18話 ようこそ! 薔薇の帝国ローザ
今から10年も昔のことだ。その日は国を挙げてパレードが行われていた。
国民達の歓声を浴び、何百人もの兵士達を連れ、黒い薔薇の皇帝が歩く。夜に照らされた葉のような履き物を鳴らし、かつかつと美しい足音を立てて。
「皇帝陛下! この子をご覧ください!」
人混みの中から1人の女が声を上げた。皇帝と呼ばれた男は歩みを止め、女の方を見る。
なんと彼女は小さな赤ん坊を抱きかかえているではないか。よほど愛されているらしく、頬もみずみずしく膨らみ、すやすやと寝息を立てている。
「この子は少し前に産まれたばかりの息子です! どうかこの子に名を! 皇帝陛下の祝福を!」
「ほう。では、見せてはくれまいか?」
皇帝が命じると、女は我が子を見せる。オレンジのかかった綺麗な黄色の産毛が風に吹かれ、ふわりと揺れた。
その子をじっくり見た後、皇帝はそっと抱きかかえ、頭を撫でた。
「……そなた、名を何と申すか」
「私でしょうか? 私はレイディ・グラハムと申します」
「では、そなたの息子の名はトーマス。トーマス・グラハムだ」
トーマス・グラハム。女は我が子に与えられた名を復唱する。なんと可愛らしく、整った名前なのだろうか。
「トーマス、トーマス。あなたの名前はトーマスよ」
皇帝から名を授かった我が子を抱きしめ、女は嬉し涙を流す。だが、国と民に愛された皇帝に祝福された子は、それを知らぬまま夢の中にいた。
真っ先に耳に入ったのは数え切れないほどの足音と人の声。一体どれだけの人間がいるのやら。
チルルはそっと目を開ける。そこはグリルブルク王国の城下町よりも大きく栄えた大通り。
華やかな店や露店の数々、色とりどりの綺麗な薔薇、そしてなにより人、人、人。とにかく人間が多い。踏ん張ってなければ流されてしまいそうだ。
そういえばキィが見当たらない。まさか迷子になってしまったのだろうか。
「キィーッ! どこいるのーっ!?」
チルルは全力で叫ぶも、その声は都会の喧噪に消えていく。賑やかな街並みとは裏腹に、チルルの胸には不安が募った。
「……おーい、おーい! ここ、ここだってぇ」
だが、かすかにキィの声が人混みから響いた。チルルは人と人の間を精一杯動き、よろめきながら相棒の方へと向かう。
キィの小さな身体やふわふわの髪の毛が見えて、やっとチルルは安心する。相棒は意外と近くにいた。
「よかったぁ。はぐれちゃったと思ったよ……」
「オイラだって。ここは人間がいっぱいだもんね――おっと」
再会を喜ぶ暇はほとんど無く、チルル達は道行く人間に押されそうになる。また離れ離れにならないためにも早くここから離れた方が良さそうだ。
それはそれとして、ここがどこなのか誰かに尋ねたい気持ちもあった。
幸いにも近くに宿屋らしき看板を見かけた。2人は離れないよう手を繋ぎ、宿に向かって前進する。
豊穣の国グリルブルク、魔法大国マギカルト、2つの国の冒険を終え、チルル達は薔薇の帝国ローザに来た。
この国は非常に繁栄しているらしく、通りには市民や観光客で溢れかえっている。チルルの住むロピ村が比にならないほど人が多い。
真っ赤な髪の宿屋の主人曰く、ここはローザ帝国の首都、帝都ローザブーケットであるそうだ。毎年大勢の人間が外国から来るらしく、あの人混みも納得できる。
しかし主人はどうも奇妙だった。
「そういえばあんたら、子供だけで来たのかい? うちの国にも咲いて間もないのに無茶ばっかりする子ばっかで……あー、なんだかうちの娘を思い出すねえ。あたしも今みたいにちょっとしおれる前まではヤンチャしてたんだけど……」
咲くだのしおれるだの、まるで花のような言い回しである。言いたい事は理解できるが、妙な言い方が引っかかっていた。
気になることはあるが、一旦両親のノートを確かめるとしよう。宿のロビーにあった椅子に腰掛けると、チルルはカバンからノートを取り出す。
