1.ヨダカ
ヨダカという女主人は屋敷の全ての僕妾に恐れられているような人だった。
それは当り前の事かも知れない。この屋敷において、ヨダカより偉い人なんて何処にもいないのだ。
ヨダカもそれを分かっているからこそ、常に自信に満ち溢れているのだろう。
檻から出されて以来、わたしは常にヨダカの気迫を間近で感じていた。
自由を求めるあまり口を滑らせたわたしの唄の力の為なのか、ヨダカを陥れようとする者は減ったらしい。
それでも、それまでは確かにいたという事実が恐ろしかった。
ヨダカの美しさがもたらす魔性はわたしのようなしがない歌鳥を魅了するだけではなく、もちろん、歌鳥の血を引かぬ人間にも作用している。ヨダカに振られた者の中には、ヨダカを陥れて、半ば強制的に婚姻を結ぼうとしている者もいるらしいと屋敷の妾たちが噂しているのを聞いたことがあった。
ヨダカは想像以上に危なっかしい立場に居たらしい。
人の世と言うものはわたしが想像するよりも恐ろしいのだ。歌鳥の血を引かぬ彼らが残酷であるのは、同じ歌鳥ではない同胞が相手でも変わらない。
それでも、ヨダカという人は気高く、ちっとも世の中を恐れてはいなかった。
「世の中を恐れてばかりでは務まらない。兄様のように強くあらねば、この屋敷はとっくになくなっていたはずよ」
ある夜、彼女は自室にてわたしにそう言い聞かせた。
小さな鳥かごに入れられる生活は変わらない。けれど、彼女は決してわたしに暴力を振るわなかったし、暴言で傷つけようとしたりしないものだから、わたしはすっかりその鳥かごを受け容れてしまっていた。
勿論、わたしだってこんな扱いは不本意なはずだ。
歌鳥が人間と認められていないことをひしひしと実感してしまうこの境遇は、どうしても苦しいものだと思ってしまう。
きっと、わたしが夜な夜なこうして自由を恋しがっているように、別の屋敷や城でも同じように苦しんでいる歌鳥がいるのだろう。もしくは、自由も知らずにずっと檻の中で、或いは、鎖に繋がれて歌わされているような哀れな人もいるかもしれない。
考えれば考えるほど、歌鳥の血を引かぬ人間達は残酷な存在であるし、その一人であるヨダカもまた例外ではないはずだった。
――……はずだった。
不自由な鳥かごの中で眠り、全ての自由をヨダカに預けているこの身の上は、ひょっとしたらわたしの自我を狂わすのに十分過ぎるほどの疲労が生じるものなのかもしれない。
あの冷たい地下牢から解放されてたった数日。
その間に、わたしの理性は大きく揺るがされていた。
「けれどね、カナリア。あなたは恐れなくては駄目よ」
わたしが閉じ込められる鳥かごとは比べるのも虚しいほど無駄に大きくて豪勢な寝台の上で、わたしは大人しく座らされながら、ヨダカに髪をとかれていた。
ただ前を見つめながら、わたしはじっとヨダカの言葉と感触を受け取っていた。
わたしを綺麗に着飾るのはいつだってヨダカ自身だった。何故だか彼女は屋敷に仕える僕は勿論、妾達がわたしの身体に触れることすら厭うのだ。
きっとわたしが誰かに攫われる事を恐れているのだろうけれど、まるで物を独占するかのようにも思える。
決して優しいと言うわけではない。
けれど、わたしは愚かにも、この独占される感覚が心地いいものだと感じ始めていたのだ。もしかしたらこれは、今の自分の現状をポジティブに受け止めることで、出来るだけ精神的なストレスを和らげようという自然な作用なのかもしれない。
確かにわたしのプライドはずたずたではあった。
あんなに自由を愛し、自分というものを強く認識していたはずのわたしが、少しずつ一人の人間に支配されていくことが、どうしても悔しかった。
それでも、悔しく、悲しく、恐ろしいという感情が、奇妙な幸福感に覆われていく。
不自由への苦痛よりも、一目惚れと恋によく似た感覚の方が大きくなっているのだ。
自分の髪の間を徒に滑っていく柔らかな指の感触を味わいながら、わたしはそっとヨダカに問い返した。
「どうして? どうしてわたしは恐れなくてはいけないの?」
「あなたが歌鳥だから。ただそれだけの事よ」
振り返りそうになったが、わたしはじっと耐えた。
髪をいじられている時は、出来るだけ従順に振る舞う。それ以外の時だって同じだった。だって、ヨダカをもしも怒らせるようなことがあれば、檻の中に逆戻りかもしれない。誰もいなくて暗くて冷たい檻の中になんて絶対に戻りたくない。
独り緊張するわたしの身体を、ヨダカは優しい手つきで撫でていった。
「見た目は勿論、触り心地も、温かさも、心だって私達とよく似ているのは認めるけれど、あなたが歌鳥だって知っている人の中に厄介な存在がある以上、あなたは、歌鳥の血を引かぬ者の倍は、世の中を恐れなくてはいけない」
何故なら、とヨダカはわたしの背筋をなぞっていく。
その繊細な指使いに、痺れが走るほどの恍惚を覚えた。その汚らわしい快感を表に出さないようにと気をつけてはみたけれど、きっとヨダカには面白いほどに伝わってしまっただろうと虚しく悟れた。
「他所のお宅の歌鳥はね、カナリア。それはもう可哀そうなほど虐げられているの。相手が獣であるとされているのをいい事に、所有者はいつだって己の歌鳥の心を踏み躙ろうとする。そうしてこの冷たい世の中を生きる鬱憤を晴らしているのね。そういう人にあなたは捕まりたくないでしょう?」
撫でられながら、わたしは何も答えることなく俯いた。
誓いの唄さえ捧げなければ、わたしはいつでも自由になれるはずだ。一目惚れの魔性に囚われているわたしだって本気で逃げ出そうと思えば、ヨダカの元から逃げ出すことも可能だろう。けれど、わたし達はとても弱くて臆病だ。分かりやすい暴力に曝されれば、きっと恐れのあまり大事な誓いの唄をあっさりと捧げてしまうかもしれない。
ヨダカが恐れているのはそう言った事なのだろう。
「私は違う。私はあなたにそんな事はしない。あなたが誓いの唄を歌わずとも力を貸してくれるのなら、それでいい。でも、他所の誰かがあなたに暴力でも振るったら、そして、誓いの唄を捧げさせて一生奴隷のように虐げるようなことがあったらって思うと――」
一息吐いて、ヨダカは続ける。
「心配で夜も眠れなくなってしまうのよ。お分かりかしら、私の小鳥さん?」
手が離れ、わたしはそっとヨダカを振り返った。
彼女がわたしを心配するのは何故だろう。そんな疑問が頭を過ぎる。歌鳥を失いたくないからなのか、それとも、本当にわたしの事を大切に思ってくれているからなのか。
じっとその美しい顔を見つめていると、ヨダカは一度だけわたしを抱きしめてくれた。
特別な事でもない。人間が愛玩として飼う小犬や小猫にするものと同じだ。全身でその感触を味わいながら、苦しいくらいわたしは自分の身分の低さを思い知った。
――自由な時は一切感じさせられなかったものなのに。
そんな不服な思いもヨダカの香りを嗅いでいる内に薄れていってしまった。