2.夜闇
鳥かごはとても小さい。
ヨダカの部屋は無駄に広くて、部屋自体はすっきりとしているはずなのだけれど、鳥かごの置かれている周りは壁と仕切りに囲まれ、視界が良くないために見渡しても特に目立ったものは見えない。ヨダカの就寝する寝台は小さな仕切りの向こう。ここからは全く見えないのだから、夜の間、わたしの傍にはいつだって孤独と闇が這い寄ってくる。
――まるで蛇でも忍び寄っているよう。
小さな鳥かごの中でその感覚に怯え、毎夜のようになかなか眠れなかった。
それでも、この仕切りの向こうでヨダカが寝ているのだと思うと、地下の牢獄とは比べものにもならない程の安心感が生まれてくる。
ヨダカ。
歌鳥の血を一切引かぬ彼女のことを考えるだけで、わたしの胸は何故だか痛む。理由を必死に考えた結果、きっと彼女が歌鳥の血を引いていないせいなのだという結論に至った。彼女が歌鳥であったならば、わたしは躊躇いもなく誓うことが出来たのに。
ああ、でも、こんな妄想は虚しいだけだ。
もしもヨダカが歌鳥であったのならば、同じ歌鳥であるわたしを欲するような真似もしなかったのだろうから。
彼女が人間であり、歌鳥の力を欲していたからこそ、わたしはここに居るのだから。
ではなぜ、わたしはヨダカに惹かれ続けているのだろう。
騙されたと気付いた時点で嫌いになればいいものを、わたしはそれでもなお、ヨダカを嫌えないままにこうして悶々とした気持ちを抱え続けている。
誓いこそしなかったといっても、傍に居られる身の上を少しでも嬉しく感じているのは何故だろう。時折、その胸に飛び込んでいきたいくらい切ない気持ちが込み上げてくるのはどうしてなのだろう。
考えれば考えるほど深みにはまっていく。
ヨダカとわたしの感覚の違いを実感すればするほど、首を絞められているかのように苦しくて、呻き、もがきたくなるくらいだった。
――ヨダカ。
たった一回微笑んだだけで、わたしの心を掻っ攫ってしまったヨダカ。毒を盛り、檻に閉じ込め、歌鳥の力だけを要求する女。苦しむ未来を恐れるあまり誓いなんて立てなかったはずなのに、どうしてわたしは苦しんでいるのだろう。
何故、わたしは歌鳥で、何故、ヨダカは人間なのだろう。
恨んでも仕方のない現実を呪いながら、わたしは小さな鳥かごの中でそっと涙をこぼした。嗚咽なんて漏らしたくない。万が一、仕切りを隔てた向こうで寝ているヨダカに聞かれたりでもしたら嫌だった。
それでも、溢れる涙は止まらない。
自由を愛していたのは確かだけれど、今のわたしは自由を恋しがって泣いているわけではない。そんな事はよく分かっていた。
ヨダカに触れられるだけで、わたしは悦びを感じてしまう。その口から少しでも労わるような言葉が漏れだすだけで、わたしの心は舞い上がってしまうほどだ。
ああ、いつからわたしはこんなにもプライドの無い歌鳥になってしまったのだろう。
父母によれば野生の歌鳥は誇り高くあるべきそうなのだけれど、今のわたしは誓ってもいないのに心の大部分をヨダカという女に攫われてしまっている。
独り、寂しい夜闇を小さな鳥かごのなかで味わうたびに、わたしは虚しくも罪深い欲望の虜となっていた。
ヨダカに触れたい。
同じ寝台で眠り、その温もりを直に感じてみたい。
けれど、その想いを告げるには、何よりもまずは誓いの唄を捧げなくてはならないだろう。
「――……出来ない」
怯えがわたしの手を震わせる。
もしも誓いの唄を捧げてしまったら、ヨダカに見捨てられた時、わたしはどうなってしまうのだろうか。
きっと死ぬよりもずっと辛い境遇に立たされる事だろう。
こちらは全てを捧げると約束し、一生それに左右されるというのに、あちらはわたしをいらないといって遠ざける。その状況は、どんなに心苦しいものだろう。想像だけでわたしの涙はさらに増してしまう。
誓いの唄なんて捧げてはいけない。
どんなに好きであっても、どんなに心を奪われていても、どんなに傍に居たくとも、ヨダカが歌鳥でない以上、わたしはわたしを大事にするべきなのだ。
何度も、何度も、そう言い聞かせなければ、選択を間違ってしまいそうだった。
こうして鳥かごに入れられて、不自由を強いられているからだろうか。いや、そうではない。きっと、そういうわけではない。
恋とは恐ろしいものだ。
両想いであっても、両想いでなくとも、人並み以下の精神であればすぐに冷静さを失ってしまう。その揺さ振りは、まるで、悪鬼にでも好まれたかのよう。生きながら肉を啄ばまれているかのように、容赦なくわたしの心を傷つけてくる。
ヨダカは気付いているのだろうか。
気付いていたとして、どんな想いを抱いているのだろうか。
「ヨダカ……」
名前を呼ぶ度に、動揺は大きくなっていく。
ここまで心を傾けた相手に、誓いの唄を捧げられないとは、なんと残酷なことなのだろう。それも、相手は欲しがっているというのに。
「――カナリア?」
その声がして、わたしの意識がすっと深い意識の彼方より現実へと戻された。
いつの間にか、仕切りの向こうに人影があった。誰であるかなんて考えるまでもない。月影を受けてそっと顔を覗かせるのは、寝ていたはずのヨダカだった。寝巻に身を包み、滑らかで美しい腕を伸ばし、彼女は鳥かごの中のわたしの頬にそっと触れた。
目を合わせてみれば、ヨダカは心配そうにわたしの顔を見つめてくる。
「どうしたの? 怖い夢でも見た?」
その優しげな声が、わたしの我慢を解いてしまう。
もはやヨダカに涙を見られたくない等という考えは何処へともなく消えてしまって、わたしにはどうしようもないほどの涙が溢れてしまったのだ。
涙を流し続けるわたしを見つめ、ヨダカは小さく首を傾げた。だが、すぐに片手でわたしの涙を拭うと、微笑むような視線でわたしを包みこんできた。
「――寂しいのね?」
そう問われ、わたしは子供のように素直に頷いた。
そんなわたしにヨダカは微笑みを深め、獣を手懐けるように優しい手つきでわたしの頭を撫でていく。
その感触に浸っているうちに、わたしはようやく眠気を感じることが出来た。