『ローザ帝国の人々は自らを薔薇のように捉えている。
彼らは自分の国を重んじ、1人の(1輪の)黒薔薇の皇帝を統治者として愛していた。
この帝国には興味深いものがたくさんある。千年もの歴史を満喫するため、まずは皇帝に会いに行こう』
千年の帝国。チルル達はこの薔薇の帝国についてほとんど知らないが、薔薇を尊ぶ歴史や伝統があるのだろう。
きっと宿屋の主人のように、この国の人間は薔薇の一種だ。世の中には自分の知らない文化があるのだとチルル達は感心する。
さてさてこれからどうするかとチルルはノートとにらめっこする。簡易的な地図には帝都や城、ローザの様々な場所が記されていた。
「まずは皇帝に会いに行ったら? アイの結晶をもらいに行かないと!」
備え付けのクッキーを飲み込み、キィは提案した。
ここに来た理由は皇帝からアイの結晶をもらうためだ。幸いにもマギカルト王国のマァリン女王が連絡しているし、チルル達もグリルブルク王国のデイナー女王からもらった書簡がある。トラブルさえ起こらなければすぐに手に入るはずだ。
「まだ昼だし、今から行けば入れてくれるんじゃないかな?」
「それじゃあ急いで行こうよ!」
チルルはノートをカバンに入れると、椅子から降りる。キィも羽を羽ばたかせ付いてきた。
それから宿の扉を開けようとすると、先に外から扉が開く。入ってきたのはチルルのカバンより大きな荷物を背負った男の子だ。子供が背負うには大変そうだが、彼は汗一つかいていない。
男の子は「失礼します」と頭を下げ、チルル達は彼に道を譲った。
「すみませーん! ローザ郵便局です! ご注文の品物を持ってきました!」
「もう届いたのね。ありがとう」
宿屋の主人は男の子から荷物と領収書を受け取り、サインと代金を彼に渡す。男の子は慣れた手付きで仕事の報酬を肩に掛けた郵便カバンに入れ、一礼した。
「あの子、ぼくと同じぐらいなのにすごいなあ」
彼のやっていることは大人の配達員と同じだ。チルルと同い年に見える幼い男の子だが、重い荷物を背負って仕事をしている。
理由も事情も全くわからない。だが、赤の他人の自分達が詮索していいことではないだろう。
しかし、思わず見ているのが男の子に気付かれたようだ。男の子のくりくりした可愛い目がチルル達の方を向いた。
「あ、こんにちは!」
「こ……こんにちは?」
男の子は気さくな様子で挨拶する。それから興味深そうにチルルとキィをじっと見た。
「……あれ? ローザブーケットじゃ見ない顔ですね。それにローザの服装じゃないし……もしかして外国から来た冒険者さんですか?」
「う、うん。今から皇帝に会いに行くところなんだ」
「本当!? 皇帝陛下に!? わぁー……!」
皇帝の話題を出した途端、男の子はぱっと目を輝かせる。チルルの両親のノートによると皇帝は愛されているらしいが、男の子は本当に皇帝が大好きなようだ。
「皇帝陛下は本当にすばらしい方です! 礼儀と敬意を持てば、外国の人でも仲良くしてくださいますよ!」
「そうなんだね。ありがとう!」
「へへへ。外国から皇帝陛下に会いに来るなんて、僕も嬉しいです――あっ!」
その時、男の子は短く叫び、チルル達に謝った。
「ごめんなさい! 次の配達があるのでもう行かないといけません! 長話に巻き込んでごめんなさい!」
「こっちこそ長話させちゃってごめんなさい。配達がんばって!」
「皇帝について教えてくれてありがとう!」
チルルとキィは配達員の男の子を見送る。チルルと同じ大きさの背なのに、ずっとしっかりしているように見えた。
「それじゃあぼくたちも行こっか! キィ、忘れ物してない?」
「ぜーんぶ用意してるよ!」
皇帝の城は帝都の北。宿屋から歩いてもそう遠くはない。チルル達は忘れ物が無いのを再確認すると宿屋から出た。
目指すは薔薇の皇帝の元まで。今回こそはすぐに手に入るはずだろうと期待に胸を膨らませ、人の溢れる大通りを歩いていった。