第六.五話:研究室には近寄るな。放し飼いの罠「エキスカベーター」
「……どういうことだ、ゴランドリエル」
「……貴様こそ」
研究所を訪れたゴランドリエルを迎えたダルワイン。彼にしては珍しく、綿素材のシャツにジーンズというさっぱりとした服装であった。
世界の謎を解き明かさんとする大魔導士は、白いものが多めに混じる黒髪を後方へ撫でつけていた。露わになった素顔は鼻筋が通った端整なものであり、目元や口元にシワが寄っていなかった頃は、女たちの注目を集めていたものと思われた。
「あの汚いローブはどうした。貴様はあれでないと、どうにも違和感がある」
かつては済んだブルーだったダルワインの白く濁りつつある瞳を覗き込んで、ゴランドリエルが目を細めた。
「いつものローブは洗濯中だ……。それよりもどういうことなんだ。突然『外出したい』などと」
両手を腰に当て、ダルワインが魔法陣の中心に置かれた甕のそばを離れて寄って来た。中身をかき混ぜる手を休めることはあっても、会話の中でその場所から離れることなどなかったダルワインの行動にも驚かされた。
「ああ、貴様の蔵書を見ていたら、面白いものを見つけてな」
「また、私の本を勝手に……」
ゴランドリエルが手に持っていた一冊の古びた本を見せてやると、ダルワインは頭を抱えた。
ダルワインは本の一冊ぐらいでけち臭いことを言うつもりはもちろんない。ただ、ゴランドリエルは有り余る力の調節がうまくいかず、古びて脆くなった書物のページを爪先でめくるのは非常に危険だった。
「安心しろ。書物を傷つけてはいない」
「それは助かる。で、何を見つけたんだ」
ゴランドリエルは繊細な指の動きで本を繰り、目的のものが描かれたページを開いて見せた。
「破岩虫……砂漠虫の亜種か。これがどうした?」
「ここを読んでみろ」
「モンスター大全」の一項を指し示すゴランドリエル。ダルワインは怪訝な表情ながらも、大悪魔の爪先に目を凝らした。長年の迷宮暮らしと濃い魔素や瘴気にさらされたことによって、彼の視力はかなり落ちている。
「『このように、破岩虫は姿かたちこそ砂漠虫の亜種であると言って差し支えないが、彼らのもつ口吻の構造は、砂漠中のそれとまったく異なる。かれらはまるで、硬い岩盤の中を泳ぐように掘り進み、トンネルの上を通る獲物の足元から伝わる振動を頼りに移動して――』……なんだ?」
ゴランドリエルが小さく吹き出したのを耳ざとく聞きつけ、ダルワインが顔を上げた。
「ふっ、真面目に読み始めるのが可笑しくてな。素直なところもあるではないか」
「……くだらんというか、なんというか」
嘆息して本を突き返すダルワイン。対するゴランドリエルは意地の悪い笑みを浮かべて、
「くっく……新しい罠を思いついたのだ。こいつを捕獲してくるから、しばらく留守にするぞ」
と言うものだから、ダルワインはたまらない。
「ま、待て。お前の仕掛けた罠を越えて冒険者が押し寄せたらどうする?」
「前にも言ったが、俺を魔界から召喚できるほどの力があれば、冒険者ごときに怯える必要はないだろう?」
「私も前に言ったはずだ。私はそう長くは生きられん、とな。私には以前の半分の力も残されていないのだ」
ゴランドリエルは腕を組んで再び目を細め、白く濁りつつあるダルワインの目をしばらく眺めたのち、ちっ、と舌打ちをした。
「いいだろう。ならば代理を置いて行ってやる」
「代理?」
目を丸くしたダルワインに背を向けると、ゴランドリエルは右腕を軽く振った。漆黒の爪が空を裂くのにコンマ一秒ほど遅れて、空間に横向きに裂け目が生じる。それは縦にグイッと広がった。
「お前のそれを見ると、私の魔導士としてのプライドがいたく傷つけられる」
「ふん。しかたあるまい。貴様は所詮、人間なのだからな」
真っ黒な空間の裂け目からは、濃密な瘴気と地獄の阿鼻叫喚が溢れ出そうとしていた。ゴランドリエルが人間には理解不能な言葉を発すると、その向こうから巨大な気配が急速に近づいてくるのがわかった。
「な、なんだ!?」
迷宮を創り出したころに比べてずいぶんと狭くなり、ぼやけてしまった目にもはっきりと映るほどに、空間の裂け目からまろび出た存在は、禍々しくも妖しいオーラを纏っていた。
