1-2 ○△×から始まるふたり暮らし
「生まれてから一度も夢を見たことがない」
俺が友人にそう漏らすと「キョーヘイは夢も希望もない人間だな」と真顔で返されたことがある。
あいにく俺が伝えたかったのはレム睡眠のときの夢の記憶のことであり、少年よ大志を抱け、に代表されるようなドリームのことではない。
「違うってば。なんで急に重い告白をしないといけないんだよ。暗い過去を抱えた主人公とか、思いっきり中二病アピールじゃねえか」
「違いねえ」
そういって腹が痛くなるくらい爆笑したのは五年も昔の記憶か。
あの頃はまだおじさんと二人暮らしをしており、ルナを連れた義母がやってくるのはもう少し先のことである。
ちなみに夢を見ない人間は一定数存在するらしい。
後日《よくわかる睡眠の仕組み》という本を読んでちょっとだけ気分が楽になった。
今年で十七歳になるが、同じような体質を持つ人間をひとりだけ知っている。
「今日も夢を見なかったな」
お決まりの一言で一日をスタートさせた俺は、ルナの部屋の前で立ち止まった。
日課となっている《伝言ボード》をチェックすると、水性マジックで次のような文言が書き残されている。
学校:×
食事:○
体調:×
自由記述欄:お兄ちゃんが作ってくれた昨晩のコロッケ、とても美味しかったよ!
事情を知らない人であってもおおよその見当はつくであろうか。
一番大切なのは学校、だからこれがトップにある。
○=登校する、×=病欠する、という意味であり、△=遅れて登校するかも、という意思表示のパターンも存在する。
この家には大人が住んでおらず、ゆえに私立ローレライ学園へルナの欠席を連絡するのは兄である俺の役目なのだ。
「それでは新田キョーヘイが風邪でタウンしたら誰が連絡するの?」というクールな突っ込みをしてはいけない。
答え、新田キョーヘイはダウンするな、以上。
「ルナは学校を休む、と」
ここ最近は病欠、登校、病欠、登校、病欠、登校というループが続いていたので、今日が病欠の番であることは予想していた。
ちなみにテスト期間に突入すると、登校、登校、登校、登校、登校という殊勝なパターンが出てきたりする。
「勉強は大丈夫かな……いや、俺の方がヤバいか」
半分くらい授業を欠席しているくせにルナの学業の成績はまあまあいい。
トップ層の一歩手前、どの科目でも八十点前後を卒なく取るようなタイプである。
あのアキラ先生をもってしても、
「わからない。どうして皆勤賞をもらっている新田兄よりも出席日数がボロボロの新田義妹の方が優秀なのだ。このままだと学校の七不思議のひとつになる」
と大きな謎を植え付けてしまった。
「まあ、俺たちは血がつながっていないので、遺伝子レベルで大きな優劣の開きがあるのかもしれません。きっとルナのご先祖様が優秀だったんじゃないですかね」
俺は冗談のつもりでいったのだが、
「ああ、なるほど。君のご先祖様にだって欠点はあるだろう。その欠点ばかりが遺伝してしまうと、考えただけで恐ろしい子孫が誕生する可能性もあるわけだ」
注目してほしかったのはルナの器用さであり、俺のダメっぷりではなかったのだが、アキラ先生は勝手に納得してしまった。
「食事はマルか」
学校の次に大切なのは食事。
○=必要、×=不要、という意味であり、ホテルの朝食のように選択できるシステムなのである。
だから○印のある日はルナの食事をこしらえて電子レンジか冷蔵庫に入れておく。
すると起床したルナが勝手に食べてくれるというわけだ。
今日はハムエッグ、キャベツ入りのコンソメスープ、ほうれん草のソテーにしよう。
生野菜が苦手なルナであっても、これなら美味しく完食してくれるはずだ。
あの笑顔を想像しただけで料理のためのエネルギーが湧いてくる。
「お兄ちゃんの手料理を食べているとね、お母さんの料理を思い出すんだ! 味付けとかメニューとかは全然違うのに不思議だよね! 愛情が詰まっているからかな? あ、これは悪い意味じゃなくて良い意味だから! お兄ちゃんよりもお母さんの方が料理が上手とか、そういう意味じゃないから!」
ルナはそういって褒めてくれたことがある。
お母さんの料理の味、あれに追いつくためにはもっと腕を磨く必要がありそうだ。
