第十六話
「わーわー! 男の人ー! 凛香お姉ちゃんが男の人つれこんだー! わー!」
「こら乃々愛! 変な言い方はやめなさい!」
「男の人、男の人ー!
嬉しそうに騒ぎ立てる乃々愛ちゃんは、凛香から注意されながらも興奮は冷めない。部屋内をグルグル駆け回り「つれこんだー!」と叫んでいた。俺は俺で幼女とは思えない発言に驚きを隠せないでいる。
「あのー乃々愛ちゃん? 男を連れ込んだの意味、分かってる?」
「えとね、男の人をお家に入れたときに言うんだよねっ!」
「正解だけど不正解だ……!」
「んぅ?」
不思議そうに首を傾げる乃々愛ちゃん。意味までは知らなかったらしい。
そして俺をジッと見上げ、思い出す仕草を見せながら呟く。
「…………かずと?」
「うん。俺の名前は和斗だ」
「今から凛香お姉ちゃんとのぼるの?」
「のぼる? どこに?」
「えとね、大人の階段!」
「はっ――――!?」
ぺカーッと眩しく無邪気な笑みを浮かべる乃々愛ちゃん。
「かずと、凛香お姉ちゃんとのぼる?」
「いや……いやいや!」
なんて無垢な瞳でやらしいことを聞いてくるのだろうか。
まず間違いなく意味を分かっていない。そのことが分かるだけに、どう答えたらいいのか悩んでしまう。
「ちょっと乃々愛いい加減にしなさい!」
さすがの凛香も本気で怒り出す。そうだ、ここは姉としてしっかりとした教育を――――。
「大人の階段を登るかなんて、そんなの愚問よ! 私たちはとっくの昔に登ったわ!」
登ってませんけど!? 俺たち、ネトゲで結婚しただけだから!
そう心の中で叫ぶ俺をよそに、凛香は自信満々の謎のどや顔を披露し、乃々愛ちゃんは満面の笑みを浮かべて「わー! すごいすごーい!」とパチパチ手を叩いて喜んでいた。……この姉妹、常識から飛び出している!
「かずとは凛香お姉ちゃんの恋人なの?」
「違うぞ」
「ええ、私たちは恋人じゃないわ。夫婦よ」
…………。
ま、そう言いますよね。
「んぅ? 二人が結婚してるってことは…………かずとがわたしのお兄ちゃんになるの?」
「そうよ」
「いや、ちょ――――」
「わーい! わたしね、ずっとお兄ちゃんがほしかったの! わーい!」
…………。もう取返しがつかない。
バンザイするほど無邪気に喜ぶ乃々愛ちゃんに、俺は口を閉ざすしかなかった。
この幼女から笑顔を奪うことはできない。
「どうしたの和斗くん? さっき何か言いかけなかったかしら」
「…………なんでもないです」
「そう……。何でも言ってね。私たちは夫婦なのだから」
そう言われるから、言えないんですよ…………。
なんだろ、猛烈な勢いで外堀を埋められている気がする。
「あのね、その……かずとお兄ちゃん……?」
「――――ッ!」
照れくさそうに、そして慎重に尋ねるようにして言う乃々愛ちゃん。緊張しているのか、上目遣いで見てくる目には不安の色が宿っていた。
「かずとお兄ちゃん? かずとお兄ちゃん……。かずとお兄ちゃん!」
お兄ちゃんという言葉を噛みしめるように、あらゆる言い方を試みていた。
その姿があまりにも純粋かつ可愛すぎて胸が弾けそうになる。
あぁ、これが天使か――――!
「じーっ」
「…………凛香?」
一切瞬きせず、凛香がジト目を向けてくる。
「和斗くんは小さい女の子が好きなのね」
「なんか違う意味に聞こえるんですけど?」
「じゃあ好きじゃないの?」
「特別好きってわけじゃないけど…………」
「んぅ? かずとお兄ちゃん、わたしのこときらいなの? ぐすっ……」
乃々愛ちゃんは今にも泣き出しそうなほど顔をくしゃくしゃに歪める。両目からは涙が盛り上がっていた。もはや大泣き寸前…………!