「おひさしゅうございます……ゴランドリエル様」
「うむ」
それが現世に出現すると同時に、裂け目は閉じた。
ゴランドリエルの前に跪いたのは、長い白銀の髪と時おり魔法陣が放つ淡い燐光すらも反射する不思議な煌めきを放つ黒いドレスを着た女だった。
「い、いったい……」
「こやつは俺の情婦だ。留守にする間、こやつを代理に据えよう」
「嫌ですわ、ゴランドリエル様……情婦だなんて」
鷹揚な態度のゴランドリエルに抗議するべく、口をとがらせて女は立ち上がった。
美しい。
ダルワインは素直にそう思った。
一糸乱れぬ白銀の髪は腰のあたりまで伸びて、彼女の肉感的な肢体から立ち上るオーラによって僅かに揺れていた。細く整えられた眉の下には長い睫毛に縁どられた切れ長の目があり、瞳の色は黒であった。病的なほどに白い肌をしており、まるで今の今まで生き血を啜っていたかのような色合いの唇が妖しさを添える。
彼女はダルワインの視線に気がついて妖艶に微笑みを返し、ダルワインは彼女の瞳孔が開いていることに気がついて息を飲んだ。
なるほど。悪魔の情婦は不死者か。
「ゴランドリエル様、代理とはどういうことです?」
「俺はしばらく迷宮を離れる。その間、この人間を冒険者から守ってやってくれ」
「迷宮……?」
銀髪の女は周囲を見回してから再びダルワインに視線を戻した。
「この人間が、迷宮の主、ということですわね?」
「そういうことだ」
「ゴランドリエル様が人間に召喚されたという噂は、本当だったのですね」
察しがいい。ダルワインはゴランドリエルの代理が強力なモンスターであることに安堵しつつ、警戒もしていた。知能が高いモンスターは、得てして彼らの世界で支配者階級として君臨しているものだ。纏う雰囲気やゴランドリエルとのやり取りからして、よほど高位の存在なのだろう。本来人間をいびり殺すことにこそ存在の全てをかけているような連中だ。ゴランドリエルと対等に話ができるような奴に、万が一裏切られでもしたら――
「ゴランドリエル、なかなかの美女を呼び出してくれたのは嬉しいが、紹介してくれないか」
「ああ、そうだな。ダルワイン、情婦のクイーンだ」
「女王?」
「憚りながら、不死者どもを総べる役目をしております」
ドレスの裾を持ち、女は恭しく頭を下げたが、彼女の言葉を聞いたダルワインの顔から血の気が引いた。
「まさか……不死者の王……?」
ダルワインの蔵書にもその名は載っている。不死者の王は数百年に一度現れては、世界に大きな災厄をもたらす伝説級の化け物だ。ただし、この一千年くらいは出現していない。しかし、討伐された、という記録もない。
「それは私の父でございます。今は隠居しておりまして。この吸血鬼の女王が、実務を担っております」
「きっ……」
ダルワインの顔がさらに白くなった。
「ゴランドリエル! 私は嫌だぞ!? き、吸血鬼と迷宮で過ごすなんて! ……ゴランドリエル?」
彼の視線の先に居たはずの大悪魔の姿は霞のごとく消えていた。
「ご安心くださいませ。ダルワイン様……ゴランドリエル様の主であるお方の生き血を吸うようなマネは致しませんわ」
「ひいっ!?」
こう見えて私……すごいんですのよ? いつの間にか背後に回ったクイーンが耳元で囁く。
ダルワインの悲鳴が研究室にこだましたのを尻目に、ゴランドリエルはそっとドアを閉じて旅立った。
◇
「懐かしいですわねぇ」
「そうだな」
【遠い目をするなっ! あんな危険な罠、とっとと外してくれ! というか、モンスターを駆除してくれぇ!?】
パソコンの画面には、いつも怒ってばかりいる冒険者協会代表の茹で上がった顔がアップになっている。
「しかしなあ、貴様たちが『新しい温泉を掘る!』などと言って、あいつらを起こしてしまうからいけないのではないか? ダルワイン亡きあと、せっかく最深部で休眠していたというのに……」
冬の嵐は去り、パウダースノーが陽光を反射して一面の雪原を美しく輝かせていた。悪魔の罠商会では、エリスがエイルマーからテレポーターの技術指導を受け、社長であるゴランドリエルは雪解けが始まる前に商品のストックを溜めて置こうと、急ピッチで罠の製作を始めた。するとまたしても、冒険者協会がクレームの電話をかけてきたのだった。