「体調はバツか。まあ、バツだろうな」
心身のコンディションを申告してもらっているのは俺からのリクエストだ。
○=良好、△=やや悪い、×=劣悪、という意味である。
これは九割くらいの確率で×印がついている。
しかも最大で三つまで重ねてくることがあり、×××印のときは二十四時間ゲームをプレイしっぱなしで、床には栄養ドリンクの空き瓶がごろごろ転がっていたりした。
「あれ~、なぜかお兄ちゃんがいる~? なんでだろ~。窓の外が明るいな~。鳥の鳴き声がするな~。おかしいな~。幻聴かな~。まだ真夜中のはずなのに~。あれ~、七時だ~。時計が壊れちゃったのかな~。お兄ちゃんに買ってもらった大切な時計なのに~」
朦朧とした意識のままゲームをプレイしていたルナは、糸が切れた人形のように倒れて、そのまま夢の世界へ旅立ってしまった。
ゲームパッドをなかなか手放そうとせず焦ったのは二か月前の記憶か。
×印はルナにとって普通である。
××印を最後に目にしたのは十日前。
×××印を最後に目にしたのは一か月前という具合だ。
「まあ、徹夜したまま学校へ行っても、どうせ授業中に寝ているんだよな」
そのせいで提出を求められた反省文は三十枚や五十枚どころでないはずだ。
すべてアキラ先生の指導であり、あの人なりにルナの面倒を見てくれている。
最後のコロッケ、これは苦労しながら作った夕食のことである。
一緒に食べられなかったのは残念だが、残さずに完食してくれたようで兄としては一安心である。
「とても美味しかったよ! か。コロッケは八十点くらいだろうな。ルナが食べる頃には衣がふやけちゃっただろうし」
俺は仏間にある位牌に線香をあげて手を合わせた。
灰の増え方から察するに、俺じゃない誰かも毎日線香をそなえている。
「さてと、洗濯機を回してから朝食を作るとするか」
コンソメスープ、ソテー、ハムエッグの順番でこしらえていく。
味が混ざらないよう器に盛りつけ、ルナが食べるぶんだけを電子レンジの中に入れておいた。
使い終わった食器を洗っていると、洗濯機のピーピー通知音が鳴った。
時刻は七時四十分、ここまでが朝のルーチンワークである。
そろそろ隣人を呼びに行く時間だな、と歯磨きをしながら考える。
ブレザーの制服に袖を通した俺は、「ルナ、入るよ」と断りをいれてから廊下との境界線を越えた。
まっさきに鼻をついたのはコロッケとソースの匂い。
皿と箸がワークデスクに置きっぱなしであり、ゲームをしながら食事を済ませたようである。
ビスケットの空き箱やお茶のペットボトルに混じって銀色の長い糸が散らばっている。
これはルナの髪の毛だ。
十三歳のときに若白髪ができてしまい、「校則違反じゃないし! うちの校風は自由だし!」といってロックバンドみたいな色に染めてしまった。
他にも染髪している生徒はたくさんいる(芸能事務所に所属している子もいる)が、コテコテのシルバーを選んだのはルナだけである。
「お兄ちゃんは学校へ行ってくるから。あとゲームは一日に一時間ってアキラ先生がいってたよ。それと甘いお菓子を食べすぎないように」
空き瓶をうっかり踏みつけ、俺はバランスを崩してしまった。
振動でデスクトップPCのマウスが動き、スリープモードが解除される。
「いって……帰ってきたら掃除してあげないと」
スクリーンに映し出されたのはルナがいつも遊んでいるゲームの画面だ。
フェアリーナイツクロニクルという日米中韓のソフトハウスが共同開発したタイトルらしい。
ネット越しの人間と協力してクエストをこなしていくタイプだと、以前にルナが教えてくれた。
〈長時間操作がなかったため自動ログアウトしました。ログインしますか?〉
そのメッセージに続いて〈はい〉と〈いいえ〉の選択肢が示されている。
ルナの秘密を垣間見たような気がして、逆に好奇心をそそられてしまう。
画面の中央に立っているのは男性キャラクターの剣士だ。
神話から飛び出してきた英雄のような顔つきに、サッカー選手のようなソフトモヒカンが似合っている。
場所はどこかの地下ダンジョンらしく、《タルタロスの大穴》という表記が画面の右上にある。
