サタンが町にやってきた(今年は息子だが)
昔々、神に仕えていたお使いが神の怒りをかい、地獄に落とされて地獄の王サタンとなった。
長い月日の間に神とサタンは和解して、年の暮れには互いにお歳暮を贈りあうようになっていたのである。
毎年十二月二十五日。
天国からは天国の果実酒である桃酒が贈られる。
だが地獄は今年、テロの多発で忙しく、お歳暮の用意が遅れていたのに加えて、
サタンがこともあろうに、インフルエンザにかかってしまったのである。
サタンの小さな息子のレビが父に代わって、初めてお歳暮を求めて地上に行く事になった。
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オレは地獄の王である父さんに頼まれて、地上にやってきた。
任せておけと地獄をでたのはいいが、十日もたってしまった。
明日は地獄に戻る予定なのに、どこを探しても見つかりゃしない。
おまけにこの町ときたら、夜でも明るくて、うるさいので休めやしない。
オレは水を飲んで、腹の虫を黙らせると、植木の根方で休む事にした。
「あぁあ! 植木鉢に虫歯菌!」
でかい声の女が、オレをのぞき込んで叫んでいる。
「誰が虫歯菌だ?! お前の目は節穴か? オレはサタンの息子のレビだ!」
「ええぇ。黒のフード付き全身タイツに矢印尻尾。どう見ても虫歯菌でしょ? 口には入らないわね。その大きさだとカバ用?」
オレはそこで、とんでもない事に気が付いた。
「え? お前、オレが見えているのか?」
「うん。普通に見えているよ? ばい菌じゃなかったの?」
「だから、違うと言っているだろう!」
オレたちの姿を人間は見る事ができない。
現に十日も人混みをさまよって、人に見られた事は一度もないのだ。
だが、この女はオレが見えていると言う……。なぜだ?
「おっ?! お前! おい! よせって!」
女はオレを摘み上げると、自分の上着のポケットに入れた。
(ちょっとごめんね。見つかったら大変だから少し我慢してね?)
「お前。テレパシーが使えるのか?!」
(使える訳ないでしょ。あれ? どうなっているんだろう?)
「頭の中で会話ができているだろうよ。テレパシーじゃなければ、これがお前の内緒話なのか?」
(あら、本当に不思議ね?)
「不思議なのはお前の頭だ!」
(ねねよ。私は花石ねねっていう名前なの)
花石ねね……。
オレはあきれて、うすぐらいポケットの中で、ため息をついた。
サタンの息子だと名乗ったのだぞ。姿が見えているのだぞ。
なぜ頼んでもいないのに、自己紹介をするのだ?
ねねは誰もいない休憩室に入ると、オレを机の上に置いた。
「おなかが空いているでしょ?」
「べ、べつに……」
「さっきから、怒ってばかりいるから、おなかが空いているのかと思ったの。私はいつも、一人でお弁当を食べるのよ。付き合ってくれると嬉しいわ」
弁当箱のフタに小さく箸で色々とつまんで、ねねはオレに弁当を分けてくれた。
ここ一週間、オレは飯を食っていなかった。
うまかった。甘い卵焼きは地獄の母さんの味に似ている。
オレはねねの肩に乗ると耳の穴をのぞき込んだ。
オレは悪魔だ。人の弱みが三度の飯より、いや飯の次に好きなのだ。
耳は生き物の情報源だからな。
ねねの過去に実父の姿はなかった。母親に名前すら呼んでもらえず、母親の再婚相手の家族からもいない者として扱われていた。
再婚相手には、ねねと同じ年齢の娘がいた。ねねは母親の旧姓のまま、その娘と同じ学校に通学していたのである。そしてその学校でも彼女はいない者だった。
だがそれも十六歳の時、母親の病死で終わりを迎えたのである。
家から追い出されたねねを救ったのが、ねねが義務教育を終えて、アルバイトをしていたこの会社の社長夫婦だったようだ。
彼らは初めて、ねねを名前で呼んでくれた人たちだった。
ねねはそれから、ここで働きながら、高校と専門学校を卒業したようである。
オレはため息をつくしかなかった。
ねねは今、とても幸せだと思っていやがる。
五年も片思いのままなのに……。
五年も温めていたら、たいがいの物は腐るっての。
こいつの幸せの基準は完全に、崩壊している。
「小さい時から勝手に苦労をしやがって!」
「耳で分かるのぉ?」
「過去は耳が教えてくれるんだ」
「未来は? 未来は鼻の穴?」
「地獄に来る者に、未来はないからな。知りたいなら占い師にでも聞け」
「良かったぁ。鼻の穴は見られたら恥ずかしいもの」
耳は良くて、鼻は駄目な理由が分からねえ。
「何も悪い事をしていない者に、サタンは関与しない。なのになぜだ? なぜお前は今以上の幸せを望まないんだ?」
「私はとても幸せよ。だって悲しい事やつらい事がないもの。これ以上を望めば、きっとバケツから幸せがあふれてしまうわ」
「バケツ?」
人間の女は分からねえ。幸せは掃除道具に入っているのか?
