プロローグ
罠――それをしかけるものは、罠に嵌める対象が気付かないうちにそれにかかってしまい、害を被ることを目的とする。
物理的にせよ、社会的にせよ、それは密かに行われ、有象無象の被害を受けたものは、同じ被害であっても罠によるものだったと気がつくことによって、より深いダメージを負うことになる。「君子、危うきに近寄らず」などというように、賢明なるものは、それを避けていくものだ。
人類は社会という協力無比なシステムを構築し、個体の寿命を極端に延長することに成功したが、なぜか命を救う手段に比べ、奪う手段の方が大きく発展している。相手を騙して損害を与える、金を奪う手段においても、同様のことが言えるだろう。
故に、人間たちは日々何かの罠――詐欺や悪意ある情報の流布――に怯えて暮らしている。保険商品を例に挙げれば、そんな恐怖に縛られた人々に「病気に備えましょう」などとのたまって、「万が一の時にも安心」と付け加えながら、その「万が一」など到底起きないであろう健常人に金を出させるのだ。そのような商品が飛ぶように売れていることが、人々が社会というシステムを構築した支配者階級によって仕掛けられた罠にかかった証拠に他ならない。
しかし一方では、罠があると分かっていて、敢えて関わっていこうとするものも確実に存在する。たとえ罠にかかったとしても、それで被る損害よりも利益が大きい場合や、罠であることを看破して逆に被害を与えようと目論むものもあるだろう。
世界は、罠で溢れている。自然界ですら、巧妙に罠を張って獲物を捕らえる生き物が無数に暮らしているのだ。
そんな「罠」を開発し、ひっかかる人間たちを眺めて暮らすことに無上の喜びを覚えるものが、とある幻想世界に現れた。彼の名はゴランドリエル。大魔導士ダルワインによって魔界の深淵より召喚された最強の悪魔であり、「悪魔の罠商会」の代表である。
◇
その迷宮は、とある大魔導士によって、この世界に出現した。
人の身に余る――彼をそのような魔法使いに育ててしまった師が言う通り、人智を超えた魔力を持って地下深くに迷宮を創りだした男の名はダルワイン。
名を付けた親の顔を彼は知らない。
彼がこの世に誕生した途端、産婆や近所のおせっかいを巻き込んで、家ごと消し飛んだからだ。
たぶんその中の誰か、あるいは忌子として密かに処分されそうになったところを、予言に従って現れた師が名付け親なのだろう。
ダルワインは自身の出自について、あまり深く考察してこなかった。何故生まれ、何故その時小規模な破壊をもたらしたのか、そんなことを考えるよりも、彼は解き明かさなければならない謎を抱えていた。
世界の謎。
この世界には謎が多すぎる。
ダルワインの目を通して見る世界は、実際に存在している世界のほんの一部――表層にしか過ぎない。日の光届かぬ超水圧の海底や、星の内部を巡るマントル――そんな科学的な意味での表層ではない。水圧に耐えうる、あるいは高温に溶かされない外殻と内部環境を保つ技術さえあれば、いつか人間は生命を育む星の全てを暴くだろう。
だがそれでは、ダルワインの知的好奇心は満たされない。
成長したダルワインは、自問自答を繰り返す。
何故、人間は生まれたのか。
進化と生存競争の結果だ。
なるほど、ならばそれを引き起こしたのは何ものだ。
遺伝子だ。我々の身体を作る細胞の一つ一つにそれは組み込まれていて、子孫を残す時に配偶者と混ざり合い、爆発的な速度で複製される。いわば生命の設計図だ。だが複製は完璧ではないし、設計図自体も傷ついていたりして、出来上がった生命がそれまでとは少し趣の異なる姿や能力を持つことがある。それがたまたま、そいつらが生きていた環境で有利に働いた場合、変異した生物が生き残る――または数を増やす。遺伝子は、そうやって変化しながらいつの間にか、史上類を見ない複雑な生態系をもつ二足歩行の動物――人間を生み出した。
