毒蠍ヨ侵シ蝕ミ唆セ 参拾伍
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「んぁ……?」
何気なく目覚めた朝。
まだ開ききっていない瞼を擦りながら、ベッドの脇のテーブルに設置された時計に手を伸ばす。
そこにはデジタル表記で、八時三十分と時刻が表示されている。
「……ん?」
もう一度目を擦り、時計を見るがそこに表示されている数字は変わらず八時三十分と表示されている。
ああ、そうか。これはまだ夢なんだな。だとしたらもう一度寝て起きれば次こそ現実だ。
足下の方でくしゃくしゃと丸まっている掛け布団を胸元まで引き上げ、再び夢の世界へと誘われようとした瞬間、家の中にインターホンの音が響き渡る。
夢の中なのに随分と現実的な音だなあ、などと考えていると、次いで母さんの声が響いた。
「健仁~! 星乃さんっていう女の子が迎えに来たわよ~」
ああ、終わった。これ現実だわ。
どうやら現実逃避は認められないらしい。
乱れた息を整えながら、何とか五分と経たずに家を出ることに成功した。
だが、現在時刻は八時三十七分。
今から急いでギリギリ学校に間に合うかどうかというレベルだ。
それは置いておき、俺は目の前に佇む彼女に対してまずやらねばならないことがある。
「寝坊してすいませんでしたっっ!!」
腰を九十度に折り曲げ、頭を勢いよく下げる。
そう、謝罪だ。こうなった原因は、非は全て俺にある。
「い、いえ! 全然気にしていませんから。頭をあげてください健仁君」
言われた通り頭をあげ、姿勢を戻すと、初めに目についたのは困ったように笑みを浮かべる星乃さんの顔だった。
「そうは言っても……本当にごめん。俺が寝坊したばっかりに……」
「まだ諦めるには早いですよ! さあ、行きましょう健仁君!」
「えっ!? うおっ!」
そう言って俺の手を引き駆け出したクロエに引かれるままに走り出す。
自分の走る速度とは異なるその速さに慣れず、転びそうになりながらも坂を登っていく。
僅かに汗ばみ濡れた手は星乃さんの柔らかい手によって握られている。
立場は逆転して、俺が手を引かれているがこうしているとあの時のことを思い出す。
寝坊して学校に間に合うかどうかの瀬戸際、この坂で星乃さんと出会ったあの時のことを。
「っはは……!」
「どうしたんですか、急に? はぁ……私はもうそろそろ疲れすぎて倒れそうですよ……」
「あと、もうひと踏ん張りだ。今見えてるあのモノレールにさえ乗れればまだ間に合う!」
手を引かれていた立場から牽く側に。
星乃さんの華奢な手をぎゅっと握ると僅かに速度を上げて、今にも発車しそうなモノレールに乗り込むべく、改札口を駆け抜け閉まりかけのドアに滑り込んだ。
「っはぁ……っはぁ……」
「はぁ……はぁ……何とか……間に合いましたね……」
「ああ……」
通勤、通学ラッシュを終え乗客が俺達以外にいない車両に二人の荒れた息が響く。
この既視感を感じる光景を見て、俺は次に起こることの察知に僅かに遅れた。
まだ梅雨に入る前とはいえ、それなりに気温は高く、その状況であれだけ走れば汗も掻く。つまり俺が何を言いたいかと言うと、男子高校生にとっては嬉し……刺激が強すぎるということだ。
「星乃さん、これ羽織っておいて……」
「え? あっ! ありがとうございます……」
お互いに顔を赤面させて背けてしまう。
俺は汗ばみ、ワイシャツ越しに透けて見えたものによって。
星乃さんは逆に俺に見られたことによって、だろう。
でも、白……だったな。
いかんいかん、このことは考えない様にしないと。
「あ、着いたみたいですよ」
「よっし……そしたらもうひとッ走りしますかっ!」
「はいっ!」
俺と星乃さんは二人、ホームルームのチャイムが鳴る前に学校に着くべく最後に待ち受ける坂を全力で走り抜けるのだった。
「「はぁ……」」
自分の席で机に突っ伏しながら大きく溜息をつく。
机に頬をぴったりとつけながら左を向けば俺と同じように机に突っ伏した星乃さんの姿が目に入る。まあ、こうなるのも無理ないと思う。
「……ほんとごめん、星乃さん……」
「大丈夫です……大丈夫ですけど、生徒指導の先生が怖かったです……」
結論から言うと俺達は間に合わなかった。
そして俺達はみんながホームルームをしている最中、こってりと生徒指導の先生に叱られた訳だ。どうやら俺達をカップルだと勘違いしていたようで、あらぬことまでお説教された。
「ははは! そりゃあ災難だったなぁ健仁ぃ? でも、俺みたいな変わり者を除いて男子達のお前へのヘイトはさらに加速したこと間違いなしだな」
心底面白そうに笑う麟に質問すると、どうやら俺達は知らぬ間に付き合っているということになっているらしい。そして付き合っている男女が一緒に遅れてきたとすれば、勘違いも生まれるというものだ。
「それ……マジ……?」
「マジマジ、大マジだよ。まあ精々背中には気を付けるんだなぁ」
もう駄目だ。
立ち直れない……これ以上男子からの当たりが強くなったら俺死んじゃうって……
はぁ、と再び深く息を吐くと、横から肩をちょいちょいと突かれ、振り向いた。
「あの、健仁君……今日の放課後時間ありますか?」
聞き耳を立てていたのかと思う程に早く、クラスの男子達の視線が俺へと集まる。
もうほんとにやめてくれよ……
