第十三話
誰にもバレず、こっそり人気アイドルと二人きりになる……。
それはまさに禁断の果実のような魅力を感じさせるイベントだろう。とくにファンからすれば一生分の幸福を感じることだと思う。
…………普通のイベントであれば。
水樹さんに言われた通り、誰にも見つからないように旧校舎に足を運ぶ。入り口の両扉を開けて中に入ると、軋んだ床がギシッと音を鳴らした。染みが点々と残る木の床は廊下の奥まで続いており、中ほど辺りに上に続く階段が見えた。
「行くか……!」
この緊張感をたとえるなら、運営が最強と謳うボスに挑む時の胸の高鳴りだろうか。どんな攻撃をしてくるのか、俺たちは勝てるのか……色んな展開を想像しながら足を前に進めたものだ。今回も同じようなものだろう。なんせリアルでも妻を自称する人気アイドルに会いに行くのだから……!
嬉しいような逃げたいような……複雑な心境の中、二階に上がった俺は突き当たりの教室に向かう。ここだけ施錠を忘れられたのか、鍵がかかっていないらしい。水樹さんが俺とのトークルームで説明していた。
……よくこんな教室を見つけたよな、と俺が言うと、『夫と二人きりになれる場所を探したの』、とあっさり返された。何も返事はできなかった。
ドアを開け、踏み込む。
教室内をさっと見回し、角の席に座る水樹さんを発見した。
「和斗くん、こっちよ」
こちらを見るなりクール系アイドルらしからぬ緩んだ表情を浮かべ、ちょんちょんと手招きをしてきた。俺は後ろ手でドアを閉め、机の上に置かれた二個の弁当箱を見ながら歩み寄る。二個とも水色の布で包まれていた。おそらく片方は俺の分だと思われる。
「水樹さん、お弁当ありがとう」
「気にしなくていいわ。妻が夫のためにお弁当を作るのはおかしなことではないもの」
「そ、そうっすね……!」
「少し引っかかるリアクションね……?」
訝しむ水樹さんを無視して、俺は水樹さんの正面の席に座る。もちろん椅子を回転させ、水樹さんと向き合うにして。結構緊張してくる。
「リアルでも夫とお昼を過ごせるなんて素敵だわ。こんな日を夢に見ていたわ」
「そ、そんなに……?」
「ええ。私は未来の夫に喜んでもらうため、小さい頃から花嫁修業を積んできたの。だからお弁当の中身を期待していいわ」
相当自信があるらしく、水樹さんはクール系アイドルらしい堂々とした胸の張り方を披露した。そこまで言われては期待するしかない。
お弁当の布を解いていく。その最中、水樹さんから「ネトゲでも聞いたけれど、アレルギーや苦手なものはないのよね?」と聞かれたので「うん」と返しておいた。黒い平原では料理もできる。
そのことから話題は発展し、リアルにおける好きな料理の話をしたこともあった。その時に俺が言ったことを水樹さんは律儀に覚えていたようだ。
「わ……めっちゃおいしそう」
蓋を開け、その中身を見て無意識にそう呟く。
詰められたおかずに関してはお弁当の定番と言えるものだった。形が整った金色の卵焼きに、可愛らしいたこさんウインナー、ポテトサラダ……。他にもバランスよくおかずが詰め込まれている。
平凡らしさはあるが、だからこそ手作り弁当の魅力があった。
「じゃあ、いただきま――――水樹さん?」
用意してくれたお箸を手にしたところで、こちらを微笑ましそうに見つめる水樹さんが気になった。そんなジッと見られると食べにくい。
「えーと、水樹さん? どうかした?」
「何もないわ。和斗くんを見ているだけ」
「ごめん、食べにくい……」
「そう……そうよね、ごめんなさい」
反省した水樹さんは謝罪を口にする。いいよ、と俺が言うと、水樹さんは感動したように潤んだ目を指の節で拭い、切実な声を発する。
「夫に手料理を食べてもらう……ずっと憧れていたことだったから……。今この瞬間、私の夢が叶うの。そう思うと、和斗くんから目を離せなくなって……!」
「あ、あー、はい! じゃあ見てくれ! 好きなだけ俺を見てください!」
そんな感極まったように言われては無下にできない。
むしろどんどん見てくれと頭を下げる勢いでお願いする。
一瞬で後悔した。水樹さんはズイッと机に身を乗り出し、全力で顔を近づけた。
「あの……加減って言葉を知らない?」
「私はやる時は全力でやる女よ」
「方向性がおかしいんだよなぁ」
苦笑いする俺を見て、水樹さんは渋々自分の席に座り直す。これがクール系アイドルか? と問わずにいられない。周囲からの評判とはかけ離れた言動だった。
