はじまり
(まだ夜……?)
随分と眠っていたような気がするのに、辺りが暗い。
今いる場所が暗い部屋の中なのだと理解する頃には、数え切れないほどの疑問が押し寄せてきた。
(……ここ、どこ?)
全部の答えをいっぺんに探そうとすると混乱する。まずは自分は今どこにいるのかを解決しよう。他の疑問はそれからだ。
(部屋の中? 知らない部屋……っていうか、物置っぽい?)
徐々に目が慣れてくると、周囲の輪郭が見えてくる。へたくそな静物画のような空間に奥行きが生まれて、タンスや棚のような物が見え始める。が、生活感は微塵も感じられない。だから絵のようだと思ったのだろうと、意味の無い自己分析などしてみる。
(ってことは……)
人がいない。ということは室内には埃が地層のごとく積み重なっているに違いない。迂闊に動き回って埃まみれになるのは避けたい。しかしそれにしては、部屋の空気が埃臭くないことが不思議だった。実は窓が開いているのかと見回せば、向かいの壁にある窓はぴったりと閉じている。それなら反対側はと振り返れば、黒い影が見えた。
(……なんだオバケか)
ぼうっと浮かび上がっていたのは、頭からつま先まで黒い布ですっぽりと覆われた影のような姿だった。フードの中、顔に当たる部分には奥底の見えない闇だけがわだかまっていて、その表面に怪しく光る点が二つあるだけ。オバケ、亡霊、幽霊、亡者、ゴーストと様々な呼称があるが、ゲームやマンガで見たような姿は、特に目新しくない。
(――待った)
寸前で、我に返った。
オバケが目新しくないのは非現実の世界の話で、現実に己の目の前にいるなら、「なーんだ」で見過ごせるものではない。
(ていうか、オバケ!?)
むしろ悲鳴を上げて一目散に逃げるべきだと気づいたときには、恐怖で身体は金縛り状態だった。
幸い、かどうかわからないが、オバケの方も向かってくる気配が無い。気づいていないのかと様子を窺えば、フードの下の光点が真っ直ぐこっちを向いている。どう考えても気づかれている。その上で、じっとしているようだ。まるで、自分と同じに驚いて固まっているような――
(……?)
試しに、右手を挙げてみる。
オバケがゆらりと揺れて、手をあげた。
「……」
続いて左手を挙げてみる。
オバケがふらりと手を上げた。
二人向かい合わせでバンザイ状態、レッサーパンダなら威嚇のポーズである。
「……まさか」
呟く自分の声が、聞き慣れない声だった。きっと寝起きだからだ。喉の調子よりも、あれを確かめるのが先だ。行きたくない気持ちを振り切って踏み出した足も、いつもと感覚が違う気がしたけれど、これも後回しだ。
こちらが一歩進むと、オバケの方も近寄ってくる。
「……まさか、ね……」
胃の辺りがひやりとしてきた。正体が見えてきたような気がする。
もう一歩進むと、向こうも一歩進んでくる。
一歩進んで様子を確かめて。もう一歩進んで逃げ道を確認して。
凍った川を渡るようにゆっくりと慎重に近寄って、とうとうお互い手を伸ばせば届く距離まで来てしまった。
「……」
そっと、オバケに向かって手を伸ばす。
オバケも手を伸ばしてきた。ホラー映画なら、ここで手首を掴まれる場面だ。
(むしろ、そうであってほしい……!)
そうなれば、最悪の予感はただの杞憂で終わる。祈りながら――何を祈っているのかわからなくなっていたけど――手を伸ばすと、何かにぶつかった。
「……鏡」
残念ながら、思ったとおりだった。
幽霊の正体見たり枯れ尾花。
お化けの正体は鏡に映った自分だった。
「そっか……やっぱり、そうだったか……」
頭からつま先まで、すっぽりと黒い布に覆われていたのは自分自身だった。
真っ黒な顔をしていたのも、光る目で見ていたのも、ふわふわと歩いてきたのも、自分だった。
「うん、そっか……あたしだったんだ……はは、あはは……やだな、脅かさないでよ」
鏡をバンバン叩きながら一人で笑い転げた。薄暗い部屋に自分の笑い声だけが虚しく響いていく――そろそろ、自分をごまかすのも限界だ。
「……ってなんでオバケ?! おかしいよ!? あたしオバケだった自覚も記憶もないんだけど!」
更に強く鏡をバンバンと叩く。実はこの叩いているという感触もおかしかった。物に触れていると言う気がしない。実際、叩いている音がしない。そしてこんなに強く叩いたら鏡なんて割れている。
「――そこに誰かいるのですか」
誰かの声がした。叩いていた鏡に、小さな光が反射している。振り返ると、ランタンを持った二人の人間の姿がそこにあった。
(誰?!)
問いかけ返す間もなく、二人はこちらに近づいてきた。ランタンの光は遠くまで届かないのだ。
「ああ……やはりこちらにいらしたのですね!」
二人組は、男女の二人組だった。女性の方が顔を覆って、くずおれた。ランタンを持っていた男性が慌てたように手を伸ばすが、女性はきっぱりとその手を断った。
「ありがとう、大丈夫です」
女性は立ち上がると、もう一歩近づいてきた。今度は自分の意思で膝を突き、更に両手も突いた。いわゆる――土下座のポーズだ。
「もうしわけありませんんーーー! 救世主さまぁぁぁぁーーー!」
「……あ。」
そうだ。
思い出した。
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