毒蠍ヨ侵シ蝕ミ唆セ 参拾
宙に舞う紅い鮮血を想起させるポリゴンが月光に照らされ、怪しく光る。
噴き出した紅いポリゴンが雨のように揺り注ぐ。
GENZIはただただ目を見開き、その場で体を硬直させていた。
目の前には大量の鮮血と、喉元まで伸びた鋼鉄の如き硬度を誇る【エンシェント・スパイダー】の粘糸が伸びている。だが、そのHPは一ミリたりとも減少してはいない。
鋭く伸びた粘糸の切っ先はGENZIの喉元のすんでのところで静止しており、粘糸の元を辿るように視線を動かせば、城壁のように高く聳える何かが粘糸を阻んでいた。
その後ろ姿の事をGENZIは知っていた。
「蛇神っ!?」
「無事か……人の子よ。何とか間に合ったようだな」
安堵の声を漏らす『蛇神』は、己の身を貫き通す糸のことなど気にもかけていない。
その糸には強力な猛毒、麻痺毒、神経毒などの毒が滴っているが、『蛇神』も同様に自分自身が毒を使用した戦闘を行うため、その身には強力な毒耐性が備わっており全く効いていない。
「大丈夫なのか?」
「まあ何とかな。それよりも人の子よ、蜘蛛のことを、その手で殺してやってはくれないか?蜘蛛はもう……元には戻れない」
「な……どうしてそんなことが分かるんだ、やってみないと分からないだろっ! 蜘蛛神は……あいつはお前の友達じゃないのか!」
GENZIの言葉に押し黙った『蛇神』は、僅かに間を空けてGENZIの方へ向き直った。その顔には切なさや悔しさ、そう言った感情が押し込められているようにGENZIには見えた。
「儂らは元々はウェネーウム様の一部。今はアスモデウスにその身を乗っ取られていようとも、主の魔法は眷属である儂らにとって特別なものなのだ」
「……っ」
何も返す言葉が無かった。『蛇神』の言うことが嘘偽りのない真実だと、怖いくらいに平静な声が物語っている。
「ちょっと、私と坊やとの二人きりの時間を邪魔しないでくれるかしら? 貴方たち、目障りよ」
スッと大杖の先端が『蜘蛛神』の方へ向けられる。それと同時に『蜘蛛神』の体から何かが気体のように立ち昇り、それらが全て【アスモデウス】へと吸い込まれていく。
「いかんっ……!!」
『蛇神』は唐突に【アスモデウス】目掛けて土煙を巻き起こしながら巨躯を滑らせる。
『蜘蛛神』と【アスモデウス】の間に体を滑り込ませ、まるで『蜘蛛神』を庇うように己の身で『蜘蛛神』を覆い隠した。
自らの射線上に身を躍らせてきた『蛇神』に対し舌打ちをし、致し方なく目標を変更。【アスモデウス】の大杖の先端が『蜘蛛神』方から『蛇神』の方へと向けられる。
『蜘蛛神』同様に煙のような白い何かがその巨体から立ち昇り、それらは全て【アスモデウス】へと吸い込まれる。
砂丘の如き巨体を捻じり、捻り、暴れさせ、体の中から煙状の白い何かを吸い出されまいと激しく抵抗するが、【アスモデウス】にその抵抗は効いていない。
状況についていけず、GENZIが困惑を露わにしていると、背後から言葉数の少ないどこか間延びした覚えのある声が響いた。
「……む……某は……っ!!……蛇っ!……今、助けるぞっ……ぬっ?……これは…………」
「蜘蛛神っ!? もう大丈夫なのか?」
「……いや、どうやら駄目なようだ……主……その刀で、某を斬れ……」
「っ……なんでお前も同じことを言うんだ!?」
「……某の体だ……某が一番分かっている……その刀、【狂い桜】は、ウェネーウム様の大切な御方……かの武人の物だろう?……初めて見た瞬間から気が付いていた……それは血を吸えば吸う程切れ味が増す
……今のままの主の攻撃では【アスモデウス】に傷一つ付けられぬ……もう短い命だ……某の血を、その刀に吸わせよ……」