「人はね。幸せのバケツを持って生まれてくるのよ、きっと。大きさは人によって違っていると思うのよ。私はこれ以上の幸せを願ってはいけないの。今の幸せで満足しなければ、罰が当たるわ」
「何の新興宗教なんだ? 人間は強欲だから、進化してきたんだ。お前のちっぽけな幸せに罰を与えるのは誰だよ」
ねねは小首をかしげてから言った。
「神様?」
「お前、地上にどれだけの人間がいると思っているんだ? 女と酒が大好きなあの爺さんが興味を示す人間なんて、滅多にいるもんか」
「神様が見守ってくださっている、そう信じて頑張っていたのに、酷い……」
「教えておいてやる。神は誰も見守ってはいない。お前が幸せだと思っているのなら、その幸せは自分が努力をして得たものだ」
「そうだとしても、心のより所がほしいのよ」
「幸せと不幸の間には、普通ってのがあるんだよ。その幅は人それぞれだけどな。百歩譲って、バケツがあったとしても、お前のバケツの中に入っているのは幸せなんかじゃないぞ。普通だ普通。だから、安心して幸せを願え」
ねねは小さく笑った。
「レビは優しいわね」
「それは屈辱的な言葉だな。そうか! ねねはオレの母さんに似ているのか」
「え? サタンに似ているの?!」
「ばぁか。サタンは父さんだと言っただろ。母さんは地獄で一番美しいアマノジャクだ。いいから、目をつぶれ。飯のお返しをしてやる」
「レビってサタンの子でしょ? お返しってデコピン? それよりアマノジャクって地獄にいるのぉ?」
「説明すると長くなる。まぁ、任せておけって! 目をつぶれよ」
素直に目をつぶったねねは、肩をすぼめて力を入れている。
どうやら、デコピンを待っているらしいが、好きなのだろうか?
オレは母さんが持たせてくれた、『赤い糸の杖』を使った。
それから姿を消すマントを被った。
「あれ? レビはどこ?」
ねねは狭い休憩室を、くまなく探して首をかしげた。
「帰ったのかしら?」
オレはサタンの息子の悪魔だ。そのオレが消えて喜ぶのが普通の人間だ。
しかし、ねねはオレを探している。まるで友人を探すかのように……。
性悪悪魔だったら、どうするつもりだ? 絶対だまされるタイプだよな。
ねねという女にかけた魔法が、効果を発揮するのか気掛かりなので、少し様子を見守っていようと思った。
ねねはしばらく不思議そうにオレを探したが、諦めて働きだした。
この会社はサービス業を手広くやっているようで、ねねは家事代行者と家政婦を紹介している部署で働いていた。
だがここの雑用係なのだろうか?