先日の「ツルツル回廊」のダメージからようやく回復したらしいダイナソンは、それまでほとんど手つかずであった迷宮の最深部――ダルワインの研究所の調査を始めた。
会社の存続を優先し、主を守り切れなかったゴランドリエルとしては、あまり無遠慮に立ち入って欲しくない部分でもあった。
故に、迷宮の管理者が変わった直後、彼はかつて少し上の階層に仕掛けておいた「破岩虫」を移動させた。捕獲したモンスターの名をそのまま冠したそれは、あらかじめ生息域を限定させる術式で囲まれた部屋の床に破岩虫を放し、彼らの「狩場」事態を罠とするものだ。そこに冒険者が立ち入った途端、岩をも砕く直径一メートル弱の咢が足元から複数襲い掛かる。
破岩虫は巨大な環形動物であり、体幹の太さは大きいもので五十センチ、長さは二メートルほどになる。特殊な消化液で瞬時に岩盤を粘土化し、まるで床下を泳ぐようにトンネルを掘って巣を作るのだ。
ゴランドリエルはそれを、冒険者協会が管理するようになった迷宮の中で、彼らを立ち入らせたくないゾーンに放しておいたのだった。
【もともと貴様らが仕掛けた罠だろう!? 撤去する義務があるはずだ!】
画面の向こうで口角泡を飛ばすダイナソン。激しい口調の割に、徐々に顔面から血の気が引いていっているのが画面越しにも見て取れた。感情の高ぶりによって様々に体調が変化する、人間がもつ自律神経とやらの働きはもろ刃の剣だ、などとゴランドリエルが考えていることなど気づく由もない。
「俺は用済みとなった憐れなモンスターを最下層の岩盤に放してやっただけだ。あれは罠でもなんでもない、と思うがどうだろうか」
【なん、だと……?】
「ナマモノを使用する際は、そいつらが一定範囲に留まるように周囲に術式を施すのだ。勝手に移動されては天然の罠になってしまうからな。おかげさまで忙しくて、奴らを生息地へ帰してやる時間はなかったし、もともと岩盤の中が住処なのだ。それに、まさか貴様らが前管理者であるダルワインの研究所の底を掘り起こすなんて夢にも思わなかったのだ」
ゴランドリエルはモニターカメラに顔を近づけて、わざと牙が見えるようにして口を開いた。
「床を掘り返せば、新たに宝でも出てくると思ったか? ダルワインが行っていた研究は世界の理を揺るがしかねない危険なものだった……魔道の専門でもないお前たちが下手に触ると危険だぞ。そうだろう? エイルマー」
工房の隅でエリスと話し込んでいたエイルマーが、突然話を振られて驚きながらも近づいてきた。話の大筋をクイーンから聞き終えた彼は、画面の向こうで苦しそうに息をついているダイナソンに向かって大きくうなずいた。
「彼の言う通りですよ。冒険者さん。故ダルワイン氏の研究は、人の身で完成させてはならないレベルのものでした。彼は時空を越えて物事を見通すほどの力を得ていたと言いますが、その負荷のために歳より百は老化してしまったそうです」
【ぐぐぐ、魔術士協会のひよっこが……悪魔に味方するのか!?】
「僕らは魔道の味方です。氏の研究は危険。素人が触っていいものではありません。できれば僕らが旧ダルワインの迷宮の管理権を買い取って、封印したかったというのが本音です」
おかげさまで、そこまで資金に余裕がありませんが、と言い残して、エイルマーは工房の隅へ戻って行った。
見送ったゴランドリエルは画面に向き直り、肩を竦めてみせた。
「そういうことだ。研究所のエリアに温泉など作らなくても、九十九階層もあるのだ。そこはそのままにしておけ」
【研究所に触らないとしても! モンスターは!】
「わかった、わかった。いずれは撤去しよう。だが、すぐには無理だ。あいにく人手不足でな」
【何を言うか! そこの――ん?】
クイーンが立っていた辺りに視線を映したダイナソンが目を丸くした。
「ああ、クイーンなら出張した。何しろ忙しくてな」
【お、おのれぇ……ぐっ】
「どうしたダイナソン。苦しそうだな」
【……覚えておれよ……】
通信が切れた。
「意外ですね」
いつの間にか近くに来ていたエイルマーが言った。
「なにがだ」
「ダルワインさんの研究室、です。冒険者に触られたくなかったのですか?」
「……馬鹿を言え」
ゴランドリエルはフン、と鼻を鳴らすと、作業机に向かった。