けっこう、けっこう。そういうことは便所の柱にでも刻み付けておけばいい。もはや魔導士として為すべきことは全て成した。王国の危機を何度も救ったし、王子を教育して立派な王に育て上げた。星の数ほどとは言わないが、人間の役に立つ術式を多数考案し、生誕の折に奪ってしまった命の万倍の民を助けた。
ダルワインは過去の業を振り返り、自身の掌を見つめてみる。長年杖を振るってきた、タコの目立つ、細長い指が蜘蛛のように蠢く手だ。その表面の角質層から筋層を越えて、骨やその周囲を取り巻く血管、神経の一本一本に至るまで、肉眼では確認不可能な設計図とやらに従って作られている。
いったい何ものが、その設計図を描いた。
またしてもダルワインの自問が始まる。
いついかなる時点で生命は誕生し、この遺伝子というものを刻み込まれたのか。誰が、何のために。
「誰が」などという概念自体が、科学的根拠に乏しい妄想でしかないとする世界にダルワインは暮らしていない。彼の世界には神と天使、悪魔が存在し、神々が住まう天界と、死者の魂が向かう地獄、そして悪魔や化け物が住まう魔界の存在が明らかになっており、それはダルワインが暮らす世界とは異なる次元に存在していることまでは分かっている。
これまで、異世界との関わりは一方通行だった。
神だの天使だのが、何らかの目的があってのことか気まぐれなのかはわからないが、世界に現れて奇跡を行ったり、異世界の人間を連れて来て代行させるようなこともあった。
何かの罰だったのか、地獄の死霊どもが甦ってモンスター化し、一国が滅びてしまったこともあった。
悪魔どもはどういうわけか人間をあまり好ましく思っていないらしく。度々各所に現れては世界を揺るがすほどの干渉を行っていた。
ダルワインは世界を取り巻く異世界の深淵に至り、ちっぽけで脆弱なくせに、世界の事象を統制し、手中に収めようと無謀な努力を続ける、この進化系統の終着点と思われる人間を生み出す原因となった遺伝子を、彼らの細胞核に刻み込んだものを探すという命題に、残りの人生を捧げようと誓った。
王の反対を押し切り、城を出て人里離れた荒野を目指した。土地の所有者の望みを叶え、彼は広大な荒れ地を手に入れそれを一夜にして緑豊かな裾野に変えた。北に連なる山脈には危険極まりないモンスターを放ち、管理者に自ら作り出した魔法生物を据えた。森にはたくさんの動物や虫を住まわせて、冒険者よりは森林浴や野鳥観察などを楽しむただの人間が多く集まるようにした。
そして、地下深く百階層にも及ぶ大迷宮を創り、最深部に魔道研究所を建設した。無許可の迷宮は摘発されてしまうため、きちんと王国に申請し、腐った態度の国王の印も受け取った。
最深部には怪しい魔導士がいかがわしい研究を行う研究所があり、そこには元王宮の魔導士だった彼が貯め込んだ財宝と、世界の謎に迫る書物が眠っている――そんな迷宮が誕生すれば、冒険者が押し寄せてくる。しかし地下百階層にも及ぶ複雑な迷路を踏破できるものなどそうはいまい。
高を括って始めた迷宮運営は、大魔導士ダルワインにまず魔界の深淵に至る巨大な魔法陣を描かせた。迷宮のオープンからわずか二週間で、ダルワインが相手にした冒険者パーティーが十を越えたからだ。
「我が呼び声に答えよ、魔界の支配者よ《アイネン クライネス、ナハトバ ムジークラ》!」
迷宮の奥底に設えた「召喚の間」には、夏でもないのに巨大な入道雲でも迫っているかのような、地響きにも似た轟音が鳴り響き、魔界の瘴気と迷宮の空気が触れ合って赤と紫が混じったスパークが発生していた。