他プレイヤーやモンスターの姿は見当たらず、炭坑のような空間がスクリーンの端まで広がっている。
《レベル180》
《堕剣士・真剣優》
そのような表記が緑色のHPバーの上にあり、ルナの操作キャラクターだとわかった。
「あいつ、男のキャラクターを使っているんだな」
それにしても強そうな名前だとは思う。
恐竜の牙のようなトゲトゲがプレートメイルから生えており、接触されただけで大怪我をしてしまいそうだ。
何より目を引くのは背中に装備している大剣であろうか。
水牛の胴体を両断できそうなほどの面積があり、まず現実の人間が持ち上げるのは不可能である。
「いけねえ、急がないと遅刻する」
家に施錠をした俺は、隣にある和泉家の呼び鈴を二回鳴らした。
あまり待たされることなく私立ローレライ学園の制服をまとった女の子が出てくる。
「おはよう、カリンちゃん」
「おはよう、キョーヘイくん」
アキラ先生がいったとおりカリンは数日前に髪をばっさりと切った。
今日は青色のリボンで束ねており、それが人形のように整った小顔にマッチしている。
失恋しちゃった主人公の断髪シーンが少女漫画にあったりするが、カリンの場合は無縁であろう。
勉強、部活、家だけで生活が構成されており、あまり交友関係に注力していないからである。
とはいえ学級委員に選ばれるくらいの人望はあるし、学年トップテンに入るくらいの学力なので、さぞ有意義な学園生活を送っていることだろう。
そんなカリンが失恋で落ち込むだろうか。
誰かを失恋させることはあっても、カリンから誰かに告白するシーンは想像できない。
そうなる前に、
「キョーヘイくん、好きな人ができちゃったんだけど、どういう手続きで告白するのが日本式なのかしら? 四百文字くらいで説明してもらってもいい?」
ということを真顔で質問してくるような気がする。
「キョーヘイくん、今日は何か夢を見れたかしら?」
「いいや、今日も夢は見てねえよ。カリンちゃんは?」
「ううん。ダメね」
まったく夢を見ない体質の持ち主を俺はひとりだけ知っている。
それが幼馴染の和泉カリンだ。
品行方正、成績優秀、ゆえに次の生徒会長になるのではと目されている。
アメリカから帰国したばかりのカリンは日本のことに詳しくなかった。
毎日一緒に登校しているのは、いろいろ教えてあげた頃の名残である。
「残念ながら夢は見たくても見れないのよね。枕元でアロマを焚いてみたけれど効果はなかったし」
「アロマ? それはどこ情報だよ」
「情報ソースはネット」
「夢の中にお花畑が出てきそうではあるな。俺もやってみようかな」
「キョーヘイくんは何かトライしてみた?」
「寝る前にホラー映画を観てみる! ピエロとかゾンビのやつ! ちなみに効果ナシ!」
「ダメじゃない」
という風に下らないことを会話できる間柄なのである。
「そうそう、どうして髪をばっさり切ったんだよ。小学生の頃も伸ばしていただろう?」
「もしかして似合っていない?」
「いいや、いまの方がフレッシュで若者らしいぜ。あんまり長いとどこかに引っかけそうだし」
「そうね。動くときに邪魔かしら。乾くのが遅いし、首が疲れるし。でも本当の理由は……」
生徒会選挙。
「見っともない所信表明にしたくないから気合いをいれたつもり」
「いいじゃん。応援しているぜ」
「本当? ありがとう」
「当たり前じゃねえか。いままでカリンちゃんを応援しなかったことがあるかよ」
「キョーヘイくんって普通に良い人よね。毎日ルナちゃんのために料理をしているし、それって簡単なことではないでしょう」
「ああ、あれは好きでやっているんだよ。それにルナは食品スーパーのお惣菜の味とか好きじゃないからな。なるべく手料理を食べさせたいんだ」
「へえ、妹想いなのね。じゃあ今度はわたしもご馳走してもらおうかしら」
「別にいいぜ。二人前だろうが三人前だろうがそんなに手間は変わらないしな。カリンちゃんが食べたいものをリクエストしてくれよ。生野菜以外だと助かる。でも、和泉家でご飯を食べなくても平気なのか?」
「わたしの両親はいつも帰りが遅いから」
「なるほど、ね」
最寄り駅から私鉄に乗ること三駅、私立ローレライ学園前駅で俺たちは下車する。