「嫌いじゃないよ! とても好きだよ!」
「ほんと? わーい!」
「やっぱり和斗くんはロリコンなのね」
「どう答えてもアウトじゃん!」
☆
「ねね、和斗お兄ちゃん! 次はお馬さんになって!」
めっちゃ懐かれた。
お兄ちゃんに憧れていたのもあるのだろう、乃々愛ちゃんは遠慮なく俺に甘えてくる。
この無邪気さが子供らしい魅力にも感じられた。ていうか天使そのもの。
「お馬さんお馬さん!」
「はいはい。ちゃんと掴まってろよ」
このように懐かれてしまった。
背中に乃々愛ちゃんを乗せた俺は、四足歩行で部屋内を歩き回る。
これが意外と楽しくて困る。
「最初はどうなるのかと思ったけど……和斗くんは子供の相手が上手ね」
「どうだろうな。俺は俺で楽しんでるだけだし……」
乃々愛ちゃんが異常なほど人懐っこいのもある。
ふと、中学の頃の懐かしい記憶を思い出した。
学校の授業で保育園に行った際、園児たちにワラワラと集まられたのだ。
鼻水を俺の制服で拭かれたり、男の子に足を蹴られたり女の子に抱きつかれたり……。
散々だったけど楽しかったなぁ。
「お兄ちゃん、今度は腕ブランコがしたい!」
「あー、あれか。してもいいけど、その代わり俺が来たことは皆に内緒な?」
「分かった!」
元気よく俺の背中の上で返事する乃々愛ちゃん。
馬から二足歩行の人間に戻った俺は、右腕に乃々愛ちゃんをぶら下げて優しく振る。
思ったより軽い。
「凄い……和斗くん、力があるのね」
「乃々愛ちゃんは小さいからな、これくらいなら俺でもできる…………くっ」
と言いながら全身をプルプル小刻みに震わせて、懸命に腕ブランコを努めていた。
乃々愛ちゃんは同年代に比べて軽いほうだろうけど、ネトゲ廃人でインドア派の俺には多少キツイ。
こりゃ筋肉痛になるのは確定か!?
「あははは! お兄ちゃんすごーい!」
「だ、だろ……っ!?」
ふと窓に映る自分の顔が見えた。
鬼のようなすごい形相をしていた。
□
「今度はネットゲームがしたい!」
「ダメよ乃々愛。まだ早いわ」
「早くないもん!」
俺を遊具にして遊ぶことに飽きたのか、今度はネトゲを要求する乃々愛ちゃん。
「乃々愛はまだ小学一年生でしょ? せめて中学生になってからね」
「凛香お姉ちゃんだけズルい! 私もしたい!」
「ダメ」
「ん~~~っ。……和斗お兄ちゃん、お願い」
「え、俺?」
いきなり矛先が変わった。
期待に満ちた眼差しを乃々愛ちゃんが向けてくる。
「ダメよ和斗くん。乃々愛には早いわ」
早いって、ネトゲに年齢制限とかあったかな。
いや水樹一家の考え方に口出しすることでもないか。
「和斗お兄ちゃん……!」
うるうるとした瞳を向けられ、俺は天使に即敗北する。
「凛香、少しくらいなら良いんじゃないか?」
「はぁ、甘すぎるわね。…………本当に少しだけだからね?」
「やった! ありがとう凛香お姉ちゃん!」
嬉しそうにピョンピョン跳ねる乃々愛ちゃんを見て、凛香は渋々といった様子を見せていた。
まあ確かにこの歳からネトゲにハマらせるのは良くないかもな。
けど姉が楽しそうにネトゲをしている姿を見れば妹だって興味をそそられるのは必然だろう。
無理に我慢させるよりは少しだけでも経験させる方が良いと思うんだが……。
凛香がパソコンを起動して黒い平原を立ち上げる。
椅子に乃々愛ちゃんを座らせてキャラクター作成のメニューを開いた。
一からプレイさせるようだ。
「んぅ? えーと……」
拙い操作でキャラクターの造形をイジる乃々愛ちゃん。
横から凛香が優しい口調で説明している。
