毒蠍ヨ侵シ蝕ミ唆セ 弐拾玖
暗い。
辺りは宵闇のように暗く、何一つ見えない。闇に包まれたその空間を俺は漂っていた。
身体を這うように包み込む闇は暖かく、母親に抱きかかえられているように心地がいい。
何も感じず、何も考えることが出来ず。
何をするわけでもなく、ただ闇の寵愛を貪るように辺りを漂う。
ふと、自分の事を呼ぶ声が聞こえてきた。
それが誰の声なのかは分からない。でも、それが大切な人のものだと何故か感じる。
そのはずなのに、声を聞くたびに体はそれを拒絶するように全身に激痛が走る。
「ああぁぁぁぁッッ!?」
尋常ではないその衝撃に耐えきれず思わず叫び声が漏れ出る。
やめろ、止めてくれ。これ以上俺のことを呼ばないでくれっ。
だが、その思いが声の主に届くわけもなく、GENZIの体を再び痛みが走り抜ける。その苦痛に今度は歯を食いしばり、耐えていると、次第に頭が冴えてきていることを自覚した。
これまで霧がかかったように虚ろとなっていた頭の中が澄み渡っていく。
「っ……」
全身に残る痺れから意識を外し、辺りを見回す。
辺りには何一つ存在しない。存在するのは自分ただ一人だけ。
そして、あるとすれば――
「くぅっ……!」
時折聞こえてくる声くらいなものだ。
頭の中がクリアになったためか、先程よりも声が鮮明に聞こえるようになってきた。とは言っても、知らない言語の言葉から雑音に変わった程度のものだ。
断片的に聞こえてきたのはGENZIという自分の名前のみ。
でも、突破口は見えたっ。今の一瞬、声が聞こえてきたほんの一瞬のことだったけど、この暗闇の中に一点の僅かな光が見えた。
そして俺の聞き間違いでなければその声は僅かに光が漏れ出ていたその穴から聞こえてきた。それはつまり、声が聞こえた瞬間にあの穴の中を通り抜けるかすれば、この異空間を抜け出すことができるってことだ。
脱出方法を考え着いたからか、心なしかGENZIの顔は明るい。
挑戦的ともとれる笑みを浮かべながら、精神を研ぎ澄まし、集中力を高めていく。
「っ!? なんだ!?」
頭を砕かんばかりの爆裂音が唐突に鳴り響き、脳を揺さぶる。
突然のことに身構えていなかったためにその音を直に聞き、甲高い音が頭の中で鳴り響いている。ふらつく足に力を籠めて立つと、辺りを見回す。
そこにあの光は見えない。
今の爆裂音で音もしばらく聞こえない。
立案した作戦をほんの十数秒で打ち砕かれ、新たに見つけた希望も打ちひしがれた。
「GE……目……を…………」
「えっ……?」
それは確かに声だった。
だが、先程の爆裂音で耳がおかしくなった今、声が聞こえるはずがない。
試しに目の前で手を叩いてみるが、全く音が聞こえてこない。
訝しみ、まさか幻聴を聞くほど自分が参っているとは、と自嘲するように笑みを浮かべると再び囁くような、語り掛けるような声が聞こえてきた。
「約束……じゃないです…………クリアし…………って」
約束……
俺は一体誰と、何の約束を……?
次第に声にかかっていた雑音が取り払われていき、その声が女性のものだと分かる。そして、やはりそれが聞き覚えのあるものだとも。
「GENZI君っ! 戻ってきてくださいッ!!」
「……ッ! クロエっ!」
目の前に出現した細く伸びる光の線。
光の線を辿り、疾駆する。光の線の先には極小の、輝きに満ち溢れた穴が見える。
その極小の穴へと懸命に手を伸ばし――
♦
「っ……」
辺りは月光に照らされる、乾燥しきった大地へと戻っていた。
目の前には俯き、肩を震わせるクロエの姿があった。クロエの視線の先の乾ききった地面にはいくつもの水跡が出来ている。
俺は……戻ってきたのか?
