1話 はじまりのはじまり
世の中にはドラゴンと凄まじい戦いを繰り広げる騎士や、後世まで語り継がれる魔法使いがいる。
賑やかな街に行けばそんな人々とも会えるのだろうけれど、この、のどかなロピ村とはあまり関わりの無い話だ。
とはいえそんな人々に憧れる事は悪い事ではない。ロピ村に住むチルルもまた、夢見る子供の1人だ。
大鬼の魔物トロールをたった1人でこらしめた戦士の母親と、何冊もの本を出した魔法使いの父親の元に産まれたチルルは毎日色んな夢を膨らませていた。
将来は正義の騎士になって悪い魔物から世界を救ってみたい。魔法使いになって神秘を解き明かしたい。トレジャーハンターになってお宝を集めてみたい。行きたいところもたくさんあるし、やりたい事もたくさんある。
夢と希望は無限大だ。未来の事を考えただけでワクワクする。
けれどもチルルは10歳になったばかりの小さな子供だ。毎日遊んで勉強して、ご飯を食べるのに大忙し。未来なんてずっと遠い話だ。
大好きな両親も「焦っちゃ駄目だよ」と言うけれど、小さな子供ではできる事が少ない。
早く大人になりたい。カッコよくてステキな大人になりたい。夢の世界に旅立つ前に、いつもそんな事を考えていた。
「ねえママ、妖精ってホントにいるの?」
子供の疑問はいつだって尽きない。月と星がきらめく時間になっても、チルルはベッドの中で日々の好奇心に取り付かれていた。
「本の中にはたくさんいるよ。パパが買ってくれたのはぜーんぶ読んだもん」
「チルルは賢いなあ。パパは小さい頃、本を読むのが好きじゃなかったんだ」
「えー? すっごく面白いのにー」
「昔の話よ。今のパパは読書家なんだから」
チルルの母はクスクスと笑う。
「チルル、妖精は本当にいるんだよ」
「ほんと!?」
「ああ。パパとママは会った事があるからね」
「すごぉい!」
チルルはあめ玉の様にまん丸な瞳を、夜空の星に負けないほどキラキラさせる。
「パパとママが冒険をしていた頃、妖精が住んでいる国に迷い込んでね。そこで妖精達や妖精の女王様に親切にしてもらったんだ」
「女王様は綺麗な人だったのよ。大きな虹色の羽があったわ」
「いいなぁ。ぼくも行ってみたい」
本の中で描かれた妖精の国は、いつでも花が咲き、小鳥は歌い、空には虹がかかっている。両親の語る国もきっと妖精達の理想郷に違いない。
いつか自分も妖精の国に行って、妖精達と友達になりたい。妖精の友達なんて素敵だろう。
「ねえねえねえ! 他には? 他には?」
「そうね。ママが使っている剣は友達の証として、妖精の女王様から頂いたの」
「そうだったの!? ねえねえ見せて!」
「ふふ。明日見せてあげるわ」
チルルの母はチルルに毛布を被せ、優しく頭を撫でる。
「おやすみなさい、チルル。今日も1日楽しんだね」
「おやすみなさい、チルル。明日もたくさん遊んでね」
「おやすみ。ママ、パパ……」
優しい両親に見守られてチルルは目を閉じる。
明日も、今日や昨日の様に楽しい事が起こりますように。その日もそう願いながら。
今日はいい目覚めだ。ベッドから飛び起きたチルルはカーテンを開け、朝の日差しを浴びる。
どこまでも広がる青い空、見守ってくれている太陽、天が朝を祝福してくれている様だった。
「んん~、いい天気ぃ……」
腕を精一杯伸ばし、チルルは唸る。それからお気に入りの服に着替えると、大好きな両親に挨拶しようと自分の部屋を出た。
「おはよー。ママー、パパー……」
だが妙な事に、居間に両親の姿は見当たらない。いつもなら、チルルが起きる頃には朝食の支度をしているはずだ。
もしかすると寝坊しているかもしれない。それなら起こしてあげよう。だが、両親の部屋に辿り着いたチルルから笑顔が消えた。
「……あれ? どこいるんだろ……」
2人ともいない。毛布やパジャマは畳まれ、朝の支度が終わった事を示している。
チルルは慌てて家中を探す。それでも大好きな両親はクローゼットにも物置にもいない。
思い返せば家に両親の気配は無かった。ひょっとすると自分を置いてどこかに行ってしまったのでは? そんな考えをチルルはすぐに捨てる。
2人ともそんな事をする人ではない。でも、家のどこにもいない。
ならば外にしかいないだろう。チルルは不安な気持ちが胸に宿ったまま扉を開ける。
「――チルル、逃げるんだ――!」
そして、目の前に叫ぶ父の姿が現れた。
「パパ?」
チルルが父を呼ぶ前に、父の身体は足下からぴきぴきと白くなり、石の様に固まる。
そして彼は最後に我が子へと手を伸ばし、胸にハートの穴の空いた石像になった。
「…………パ、パ?」
あまりにもまか不思議な光景を見て、まだまだ幼いチルルが理解できるはずがなく、まるで今にも動き出しそうなほど生々しい姿で石になった父を見上げる。
「ね、ねえ、どうしたの……」
父だった石像をつんと指で押す。
いつもなら大好きな父は笑ってくれて、自分の頭をわしゃわしゃ撫でてくれる。だから、目の前で起こった事は何かの間違いだ。
だが、間違っているのはチルルの方だった。石像は石像のまま。少しも動かず、声も出ない。
「……パパ、パパ!? ねえ、ぼくだよ! チルルだよ! なんで石になっちゃったの!? ねえ、ねえ!?」