言葉を失った。
とても人工知能とは思えないこのNPCとのやり取りは、僅かな間ではあったが確かにGENZIの中に息づいていた。
これが例え、このクエストのイベントなのだとしても。
そうだとしても。
GENZIは仮想の歯を割れんばかりにぎりぎりと鳴らす。
自分のことを戦友だと言ってくれたこの蜘蛛を、その手で殺せという理不尽に、そうせざる終えない自分にほとほと嫌気がさした。
そして何よりも。
「ッ……!!!」
この状況を作った、【アスモデウス】に対して、激しい怒りを覚えていた。
怒りに震える手で、【狂い桜】を鞘から抜き放つと、刀身が月光を反射し、怪しく光る。
『蜘蛛神』の目の前まで近づくと、『蜘蛛神』はその巨体を沈め、自ら頭をGENZIの前に差し出す。
荒く早まる呼吸と、わけも分からず早まる拍動に気を向ける余裕すらなく【狂い桜】の柄に指を這わせ、両手で強く握りしめる。
拍動する速度が最高点に達した瞬間。
妖刀が正中を捉え、『蜘蛛神』の頭を切り落とした。
鯨の潮吹きのように噴出される鮮血のポリゴンが雨のように降り注ぐ。
体が徐々にポリゴンの欠片となってきている『蜘蛛神』に目もくれず、GENZIはその場に立ち尽くしていた。だらりと垂れた右手に握られた【狂い桜】は降り注ぐ紅いポリゴンを全て吸収していく。
「……ありがとう……」
「……ッ! アラクネ!?」
背後から『蜘蛛神』の声が聞こえたように感じ、背後を振り返るがその場に立っていたのは『蜘蛛神』ではなく、クロエだった。
「……クロ……エ……」
掠れた、今にも潰れてしまいそうな程に弱弱しい声。
今までに聞いたこともない程に追い詰められたGENZIの声を聞いたクロエは、何も言わずにその頭を自身の胸元に抱き寄せた。
「俺は……俺は、俺の事を友だと言ってくれたアイツの事を……救えなかった……これがゲームで、アイツはただのNPCだってことくらい、俺だって理解してる。でも……」
「蜘蛛神さんは……何と……?」
「自分のことを殺してくれって……俺に……」
「そうですか……私には蜘蛛神さんや蛇神さんの声は聞こえません。だから、軽はずみなことは言えません。ですけど、きっと蜘蛛神さんはGENZI君にこう言ってますよ」
GENZIの顔を包み込むように両手を添えると、目を逸らさず、真っ直ぐに見つめる。
「……“ありがとう”……と」
「……っ」
その言葉は、先程GENZIが聞いた幻聴と同じだった。
それはGENZIが望んだ言葉。そうであってほしいと、自分を正当化するために作り出した幻聴。そう考えていた。
クロエの言葉を聞いてGENZIの心は僅かに軽くなる。それでも、心の重さが取れたわけではない。だが、それでいいとGENZIは考えていた。
この心の重さは、自らの胸中を渦巻くこの激しい怒りと共に、【アスモデウス】にぶつけるべきものだと考えたからだ。
頭の中に、電子的な音声が響く。
「“血刀”【狂い桜】が特殊条件を達成。“紅血刀”【餓血】に進化しました」
桜色の刀身の【餓血】はいつの間にか霧散した『蜘蛛神』の血を全て吸いつくした。この刀には『蜘蛛神』の想いが籠っている、GENZIにはそう思えてならなかった。
軽く変更点などを確認するために、武器ウィンドウを開く。
これは……なるほど、確かにこれなら【アスモデウス】にも勝てるかもしれない。どうせ俺が崖っぷちギリギリの戦いをしているのはいつもの事だしな。
今更気にしたところでどうこうなることでもないし、別に変える気も無い。
さぁ、それじゃあ――
「ここからは一方的に攻撃を刻ませてもらうぞ……ッ!」