5.早朝
一睡も出来ぬまま朝となったらしい。
朝食は歌鳥の身体をよく考えた料理だった。持って来てくれたのはこの屋敷に仕えているという僕でも妾でもなく、女主人その人。
そっと皿を差し出され、わたしは無言でその顔を見つめる。
昨日とは違う高貴な衣服に身を包み、輝かしい肌が見え隠れしている。その手が伸ばされて来て、わたしは静かに近寄った。
頭を撫でられて目を閉じるわたしに、女主人は透き通るような声を放った。
「眠れなかったのね」
優しげな声に、ふわりとした香り。撫でられる感触はとても気持ちがよくて、残酷に囚われていることすら忘れてしまうほどだった。
目を開けると、女主人の穏やかな表情がわたしを見つめていた。
「少しは考えてくれた?」
問われて、わたしは口籠る。
彼女の求めている答えは一つしかない。
応じるにはあまりにも危険過ぎる選択だ。少なくともわたしはこんなに大事な未来の選択を、たった一日で考えて決めてしまうような女ではない。
けれど、だからといって何が出来るのだろう。
こうして檻に閉じ込められている以上、状況は何も変わらないというのに。
「――出来ない」
結局、わたしは泣きながら女主人の良心に訴えることしか出来ないのだ。
静かに、穏やかに、けれど何処か鋭い眼差しで見つめてくる女主人の顔へ、わたしは懸命に訴えかけた。
「あなたが歌鳥だったら答えは違っていたわ。あなたは美しい。実をいえば、わたしが近づいたのも、あなたに気に入られたかったからよ。けれど――」
「――けれど?」
柔らかい手がわたしの頭を撫でる。決して厳しくはない口調で促されて、わたしは自分の気持ちを必死に伝えた。
「わたしは臆病なの」
言葉を探しながら、どうにか。
「歌鳥は誓った相手を裏切れないけれど、あなたは歌鳥じゃない。もしもあなたに見捨てられたりしたら、わたしはどうしたらいいの――」
「見捨てるなんて、とんでもない」
すぐさま女主人はそう言ったけれど、わたしはどうしても信じられなかった。
わたしが歌鳥であるせいなのだろうか。誓いの唄を捧げてくれない人相手に、誓いの唄を捧げることなんてどうしても出来なかった。
でも、彼女はそんな答えを求めてはいない。
誓わなければわたしは一生この冷たい檻の中に閉じ込められてしまうだろう。
絶望的な状況に呑まれ、信じて疑わなかった自由の足音が遠ざかっていくのを感じて、わたしはさめざめと泣いた。
そんなわたしの頭を撫でながら、女主人は色気ある溜め息を吐く。
「そうね……」
引き寄せられるままにわたしは女主人の温もりを味わった。嫌いなわけじゃない。こうして残酷にも自由を奪われてしまったけれど、あの庭園での夢のようなひと時以来、心の深い部分は魅了されたままだ。でも、だからこそ、辛かった。
憎めばいいのに、憎めない。
ふと気を抜けば、何も考えずに彼女に誓ってしまいそうになる。だけど、それではいけない。父母に愛された自分を大切にしようと思うのならば、いかに好きな相手であってもこんな誘いに応じてはいけないのだ。
檻越しに抱かれながら、わたしは更に苦しんだ。
そんなわたしの耳元で、女主人は呟いた。
「あなたが怖がるのも無理ないわ」
寂しげな声。その印象がじわりじわりと胸に沁み込んだ。
「私だって、歌鳥の血を引いていたら、あなたに誓ってあげたいくらいよ」
――騙されてはいけない。
必死に目を閉じて、わたしはその言葉を聞き流した。そんなわたしの目元を流れる涙を、女主人は優しく拭う。
その感触がまた、心地よくて辛かった。
「――カナリア。あなたに名前を与え、少し高価なだけのペンダントを与えたくらいじゃ駄目なのだって悲しいほどに分かっているわ。でも、それなら私はどうしたらいいの? 誓いの唄を知らない私は、どうしたら、あなたを手に入れられるの?」
繊細な手の感触に抱かれて、わたしはそっと目を開けた。
この女はどういう人なのだろう。
歌鳥を欲しがるのは何故なのだろう。
わたしでなくてはならないのか、歌鳥だったら誰でもよかったのか。
そんな疑問が流星のように頭を過ぎっていく。
「歌鳥を欲しがるのは何故なの?」
わたしは浮かび上がった疑問を正直に言葉にした。
「理由によってはこのままでも協力出来るかもしれないわ」
自由を失わず、他ならぬわたしが一目惚れしたこの女に協力する道はあるかもしれない。何故なら歌鳥の唄は、自分自身はもちろん、誓ってもいない恋人や親兄弟や子供、そして友人にだって効力をもたらすのだから。
女主人はじっとわたしを見つめ、しばし黙った。
探るようなその視線を見つめ、わたしもまた返答を待った。
説得次第で誓わずにここから出して貰えるかもしれない。自由を手に入れるためだったら、どんな緊張だって耐えられる。
しっかりとしたわたしの表情に嘘が無いと見抜いたのだろうか、女主人はやがて長い沈黙を破って口を開いてくれた。
「歌鳥が欲しいのは、私自身とこの屋敷の為よ」
それは、正直な答えだった。