やっと目の前で起こってしまった事を理解し、チルルの目に涙が浮かぶ。しかし、どれだけ必死に呼びかけても父親は石のままだ。
「ううぅ……、パパ……。どうして石になっちゃったの……」
とうとうチルルは泣き崩れ、真ん丸の顔を涙と鼻水でぐちゃぐちゃにする。目の前で起きた理不尽な事には、こうするしかできなかった。
だが、チルルが地面に顔を付け、涙の水溜まりを作っていると、遠くから激しい金属音と、雷の音が響く。
きっと戦いの音の音だ。怖い、怖い、怖い! 生まれて初めて聞く戦いの音にチルルは怯え、耳を塞ぐ。
「――はぁあああーっ!」
しかし、その乱暴な音に混じって、大好きな声が聞こえてきた。
「……ママ!?」
チルルは頭を上げ、声の主の姿を探す。右にはいない、左にもいない、家の裏にもいない。
一体どこにいるのかとチルルがきょろきょろ首を振ると、遠くで2つの人の姿が目に入った。
家の向こうの花畑で、剣を手にしたチルルの母親と、魔女と呼ぶのが相応しい衣の女性が戦っていた。
「彼を、元に、戻せッ!」
チルルの母が跳躍し、魔女を頭から叩き斬ろうとする。刃が鋭く輝いた途端、魔女は真っ二つに――。
「それで私に攻撃したつもりですか」
だが魔女は手のひらを前に出し、鏡の様な壁を作り出す。チルルの母の渾身の一撃も、まるで光が跳ね返されるが如く弾かれるだろう。
ところが、チルルの母は壁を大きく蹴り、軽やかに着地する。
「残念ね」
魔女の魔法を利用してやったチルルの母は、地面に降り立つなり剣を振り上げる。
「食らえ!」
「な、何――!?」
このままでは顔を斬られる――。寸前のところで魔女は大きく仰け反り、剣の軌道から外れる。だが、彼女のつばの広いとんがり帽子は、剣の一撃の勢いで宙へと舞い上がってしまった。
「――くぅっ!」
魔女の帽子の影で隠れていた顔は露わになり、すかさずチルルの母は彼女の襟首を掴む。
そして魔女の妙に血色の無い顔面を、戦士の瞳で睨みつけた。
「今すぐあの人と、村の皆を元に戻して。命だけは見逃してあげる」
「……誰が人間などの指図を受けるものですか」
「いい加減にして! あなたは自分が何をしたのか……」
その時、チルルの母の声から一瞬、覇気が失せた。
魔女の顔は血の気を感じられないどころか、キャンパスの様に真っ白だったのだ。
髪はネズミの様な薄い灰色で、瞳は光沢の抜けた銀色。爪は墨でも塗った様に黒かった。魔女には顔も髪も服にも鮮やかな色が無かった。黒と白と灰色、モノクロが彼女の全てなのだ。
「う、嘘……!?」
ずっと昔、チルルの母は夫と共に世界中を旅していた。だが、こんな不気味な無彩色の人間や生物は、一度も見た事が無い。
なんて不気味なんだ。チルルの母は一瞬、魔女のおぞましさに怯んだ。
その決定的な瞬間を魔女は見逃さなかった。
「――失せなさい」
モノクロの魔女の人差し指から白い稲妻が走り、チルルの母を貫いた。
「きゃぁあああああぁっ!?」
呪いの稲妻を正面から受けたチルルの母は立っていられず、その場に膝を付く。手に握りしめた剣は落ち、からんと乾いた音を立てた。
「ママ……ママ!?」
チルルは急いで母の元へと向かおうとする。だが、足が動かない。
あの魔女に見つければ怖い事を、痛い事をされる。それは幼いチルルでもわかる事だった。
だからこそ、母を助けたいのに動けないのだ。
「ロピ村の戦士、あなたの『ココロ』を頂きます」
チルルが足を震わせている内に、魔女は聞き慣れない単語を呟き、人形の様に細い手を伸ばし手招きする様に指を動かす。するとチルルの母は胸を押さえ、苦しみだした。
そして彼女の胸からハートの様なものが飛び出し、吸い込まれる様に魔女の手へと飛んだ。魔女はぎゅっと握りしめ、落ちてあったとんがり帽子の中に入れる。
魔女から何かを奪われたチルルの母の身体はぴきぴきと灰色に固まり、夫と同じ様に石になった。
「……危ないところでした。噂に聞いていた通り、この夫婦は侮ってはならない相手でしたね」
魔女は帽子を被り直すと、ふわりと宙に浮く。それから、チルルの家とは反対の方向に飛んでいった。
「この村は用済みですが、あの妖精を見つけてから帰りましょう」
それから魔女の姿が完全に見えなくなって、チルルは眼を真っ赤にしたまま、変わり果てた母親の元へと向かう。
「ママーッ! ママーッ!」
だが、彼女は返事をしない。苦痛に歪んだ顔のまま、石像になってしまった。
大好きなママが石にされてしまった。パパもきっと魔女のせいで石になってしまった。弱くて何もできない自分だけが残ってしまった。
「ぼく、これからどうすればいいの……? ぐすっ、ぐすん……」
チルルはまたもうずくまり、大きな声でわんわん泣き出してしまった。
「……あちゃー、こりゃあ重傷だなあ。女王様が言ってた"友"って人を探したいけど、この子を置いていくのはオイラも気が引けるなあ……」
何者かの風の様に軽やかな声が頭上で響き、チルルは重い腰を上げる。魔女の声ではない。だが、不安だ。
「あ、き、キミ! 大丈夫!?」
「……だぁれ?」
「誰って言われてもなぁ……。うーん……」
声の主たる少年は"ふわりと浮きながら"腕を組んで唸る。
「とにかく、悪いヤツじゃない……けど、ねえ……」
これこそチルルと少年の運命の出会いであり、大冒険の始まりであった。