「…………?」
室内に出現した嵐の中心には、かつて世界に召喚されたいかなる存在をも凌ぐ力をもつものが顕現していた。それは、牡羊の様な巻角、赤々と燃える瞳、灰色の体毛に覆われた背中に巨大な蝙蝠の様な翼を一対持っていた。
それは正しく、「悪魔」であった。
「おお、悪魔よ」
訝しげに辺りを見回す存在に、ダルワインは語りかけた。
「汝はこれより、我が身を守る剣となるのだ――ぬをっ!?」
突如、悪魔の背後から蛇が出現してダルワインに向かって咢を開いたのを見て、ダルワインは瞬時に魔法障壁を発生させた。
「…………ちっ」
黄色と黒のまだら模様の蛇は、シュルシュルと悪魔の背後に消えて行く過程で、先端に黒光りする鏃の様な構造体を持つ悪魔の尾へと姿を変えた。どうやら攻撃だったらしいと分かったダルワインが目を剥いた。
「何をするのだ!」
「貴様こそ、俺をこんなところに呼び出して、何をする気だ」
抗議の声を上げたダルワインに、悪魔は牙を剥いて威嚇して見せた。
「お前は私の召喚に応じて現れたのだ。私の命令を聞け。私の命を守るのだ!」
「阿呆か、貴様。魔界から俺を呼び出すくらいの力があるなら、自分で守れ。俺はこう見えて……まあ、忙しくはないが、かといって暇でもないのだ」
ヴィーン。
悪魔が手をちょい、と動かすと、そんな音を立てて空間が縦に裂けた。それはちょうど自動ドアのように長方形に広がると、濃密な瘴気を吐き出した。魔界の入り口が開いたのだ。
「……ん?」
そこへ向かって一歩踏み出そうとした悪魔が、魔法陣の中心から動けないことに気がついて首を捻った。
「ふふふ。無駄だ。その魔法陣には罠が仕掛けられている。私と契約を結べば、動けるようにしてやろう」
「…………貴様」
「ふふん。今更悔しがっても遅い。私の身を守ると約束すれば、ある程度の自由は保証するぞ。どうだ?」
悪魔はダルワインに向き直ると、開いたままの魔界の門の方を顎でしゃくってみせた。
「俺が居なくなったことで魔界のパワーバランスが大きく崩れることになるぞ。貴様らの世界にどんな影響が出るかもわからんが、いいのか?」
「そうなったらその時だ。私の命はそう長くない。誰にも邪魔されずに、ここで研究を完成させるには、鉄壁の防御が必要なのだ」
「やはり阿呆だな。誰かに邪魔されるような研究ならば、完成しても害にしかなるまい。くだらんことは辞めて、俺を解放しろ」
「さっきから悪魔のくせに、この世界や人々の害など気にしてどうする」
「ふむ。まあ、そうだな」
悪魔はにやり、と笑った。
「貴様は阿呆だが、今の問答は面白かった。いいだろう。貴様が死ぬまでは、守ってやろうではないか」
「ダルワイン、だ」
ごく簡単に自己紹介を済ませると、ダルワインは「よろしく頼む」と言って右手を差し出した。
「?」
「名前だよ。私の」
「ゴランドリエル、だ」
悪魔――ゴランドリエルは、差し出された右手の意味が分からず名を名乗ったときだった。
「なんだ、それは」
ダルワインの胸元で、けたたましい音を立てて光を発する赤と黄色の宝石を指差して、ゴランドリエルが眩しそうに目を細めた。
「警報装置だ。一つ上の階層まで冒険者たちがやって来ると、知らせてくれる」
「……ほう」
「興味があるなら色々と見せてやるが、まずは仕事をしてくれないか」
ダルワインが天上を指差したのと同時に、ゴランドリエルの足元の魔法陣がぼんやりと光った。彼の拘束が解かれたのだ。
「……いいだろう」
ゴランドリエルが翼を広げ、僅かに腰を低くした次の瞬間、ゴウ、と強い風がダルワインを襲った。
「…………次からは階段かエレベーターを使え」
天井にあいた大穴から降ってくる瓦礫から目を守りながら、ダルワインは苦笑を洩らした。