音ゲーマニアが早起きするようですよ
翌朝、目覚ましの鳴り響く音で起こされた俺は、朝食を摂りにリビングへと降りる。
リビングからはトーストの香ばしい香りと、テレビの音が聞こえてくる。
おかしいな……母さんは友達と旅行に行っているはずだし、亜三は部活の合宿に行っているはずだけど……。普段起きない時間に目を覚ましたため、未だ頭が覚醒しきっていないためか、思うように思考が纏まらない。
「ん……健仁か」
「え……」
寝起きだし、きっと幻覚だと思っていたが、廊下で感じていたトーストの香ばしい香りも、聞こえてきたテレビの音も現実のことだった。
そして、普段は使われることのない椅子に一人の男性、というか――。
「父さん……!?」
「健仁に会うのは久々だな……ただいま」
父さんは、マグカップに注いだコーヒーと、ジャムやマーガリンの付いていないトーストを頬張っている。
神谷栄一、それが父さんの名前だ。
父さんは普段、仕事で家を空けていることが大半で会話を交わすことすら珍しい。
最も新しい記憶は、元旦の日を家族全員で過ごした時の事だろうか。とはいえ、その時でさえ年越しそばを食べようとした途端に会社からの電話で父さんは戻っていったが……。
「今日はどうかした? 父さんが家に帰ってくるなんて珍しいけど……」
「ああ……いや、なに、母さんや亜三、お前に、たまには顔を見せようと思ってな……。仕事が一段落して、少し余裕が出来たから家に立ち寄ってみたんだが、どうやら健仁以外の二人共家に居ないみたいだな」
「そっか……」
父さんは普段家に帰って来ない。
それだけ仕事が忙しいのだ。
父さんと毎日のように顔を合わせられたのは本当に小さい頃だけ、小学生に入る頃には今みたいな状況だった。
母さんと違って、父さんと触れ合う機会は少なかった。
友達から、休日に父さんとキャッチボールをした話やサッカーをした話を聞くたびに、俺はそれを子供心ながら羨んだ。
そんな中、俺が唯一父さんとの繋がりを感じられたのはVRゲームだった。
俺が四歳になる誕生日、父さんは俺に一台のVRマシンをプレゼントしてくれた。
父さんが自らの手で作ったVRマシン。
それを使ってゲームをしているとき、俺は傍に父さんを感じられたのを覚えている。
だからだろうか、俺は父さんとの間に知らず知らずのうちに溝を作っていた。
リビングを静寂が包み込み、俺と父さんの間にも沈黙の時間が訪れる。
でも、不思議と嫌な気分は無い。
視線の先で椅子に腰かける父さんの顔は、記憶のものよりも老けている。
いつの間にか増えた顔の皺、黒々としていた頭髪には白髪が混じり、それでも不愛想で無口で、それでいて家族の事を思っているところは何ら変わっていない。
俺が少しばかり感傷に浸っていると、唐突に父さんが席を立ちあがった。
「……すまない、仕事が入った。皿とコップの後片付け……任せてもいいか?」
「ああ、大丈夫。行ってらっしゃい、父さん。仕事頑張ってな」
「……ああ、行ってきます」
よくよく見なければ気付かない程度だが、最後に少し、振り返った父さんの表情はいつもよりも柔らかく、口端が僅かに上がっていた。
父さんが家を後にすると、再び家の中を静寂が支配した。
俺は朝食を手早く摂ると、自分が使った食器と共に父さんの使った食器を洗い、部屋へと戻る。
「ふぅ……。まさか父さんが帰ってきてるとはなぁ……」
自分のベッドの上に寝転がり、体を埋めながら視界の端のデジタル時計で現在時刻を確認する。
今は午前八時に差し掛かろうとしている程。
約束の時間にはまだ早いが、特にすることも無い俺は【ナーハフォルガー】に手を伸ばし、その異変に気が付いた。