気を取り直した俺はお箸を手にし、そっと卵焼きを持ち上げる。そのまま口に運び、咀嚼。ふわっと卵の旨味が口の中に広がる。何かのダシを入れたのだろうか、とにかくうまい。
しかし残念なことに、ゆで卵が主食の俺には味について分析することは不可能だった。
「どう? おいしいかしら」
「うん。めちゃくちゃおいしいです……!」
「そう、良かったわ。とてもうれしい」
言葉通りに水樹さんは優しい笑みを浮かべる。教室でよく見せる冷たい真顔とは比べものにならないほど温かさに満ちていた。その笑みを見れただけで、今まで生きてきた甲斐があったと思える。
「あーんをしてあげるわ」
「あ、あーんですか? ちょっとそれは……!」
「私の……妻のあーんを拒絶するの……?」
水樹さんの両目が悲しげに涙で潤う。本当に拒絶すれば、そのままシクシク泣いてしまいそうな雰囲気があった。
あーんをしてもらうのが嫌なわけではない。あのクール系アイドルからあーんをしてもらう事態に動揺してしまったのだ。
加えて憧れの対象でもあったことが一つの原因でもある。
「和斗くん? あーんをするのも……私の夢だったの」
「…………それではお願いします」
「ふっ仕方ないわね。夫からあーんをお願いされては断れないわ」
「瞬間的記憶喪失ですか? 言い出しっぺは水樹さんですよね?」
「夫からあーんをお願いされ、渋々してあげるのも私の夢だったの……だめ、かしら?」
申し訳なそうに言った水樹さんが、ちょっとうつむきながらチラチラと視線を飛ばしてくる。彼女なりの不思議なこだわりがあったらしい。
俺は「……だめ、じゃない。お願いします」と躊躇いながらお箸を手渡す。……これはどういう状況だろうな。
ひたすら困惑を生み出すシチュエーションが続いている気がする。
「はい、あーん」
卵焼きを一切れつまみ、俺の口に差し出してくる。その浮かべる表情も慈しみにあふれていた。クール系アイドルの面影は微塵もない。まさに恋する少女そのものだ。
あの水樹凛香からあーんをしてもらえる男は、間違いなくこの世で俺一人……。それがわかるだけに、目の前の卵焼きを口にすることに対して緊張してしまう。
「和斗くん……? ほら食べて」
「はい……!」
パクっと卵焼きに食らいつく。さきほど食べた卵焼きと全く同じはずなのに、味が違った。というより緊張感で俺の味覚が死んでいた。味を楽しむ余裕がない。しかし、全身が震えるほどの感動が込み上げてくる。
ほんの数日前までは、挨拶できるくらいの関係になれたらな~と夢を見ていた。
それがどうだ? 今はあーんをしてもらえる関係になっている……!
「はい次。あーん」
「……!」
止まらないあーん。俺は次々と口にしていく。美味しそうに食べる俺を見て、水樹さんはさらに幸福感に満ちていく。旧校舎で二人きりというシチュエーションもスパイスになっているのか、一口一口に重みを感じた。
やがて弁当箱は空になってしまう。水樹さんは残念そうな表情を浮かべた。
「幸せな時間は……終わってしまったのね」
「水樹さん……」
ファンとしてなんとかしてあげたい気持ちになる。水樹さんに負の感情を持ってほしくない。確かに変な言動をたくさん見せつけられたが、それとは別だ。やはり俺は水樹凛香のファンなのだから!
「水樹さん、良かったら今度は俺が……あーんをしてあげるよ」
水樹さんの分と思われるお弁当を見ながら、勇気を振り絞って提案する。
人気アイドルにあーんをするなんて……と思うが、これで少しでも水樹さんが笑ってくれるなら――――。
「遠慮するわ」
「うん、じゃあお箸を…………え?」
「遠慮するわ」
水樹さんはキリッとした真顔で、躊躇なく俺の提案を蹴り飛ばした。
……………………断るんかい。
なんだろうな、この気持ち。今すぐ叫びたいくらい恥ずかしい。
俺はお箸を受け取ろうと伸ばしていた手を引っ込め、「あ、うん、そっすよねー。ネトゲ廃人ですもんねー俺…………あはは、すんません」とボソボソ呟く。しかし水樹さんの反応は予想を超えていった。
「まだ、心の準備ができていないのよ」
「心の……準備?」
「ええ。好きな人から…………夫からあーんをしてもらえるのよ? 嬉しすぎて、きっと変な顔になってしまうわ」
そう言った水樹さんの頬は赤く染まっており、恥ずかしそうに俺から顔を背けてしまった。
…………恥ずかしさの基準が分かりません。