次々と現れるおばさんたちの苦情や、顧客の苦情に笑顔で対応しながら、職員に頼まれた仕事もこなしている。
サボっている清掃従業員の仕事まで手伝った時には、さすがに怒鳴りつけてやろうと思ったが、ねねは名前を呼ばれる度に嬉しそうに笑うから、オレは自分の声を飲み込んでやった。
今夜も街は明るく、至る所から音楽や鈴の音が聞こえてにぎやかだった。
彼女は嬉しそうに制服の上にコートを羽織って、勤め先を後にした。
彼女は豪華なマンションに着くと、掃除をしてから、料理を始める。
どうやらここは、仕事先のようである。
どれだけ働けば気が済むのだろう。
他人の家だというのに、あんなに楽しそうに、仕事ができるものなのだろうか。
日付が変わり、十二月二十四日になっていた。
オレは、父さんの頼まれた物をまだ見つけてはいなかったが、ねねの事が気になるので、もう少しだけそばにいようと思った。
その時、この家の主らしき男が現れた。
その男はねねの耳をのぞいた時に見た、彼女の片思いの相手だった。
「花石さん。ただいま」
「お帰りなさいませ。お食事の支度はできております」
オレは男の耳をのぞいた。
どうやら、裕福な家庭で育ったようだが、この男も苦労人のようである。
家をでて、寝食を惜しんで仕事をして、今の地位にあるようだ。
「いつも、ありがとう」
「いいえ。ご指名をいただいて、今日で五年です。こちらこそ、ありがとうございます。高梨さんの……。高梨さん、好きです。え? ええぇ? 申し訳ありません。高梨さん、大好きです。どうしよう、口が勝手に。いえ、違うんです! なんという事を……」
男は驚いたように固まったが、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「花石さん、それ本当?」
「待ってください。すみません。もう一度、言わせてください。高梨さん、好きです。あうぅ……。ごめんなさい」
「嬉しい……。嬉しいよ、花石さん」
「言っちゃあ、駄目なのに……。秘密なのに……」
「どうして? 僕は大好きだったよ。初めて会った日からね。まいったなぁ。先を越された。今年こそは告白しようと思ってね」
男はバックから箱を取り出した。
「誕生日おめでとう、花石さん。結婚を前提に、付き合ってほしいんだ。僕の大切な恋人になってくれるね?」
箱にはネックレスが入っていた。
「え? 私なんかが高梨さんの、大好きです。うぅ……」
「俺も大好きだよ。きっと幸せにする」
「ありがとうございます」
男はねねを大事そうに優しく抱き締めた。
「この日を何年も待っていたんだ。ようやく、ようやくこうして君をこの腕に閉じ込める事ができた。ありがとう花石さん。そしてようやく言える。愛しているよ、ねねさん」
ねねの目から大粒の涙がこぼれた。オレは慌ててその涙を小瓶に入れた
(ねね。メシのお返しはしたぞ。貸し借り無しな。そいつは、信用していいぞ。ねねを幸せにしてくれる)
(レビ? 何をしたのよ?!)
(ねねが不幸にならない様に、素直にしてやった)
(え?)
(好きな男の名前を声に出したら、そのまま気持ちを伝えてしまう魔法だ。もう解除してやるよ。これからは自分で言えるだろう? オレは行くぜ。幸せにな」
(ありがとうレビ。またね)
またねって、オレに言った奴は初めてだった。
どこまでもお人よしなねねを見て、人も満更、捨てたものではないと思った。
しかしオレは、笑顔は見せない。オレはサタンの息子なのだ。
ねねの阿呆!
またねって、そんなもんあるかよ。
「父さん、お歳暮は手に入れたぜぇ!」
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姿を消してそばにいた、レビの母であるアマノジャクが、ねねに気付かれない様にそっと杖を使った。
「ごめんなさい。悪魔なんかを信じてくれる方は、あなたしかいなかったの。悪魔が見える力とレビの記憶は消して行きます。ありがとう。お幸せにね」
神様は幸せの涙を酒に入れて、飲むのが好きだった。
しかし、天国で涙を流す者はいなかったのである。
「今年の涙は、なんと甘露な……」
天国と地獄の一年は、今年もまた無事に過ぎようとしていた。
そして、天国と地獄の間にも、ようやく、幸せになる二人がいたのである。