「え、うん。空いてるけど」
「良かった……それなら麟さんと一緒に教室で待っててもらえますか? 昨日一緒にパーティーを組んだぽて……ぽてとさらーだのことを二人にも紹介したくて」
「わかった。あっ、一時限目実験室みたいだから行こうか?」
「あ、ちょっと待ってください」
時間は流れ、放課後。
俺と麟は教室で星乃さんがぽてとさらーだの中の人を連れてくるまで駄弁っていた。
「――それで? 今日の様子を見てた感じ、昨日思い詰めてたことは解決したみたいだな」
「……何で分かったんだよ……?」
「だから言っただろ? 親友舐めんなよってさ」
かかッと気持ちのいい笑みを浮かべるコイツには本当に全てお見通しだったってことか。
「すげーな、俺の親友さん?」
がらがら、と閉まっていた扉が開き星乃さんが入ってくる。
「すいません、お待たせしました」
扉の丁度影になる位置にはもう一人、誰かがそこに居た。
先に星乃さんが教室に入り、その後に続くように女子生徒が教室の中に入ってくる。
女子生徒は肩程度の長さがある黒髪を後ろで纏め、星乃さんに劣らない整った顔立ちをしている。右腕に付けられた赤い腕章には生徒会長と白い文字で書かれている。
思わずその容姿に釘付けになっていると、視線を遮るように星乃さんが俺の顔をジト目で僅かに睨む。
「健仁君、今万穂路ちゃんに見惚れてませんでした……?」
「い、いや別に?」
「ふぅん……そうですか」
ぷい、と顔をそむけてしまった星乃さんにかける言葉も無く慌てふためいていると、隣から驚愕に満ちた声が響き思わずそちらを見ると、麟と生徒会長がお互いを指差し合っていた。
「何でお前が!?」
「何であんたが!?」
二人の叫びは同時に響き、教室の外、廊下にまで響き渡った。
もしかしてこの二人知り合い?
「えーっと……一度仕切り直しましょうか? えっとこちらが『賢者』ぽてとさらーだこと水無月万穂路ちゃんです。この学校の生徒会長をやっているので二人共知っていると思いますけど……」
まあ俺も朝会なんかで何度も目にしたことがある。確か一年の時から生徒会に入ってて、その姿勢や責任感の強さから三年生からの支持も厚く、二年生で生徒会長になった凄い人だ。
しかも生徒会長がこの水無月さんに変わってから色々と学校生活で困っていることなんかをすぐに取り入ってくれるようになったとかで結構人気があったはずだ。
「まさか水無月さんがあのぽてとさらーだとは」
「そんなに意外? 私だってゲームくらいするわ」
小さく微笑む彼女の表情に先程絶叫していたようなものは見受けられない。この生徒会長にあんな顔をさせるとか……麟、お前何やらかしたんだよ。
「それで、こっちがGENZI君と麒麟さんです」
「どうも」
「ども~」
星乃さんの紹介に軽く会釈をすると、俺の時は普通に笑顔で会釈をし返してくれたが、麟の時だけ何故か舌打ちを返していた。
「うわっ! ひっでぇお前! 俺には舌打ちかよ!」
「っふん。別にあんたなんて舌打ちで充分でしょ?」
「ひでぇ! うわぁぁぁんもうお家帰るぅぅ!!」
鞄を持って教室から駆け出していった親友に顔を背けふんっと鼻を鳴らす万穂路さんを交互に見やって、流石に麟に同情したが、同時にざまあみろとも心の中で笑っている自分もいた。
まあ、いつも散々俺の事をイジリ倒しているんだからたまには報いを受けるべきだろう。
「万穂路さんの紹介は麟の退室でなあなあになっちゃったけどどうする?」
「う、うーん……仕方ないですし、今日はお開きということで……」
「まあそうだよなあ……万穂路さんも一緒に帰りますか?」
背後に立つ万穂路さんのことを顧みると、万穂路さんは首を振った。
「私はまだやることが残っているから。それと、健仁君。私の事は万穂路って呼び捨てにしてくれて構わないし、同い年だし敬語じゃなくて大丈夫よ」
笑顔で話す万穂路さん……じゃなかった万穂路の顔を見て、失礼だけどモテそうだと思った。俺の場合は麟に対するアレとかUEOでのアレとかを見てるから何とも言えない気持ちになるけど。
「うん、分かった。じゃあまた明日」
「ええ、また明日。クロもまた明日ね」
「はい、さようなら。それじゃあ帰りましょうか? 健仁君」
段々と陽が長くなり、時刻が六時だというのにまだ明るく陽が昇っている。
俺と星乃さんはいつもならどちらかが話題を提供し、家に着くまで続く会話が今日は無い。
でも、その沈黙は嫌な沈黙じゃなくどこか心地の良いものだ。
「健仁君、あの……」
「どうかしたか?」
俺が家の数歩手前まで来たところで星乃さんが消え入りそうな声を出した。
何だか緊張しているようにも見えるけど、いったいどうしたんだろう?
「わ、私も! 万穂路ちゃんみたいに呼び捨てで、ゲームの中みたいにクロエって呼んでくれて大丈夫なのでっ! そ、それじゃあ……!!」
呆気に取られている間に脱兎のごとくその場を走り去ってしまった星乃さんの背中はぐんぐんと遠ざかっていく。
俺はその背中に向けて叫んだ。
「また明日ー! クロエーっ!!」
何となしに始めたゲームだったけど、UEOを遊んだことでクロエや、万穂路にも出会うことが出来た。それだけじゃない。
UEOは俺に新しいことを教えてくれる。
さあ、今日は何をしようか。
俺は期待を胸にドアを開け、駆けこむように自室へと入っていった。