俺はベッドに寝転びながらでも取りやすいように、と【ナーハフォルガー】のフレームの部分を枕側に向けて、枕元のテーブルに置いている。
だが、今の【ナーハフォルガー】は、普段とは逆向きに置かれているのだ。
「まあ、昨日は眠かったし、間違えて置く向きを間違えたんだろ」
そうとしか考えられない。
もしそうでないならば、誰かがこの部屋に侵入し、俺の【ナーハフォルガー】を手に取ったとしか考えようがないのだから。
そんな些細なことよりも目先のことの方が大事だと、俺は意識をUEOへと向けた。
UEOにログインすると、昨日街中を飛び回っていた紅提灯の姿は無く、昨夜の喧騒が嘘のように静まり返っている。
僅かに霧がかかった街並みは、風情があって見ているだけで心が落ち着く。
念のためにと辺りを見回すが、皆の姿は当たり前の如く見えない。
「さて……早くログインしたのはいいものの、何をするべきか……」
NPCに寝る、という行動があるのかは分からないが、明らかに昨日よりもNPCの数が少ない。
これでは情報を集めようにも、集められない。
途方に暮れていると、頭髪をマーガレットが唐突に引っ張り出した。
「痛っ!? ちょっ、マーガレットやめろって!」
「ピー!」
「いてててっ!」
嘴で俺の頭髪を咥えたまま、俺が止めてくれと懇願しようとマーガレットはお構いなしと言った風に引っ張り続ける。
マーガレットに引っ張られるがままに歩いていくと、先に見えてきたのは休憩処。
日傘の下に設けられた席にどんがりと座ると、「ピー!」とマーガレットが一鳴きする。
隣に座れということだろうか?
俺が長椅子に腰かけるとマーガレットは満足そうにしていた。
「ご注文はいかがいたしますか?」
「うぉっ!?」
突然隣から話しかけられたことに驚き、咄嗟に距離をとったが、隣に居たのは優しそうな笑みを浮かべる小柄なお婆さんだった。
音も無く現れたことで驚いてしまったが、お婆さんは困ったような顔をしているだけだ。
「あ、すいません……。えと、お勧めのもので」
「かしこまりました」
「ピー! ピピー!」
ばさっと翼を広げて俺の目の前に現れたかと思うと、マーガレットは鉤爪で蒸しパンのようなものを指し、目をキラキラと輝かせている。
俺は思わず破顔しながら、お婆さんに、「これもお願いします」と頼む。
注文が終わると、お婆さんはゆっくりと茶屋の中へと戻っていき、外には俺とマーガレットのみが残される。
「そんなにこの蒸しパン? が食べたかったのか?」
「ピー!」
「そっか」
元気よく片羽をあげるマーガレットを見ていると心が和む。
最近はLV上げと宿題に追われる毎日で音ゲーをする暇も無ければ、心が休まる時間も無かった。
そういう意味では、今のこの休息は俺にとって何よりも大切なことなのかもしれない。
朝の冷たい空気を感じながら、目を薄く瞑っていると、コトという音が隣からして慌てて目を開くとその場にはお茶と、マーガレットが頼んだ蒸しパンが置かれていた。
「……っ?」
思わず息を飲み、辺りを見回すがそこに誰の姿も無い。
恐らくこのお盆を運んできたのはあのお婆さんだろう。
でも、俺の耳には音という音が一切聞こえてこなかった。
歩く音も、布が擦れる音も、ましてやお盆でお茶を運んでいるというのに。
「あの婆さん何者だよ……」
苦笑を浮かべながら、飲杯に入れられた暖かいお茶を啜る。
その味わいはさっぱりとしていて、心の芯に染み渡るようだった。
隣で蒸しパンのようなものを突くマーガレットも心なしか嬉しそうに見える。
「……っはぁ……」
涼しい朝方、静寂に包まれた中で心に染みるお茶を飲む、中々いいものだ。
こうしていると少し爺臭いきもするが、たまの休息の大切さを心から理解したような気がする。
「……たまには早起きもいいもんだな」
「ピー♪」