目の前には泣きじゃくるクロエが。そして遠く離れた場所で麒麟とぽてさらは地面に倒れ伏しているし……
状況が全く掴めない。
ただ、あの暗闇の中から連れ戻してくれた声がクロエの声だったことだけは俺にも分かる。
俯き、瞳から涙を零すクロエの元にそっと歩み寄ると、自分が小さい頃にそうしてもらったように、優しく背中に手を回し、背中をさする。
すると、俯いていたクロエが恐る恐るといった具合に顔をあげた。
「えっ?」
驚きに見開かれた瞳がGENZIを捉える。
先程まで涙を零していたためか、その大きな瞳は潤み、僅かに赤味を帯びている。
「えっと……ただいま。迷惑かけてごめん……」
GENZIはバツが悪そうにクロエの瞳を真っ直ぐ見つめながら謝罪を口にした。
すると、ほろりと一粒の涙がクロエの頬を濡らし、垂れ落ちる。だけれど、クロエの顔からは哀感は感じられない。
むしろその逆。クロエは花のような笑顔を零していた。
「遅刻ですよ、GENZI君」
「うん……起こしてくれて、ありがとう」
頭を下げるGENZIに、クロエは困ったような笑みを浮かべた。
「気にしないでください。だって私達は仲間じゃないですか」
「クロエ……」
二人の再会の会話とも呼べる会話を甘い響きを残す声が遮る。
「あーあ、つまらないわね。折角仲間同士で殺し合わせて絆何てものの脆さを思い知らせてあげようとしたのにっ」
甘く、聞いているだけで思わず心を奪われそうになるような猫なで声。
それは視線の先、こちらに妖美な笑みを向ける【アスモデウス】から発されたものだ。
「アスモデウス……」
「そんなに睨まないでくれるかしら? 怖い顔もカッコいいけど、さっき情熱的なキスを交わした時みたいに蕩けた表情のほうが私は好きよ?」
ぺろりと舌なめずりをした唇が、月光に照らされ怪しく光る。
それを見て、GENZIが苦々しく【アスモデウス】のことを睨みつけると、不意に隣から恐ろしく冷えた視線を感じた。
思わず振り返ると、温度を感じさせない無機質な視線をこちらへと向けるクロエと視線が合った。
「GENZI君……?」
「いやっ本当に違うんだ! あれは何ていうかその……俺の体の自由を奪って、アイツが一方的に……」
「GENZI君……?」
その顔には有無を言わさぬ迫力があった。
言外に後でお話ししましょうね、と伝えるクロエに対し観念したように項垂れると、その鬱憤もあってか一層厳しい視線を【アスモデウス】へ向けた。
「ふふっ、それじゃあ今度はどうしようかしら……あっ!」
右手を頬に当て、考え込むように小首を傾げると、はたと思いついたように顔をぱっと明るくさせる。その明るい表情とは裏腹に、GENZIは嫌な予感がしてならなかった。
♦
嫌な予感がしてならない。
これまで……と言っても【アスモデウス】と対峙したのはほんの数十分程度の事だが、それだけの時間でもアイツがろくでもない奴だということは分かった。
あの表情は間違いなく面倒なことをしようと考えている顔だ。
俺が考えたのと同時、【アスモデウス】はその大杖を空高く掲げる。
大杖の先端に取り付けられた巨大な宝石に紫紺色の光が灯り、徐々に光が蓄積していっている。
一体【アスモデウス】は何をするつもりなんだ?
何にせよ止めた方がよさそうだっ!
「クロエっ! 何をしでかすか分からない。アスモデウスを止めるぞッ!」
「っ……! はいっ!」
威勢よく返事をしたクロエは、目元を手の甲で軽く拭うと何故か地面に放り投げられていた白銀の中盾と露草色の蒼剣を拾い上げ、俺の後を追随してくる。
自らへと接近する俺達のことを一瞥すると、鼻で笑い、左手に握られた辞典のように分厚い本を開く。無造作に開かれた頁が一人でに捲れだし、ある頁で動きを止める。
本の動きが停止してから一秒程の間をおいて、俺達が駆ける地面、丁度次に足が置かれる位置に鮮やかな光を発する複雑な幾何学模様の刻まれた魔法陣が姿を現した。
「……ッ! 『二艘跳び』ッ!!」
咄嗟の判断で俺はディフェンススキルの『二艘跳び』を発動させた。
足が地面に触れる前に、空中に足場を作り、その足場を蹴って前方に勢いよく吹き飛ぶ。
殺しきれなかった勢いを地面に転がり込むことで抑える。
先程からようやく鮮明に音を聞き取れるようになった耳に、土砕音が響く。
慌てて振り向けば、魔法陣が展開されていた場所を中心に半径三メートル程の円状に地面が陥没している。
まるで上から何かで踏みつけられたように見える。
俺は『二艘跳び』で回避したが、クロエは以前見たあの純白の翼による推進力を使って、範囲から抜け出ていたようだ。
すぐに意識を切り替えると、再び【アスモデウス】との距離を縮めるべく駆けようとした瞬間、体を悪寒が走り抜け、全身が泡立つのを感じた。
理由は分からないけど、物凄く嫌な感じがするっ。
それに、さっきからどうにも変な音が聞こえてくる。
まるで地震みたいな大きく地面を震わせる音。
まるで――
「蜘蛛……神……?」
大通りを通り、歩み寄ってきたのは何度も会話を重ねたとてもモンスターとは思えないNPC。その瞳はどこか虚ろで、まるで何かに取り憑かれたかのように定まらない足下も気にしていない。
その瞳が見つめているのは確かに俺達だった。でも、その影には別の誰かが写っているように感じてならなかった。
「アスモデウス、お前まさか……」
「ふふっ、貴方の考えている通りだと思うわ。ご想像通り、今度は私、というか私の依り代であるウェネーウムのペットを使わせてもらうわ。さあ、私を楽しませてちょうだい?」
ふざけるなっ!という抗議の声をあげるよりも速く、『蜘蛛神』……【エンシェント・スパイダー】はその鋼鉄の如き粘糸を俺達へと伸ばした。
目で追いきれない程の速度で射出された粘糸は俺の喉元へと突き立てられ、鮮血にも似た赤いポリゴンが辺りに撒き散らされる。
月光に照らされ、粘糸にこびりついた真っ赤なポリゴンが怪しく光った。