこの僕が来たよ」
俺が椅子から腰を上げようとした時、二人の男子生徒がやって来た。
ぽっちゃり体型の男子と賢そうなメガネ男子だ。
ぽっちゃりの方は【橘】で、メガネの方が【斎藤】。
普段は俺たち三人で休憩時間を過ごしている。
馴染みのメンバーというやつだ。
そんな彼らに対し、俺は手を合わせて謝罪する。
「悪い。今日は約束があるんだ」
「は? 何言ってんだよ。俺ら以外に昼休みを過ごせる相手がいるのか? いないだろ?」
「その言われ方はムカつくな。……事実なんだけども」
「綾小路くん、変なことを言って時間を無駄にしないでくれよ。僕の計算によると昼休みは40分しかない。早く食事を済ませて今月のラノベについて語り合おうじゃないか」
斎藤がメガネをクイッと上げながら言ってきた。
……どうでもいいことだけど、昼休み40分は計算しなくても分かる。
むしろ何を計算した?
「本当に約束があるんだ。俺行くから」
「ちょっと待てよ」
橘に腕を掴まれる。なんだと振り返ると、橘が小さい声で尋ねてきた。
「ひょっとして……女子じゃないよな?」
「……」
「おい綾小路?」
妙な迫力で凄まれたせいで口を閉ざしてしまった。
肥満体質で身長が低い橘ではあるけど眼力が意外と強い。
俺は少しばかり気圧されていた。
「待つんだ橘くん。僕の計算によると、綾小路くんに女の子の友達ができる確率は0.4%しかない。聞くまでもないよ」
「いや低すぎるだろ! たかが女友達ですら絶望的なのか……!」
せめて10%は欲しい。俺が女友達を作るのに妥当な確率だろう。
……それでも低いけどな!
「じゃあ約束って誰としたんだよ」
「……水樹さん」
身を縮める思いでポツリと呟く。
すると橘と斎藤は互いに顔を見合わせてから愉快げに笑い出した。
「ぶあははは! 何を言い出すんだよ! お前と水樹が昼を一緒に過ごすってか!?」
「まあ、その、うん。食堂に誘われてて」
「そんなのありえるかよ! 妄想も大概にしろよ!」
「そうだよ綾小路くん。僕の計算によると、綾小路くんが水樹さんに誘われる確率は天文学的数値だよ」
「天文学的数値ってなんだよ。少し賢そうに言ってんじゃねえぞ」
馬鹿にするように盛大に笑われて普通にイラッとした。
ビンタしてやろうか。
「ははははっ! 笑わせてもらったぜ綾小路。お礼に俺様のピーマンを一個やるよ」
「いらね。自分で食えよ」
「落ち着くんだ綾小路くん。僕からもナスを提供しよう」
「おぉマジで? ありがとう――って言うわけないよね? 嫌いな食べ物を押し付けてるだけじゃん、お前ら」
こいつらフザケやがって……!
でも信じられないのも無理はない。
俺だって現実感がないのだから。
「少しいいかしら?」
「えっ――――」
後ろから声をかけられたので振り返る。
水樹さんだ。
人によっては冷血とも受け取りそうな無味な表情を浮かべて、俺の後ろに立っていた。
「和斗くん。私との約束は忘れていないわよね?」
「わ、忘れてないよ。今行こうと思っていたところ」
「そう。良かったわ。なら早く食堂に行きましょうか。あまりグズグズしていると混んでしまうもの」
そう言い放った水樹さんは、俺たちに背中を向けて教室の出口に歩いていく。
さすがクール系アイドル。
喋り方から歩き方まで堂々としていた。
「お、おいおい……。綾小路……?」
「そ、そんな……。僕の計算が……っ」
俺たちのやり取りを見ていた橘と斎藤が、金魚のように口をパクパクとさせていた。
すごい間抜けな顔だな。
「あ、あー。そういうことだから、俺……行くわ」
「綾小路! どんな手品を使ったんだよ! ネトゲ廃人のお前がアイドルと飯に行くなんてありえねえだろ!」
「僕の計算によると明日は隕石の雨が振るね」
「……お前ら、あとで覚えておけよ」
散々な言われようだ。それとネトゲ廃人はやめてくれ。
一応、趣味の範囲でとどめているつもりだから。
気つけば彼らだけではなく、教室に残る一部の生徒たちからも注目を集めていた。
……めんどくせっ。目立つのは嫌いだ。
俺は逃げるようにして水樹さんのあとを追いかけるのだった。