何だかんだで仲の良い姉妹なのが伝わってきた。
俺は凛香のベッドに腰掛けて二人の後ろ姿をボーっと眺める。
彼女達の様子からして時間がかかりそうだ。
やがて三十分近くかけて乃々愛ちゃんの初キャラクターが完成する。
黒いローブを羽織った小さな女の子だった。
名前は『ノノア』。
リアルの自分に似せたらしい。
「みてみて和斗お兄ちゃん! この子、可愛い?」
「うん、凄く可愛いぞ」
「えへへ」
俺が褒めてあげると乃々愛ちゃんは満足気に微笑んだ。
そして始まるチュートリアル。
「えと、移動するのが……これ?」
「うん、そうよ。スペースキーを押すと……」
初めてのマウスキーボード操作に苦戦しているのか。
乃々愛ちゃんはアタフタしながら画面内のキャラクターを操作している。
なんとか歩行ミッションを達成すると、ゲーム内における師匠的ポジションの白ひげ爺が『やるな! すごいぞノノア!』と拍手しながら褒めちぎった。
「えへへ、褒められちゃった。ねね、和斗お兄ちゃん、私って偉い?」
「ああ、偉いぞ~」
嬉しそうに尋ねられたので、頭を撫でてやりながら褒めてやる。
子供って本当に無邪気で可愛いよなぁ。
俺なんか『下らないこと言ってないで、さっさとチュートリアルを進めろよ。スキップないの?』とか思っちゃうもん。
「……それくらい私もできるのだけれど」
え? 何かがボソッと聞こえた。
聞き間違いか?
俺は気にせず乃々愛ちゃんの後ろに立って画面を眺める。
今度はモンスターと戦うチュートリアルが始まった。
攻撃されてもHPは減らないので絶対に勝てる戦いだ。
乃々愛ちゃんは「えい、えい」と可愛らしく声を発しながら拙い操作でモンスターに火玉を何度も放ち、余裕(?)の勝利を収める。
『ふむ、さすがはノノア! すごいぞ!』
「やった! 私、すごいんだって!」
目を輝かせた乃々愛ちゃんが、俺の袖をクイクイ引っ張って褒めてアピールしてくる。
「凄いなぁ乃々愛ちゃん」
俺は優しく乃々愛ちゃんの頭をヨシヨシする。
本当に純真で可愛い。
神様、心の底から妹が欲しいです!
「私、そんなことで和斗くんに褒めてもらったことがないのだけれど」
「……あの、凛香さん?」
「何かしら?」
「ひょっとして、自分の妹に対抗してます?」
「してないわ。私は独り言を言ってるだけよ。変な勘違いをしないで」
クールな装いを崩さず否定する凛香。
……なんなんだ。
不思議に思いながらも、乃々愛ちゃんのゲームプレイを見守りながら褒め続けること一時間半。
その間、隣の凛香が「初めてにしては上手だけど、そんなに褒めることかしら」とか「いくら子供とはいえ褒める基準が低くない?」と呟いていた。
「目がショボショボするー。ねむぃ」
マウスの手を止め、乃々愛ちゃんが瞼を擦りながら呟く。
「ちょっとゲームをやり過ぎたな。目が疲れてるんだ、今日はここまでにしよう」
「うんー。和斗お兄ちゃん、抱っこー」
眠たげな乃々愛ちゃんが俺に向けてバンザイしてきた。
「ダメよ乃々愛。あまり和斗くんに迷惑をかけないで」
「ん~。抱っこ~」
「いい加減に……」
「俺なら大丈夫だよ。ほら、おいで乃々愛ちゃん」
語気を荒くし始めた凛香を制するように、俺は自ら乃々愛ちゃんを抱っこする。
軽くて温かい。
「もう小一なのに……」
「そんなもんだろ。俺なんて小三になってもお母さんに抱っこして~って甘えてたぞ」
「甘えん坊だったのね。……小さい頃の和斗くん、ありだわ……!」
「……」
おいおい、一瞬だけ犯罪者の顔つきになっていたが大丈夫か?
