生きている
「まあ!」
瑞葵の問いかけに、エナは両手を胸の前で握り合わせた。直前まで、ゼマーに土下座をさせようとしていたことは微塵も感じさせない。
「私としたことが名乗りもせずに、お見苦しいところをお見せして申し訳ありません!」
「あ、土下座はもう良いから」
話がまた進まなくなってしまうからと、それだけの意味で止めたのだが、エナは何故か感激した。
「お優しいお言葉をありがとうございます。私はオンターム王国の王女で、エナピア・ベニート・アトロイテスと申します。どうぞお見知りおきを」
「え……王女様、なの……?」
とすると、こちらも殿下と呼ばれるべき存在ではなかろうか。しかしゼマーの態度も、エナを一国の王女として扱っているようには見えなかったのだが。
瑞葵の視線をどう受け止めたのか、ゼマーも不承不承といった様子で自己紹介を始める。
「オレ、じゃない、私は、イオライ王国第三王子のゼマーだ」
「王子様の名前は短いのね」
瑞葵の率直な感想に、ゼマーの顔に怒りが浮かんだ。
「オレの全ての名が呼ばれるのは王家と大神官の前だけだ!」
庶民には気軽に名乗ったりしないと言うことだろうか。
「誕生されたときと婚姻を交わされたときと神の御許に身罷られる時と言うことですわ」
横でエナが言った。なるほど、と瑞葵は頷いた。
「要するに冠婚葬祭と……」
「余計なこと言うなよ、エナ!」
「あれ……しかも自分の意思で名乗れるのは結婚の時だけ……?」
「ご明察ですわ」
「オレのことはほっとけよ! オレよりもお前だよ! エナはお前が救世主だと言ってるけど、どうなんだよ!」
ゼマーは立ち上がって瑞葵をびしびしと指さした。
「どうって言われても、あたしの記憶はさっき話したけど」
ゼマーの指先が止まって、視線がさまよう。
「エナ、どう見たってこんな人間いないだろ!」
ゼマーは矛先をエナに変えた。エナは全く動じない。
「何をバカなことをおっしゃってるんです。ゼマー殿下にはわからないのですか。混沌渦巻く闇の中に見える聖なる光の気配、心を惑わす怪しげなお姿の背後に潜む慈愛溢れる佇まい、魔王の臣下に蹂躙された地においても少しも損なわれない、神のご意思の体現者ともいえる気品。どれをとっても救世主様に間違いありません!」
「……オレにはどれも感じ取れないんだが……」
「ごめん、あたしも……」
自分のことなのに、そんな立派なものがどこにも見えない。
「っていうかね、混沌渦巻く闇とか、怪しげな姿とか、やっぱりあたしって、二人から見ても……オバケ、なのかな……?」
尋ねる声が震えていた。
「それは……」
これまで何でもはっきり答えていたエナが言葉を濁した。ゼマーは、ここぞとばかりに勝ち誇った。
「どこからどうみても化け物にしか見えねえよ!」
「ゼマー殿下!」
「化け物……オバケじゃなくて化け物……」
瑞葵はうちひしがれた。体中の力が抜けていく。鏡に映った姿は間違いではなかったのだ。
(ぼろぼろの布を被っただけの……光る目の……絵に描いたようなオバケが……化け物が……あたし)
床に触れている感覚が物足りないのも、身体がふわふわ浮いているような気がしていたのも、気のせいではなかったのだ。
「それじゃ……あたし、あの時、死んだ、の……?」
闇から伸びてきた手に掴まれて、記憶は途切れていた。きっとあの時、人生も途切れたのだろう。
「申し訳ありません、救世主様!」
再び、エナが土下座を始めた。瑞葵には止める気力も残っていない。
「私達がもっと気を払って救世主様をお守りしていれば!」
「あたし……死んだの……?」
こんな姿になっているのだから死んでいるのが当たり前なのだが、瑞葵は訊かずにいられなかった。
エナは顔を上げた。
「――いいえ」
真剣な目で瑞葵を見上げて、はっきりと否定した。
「救世主様は、まだ生きておられます」
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