俺は凛香から乃々愛ちゃんに意識を移す。
目がトロンとしていて今にも寝ちゃいそうだ。
ネトゲをする前に俺を玩具にして暴れていたからなぁ。
その前にも友達と遊んでいたみたいだし……。
「和斗くんは子供が好きなのね」
「そうだな。否定はしない。凛香は嫌いなのか?」
「好きよ。だってこの子達には打算がないもの」
その通りだ。
子供は相手の容姿やステータスとか一切考えない。
中には例外もいるだろうけど、基本的に子供は純粋なもの。
ネトゲと同じように、心のコミュニケーションが取れる存在だろう。
「そういえば凛香。もう夕方だけど、俺は帰らなくて大丈夫なのか?」
「ええ。お母さんが帰ってくるのは夜頃よ。それとお父さんは仕事で帰ってこないから気にしなくていいわ」
「日曜なのに大変だな。お母さんも仕事なのか?」
「いいえ、高校時代の友達と日帰り旅行に行ってるわね。スキップするような足取りで家から出て行ったわ」
「陽気なお母さんだな……。大学生のお姉ちゃんは?」
「お姉ちゃんは友達の家に泊まりっぱなしね。きっと今日も帰ってこないでしょう」
少しだけ寂しそうに言う凛香。
やっぱり家族を愛しているんだなぁ。
俺にはよく分からない。
「スー、スー……」
胸元から聞こえてくる安らかな寝息。
本当に寝てしまった。
随分と可愛らしい寝顔を浮かべている。
天使かよ。
俺が乃々愛ちゃんの可愛らしさを堪能していると、凛香にツンツンと左肩を突かれた。
「ん、なに?」
「その、妹を可愛がってくれるのは凄く嬉しいのだけれど……。少し構いすぎじゃないかしら」
視線を遠慮がちに逸しながら、頬を朱に染めた凛香が小さな声で言ってくる。
……まさか、妬いてる?
え、まじで?
「……凛香?」
「ちゃんと、私のことも……見て……」
「――――っ」
凛香が、やや恥じらいつつも上目遣いで訴えてくる。
どうしよう、メチャクチャ可愛く見えてきた。
今まで感じてきた可愛さとは違う。
胸の中に温もりが広がるような、愛おしい可愛らしさ……。
「凛香……」
「和斗くん……」
窓から差し込む夕日が、凛香の端正な顔に陰影を作り出す。
乃々愛ちゃんの寝息だけが聞こえる空間において、俺と凛香の意識は互いだけに集中していた。
「…………」
一歩踏み出せば唇が触れ合えそうな至近距離で見つめ合う。
時間の流れが溶けていくような錯覚を覚えた、その直後――――。
「久々の我が家だぁ! あれ、凛香と乃々愛に……え、この靴、誰の!?」
女性らしくも豪快な声がドア越しから響いてきた。
「う、うそ……数週間ぶりにお姉ちゃんが帰ってきた……!」
再び顔を青くさせる凛香。
甘く温かい雰囲気は一瞬にして消し飛んだ。
……危なかった。
思わず凛香の魅力に呑まれていたぞ。
まだ正式に付き合ってもないのに……。
「どうする、またベッドに隠れるか?」
「もう遅いでしょう……はぁ」
もはや諦めの境地に達したらしい。
重い溜息を吐いた凛香は遠い目をしていた。
「どうして今日に限って……!」
あーうん。
そういう日って、あるよな。