4.カナリア
毛布にしがみつきながら、わたしは次第に強まる寒気に耐えていた。
外は夜となったのだろうか。時間の感覚さえも此処からでは全く分からない。わたしに与えられたものは、檻の外を照らす火の精霊の灯りと、その灯りを美しく反射するペンダントくらいのものだ。
――ペンダント。
ここに書かれている文字はやはり読めない。けれど、きっと、かの女主人がわたしに付けた名前――カナリアという文字が書かれているのだろう。
カナリアじゃない。わたしには違う名前がある。父母がくれた大切な名前が。
その事実をわたしは何度も自分に言い聞かせた。音もなく、会話をする人もおらず、外が何時かも分からないようなこの場所に閉じ込められているうちに、感覚が歪んできた。
時折、石壁を虫が蠢きネズミが横切るその姿さえ、触れあいたいほど貴重な動きに思えるくらい、わたしは孤独に苛まれ始めていた。
自由とはあんなにも尊いものだったのか。
失ってみて、その存在の大きさに気付かされる。
外では何かが動いているのも当り前だし、自分以外の命ある存在なんて珍しくもなんともない。それなのに今やわたしは自分の鼓動すらも珍しいものに思えてきてしまうほど、この閉鎖空間に狂わされてしまっていた。
――このままではいけない。
わたしは強く自分を揺さ振り、口を開いた。
漏れだすのは小さな唄。
気晴らしの唄。誰の為でもなく、自分の為だけに奏でる唄で、自分自身の心と体を癒すくらいが今のわたしに出来る数少ない事柄だった。
唄は好きだ。
自分の声だけでいつでも好きな時に奏でる事が出来る。そして、いつも変わらず、歌鳥として生を受けたわたしの心を癒してくれるものだ。
たとえ、今の状況が歌鳥の血のせいであったとしても、わたしは唄を嫌う事が出来ない。
――あなたの名前はカナリア。
唄に浸っているわたしの脳裏で、いまだ名前すら教えてくれない女主人の声が甦る。
ああ、麗しいあの姿。決して今も心を惹かれていないというわけではないという事は認めよう。わたしはあの女主人の笑みと手招きに引き寄せられて、近寄ってしまったのだから。
普通の人間だったならば、わたしはもっと警戒していただろう。
けれど、名も知らぬあの人の手招きには抗えなかった。
それは、一目惚れのような感覚だった。とにかくあの女性に好かれたい。そんな初めての感覚に打ちひしがれ、ただただ近くでその空気を味わいたいがために近づいたわたし。
飲み物を差し出された時だって、同じ。
疑う余裕さえなく、わたしは彼女の美に見惚れてしまっていたのだ。
「ああ、どうして――」
どうして、彼女は歌鳥ではなかったのだろう。
彼女が歌鳥の血を引いていて、わたしにも誓いの唄をくれると約束してくれたならば、わたしだって躊躇はしなかったはずだ。
これまでずっと歌鳥の伴侶を求めてきた。
人間相手に唄を捧げるなんて恐ろしくて出来ない。
わたしは、檻に閉じ込められ、ただ一つの選択しか与えられていない状況において、あの麗しくも残酷な女主人が歌鳥として生まれなかった事を呪っていた。
もしもわたしが思慮も浅く、極めて楽観的な歌鳥であったならば、こうして誘われた時点で女主人の甘い言葉を鵜呑みにしてすぐにでも誓いの唄を奏でただろう。けれど、生憎わたしはそんなにポジティブではない。むしろ、ネガティブな方だと自覚していた。
一体、どれだけの歌鳥が人間に飽きられ、路頭に迷っているのだろう。
わたし達の能力は確かに人を喜ばせ、不可思議な効力を与えるかもしれないけれど、それでも人の心は不確かなもので、路頭に迷った挙句に行方不明となってしまう歌鳥は多いものだと聞いている。
女主人がわたしに教えてくれた事もあながち間違ってはいないのだろう。
親元を発つ日が近づいてきた頃、父母は毎日のようにわたしに忠告した。
人間相手に簡単に心を許してはいけないと。特に、男相手には絶対に近づかない方がいいと。何も知らないままで独り立ちをした歌鳥娘がいたからこそ、世の中に混血の子が生み落とされてしまうのだと。
歌鳥と歌鳥でない者の混血。
その存在は、誓いの唄を捧げ合わなかった歌鳥の男の子供を生み落とすよりも残酷なものであるらしい。母親となる者にとっても、そして、生み落とされる子供にとっても。
では、女主人のした事はわたしにとっていい事だというのだろうか。
彼女はわたしを保護したと言っていたけれど、どうしても信用出来なかった。それはすべて女主人が歌鳥の血を引いていないせいだ。
――ああ、どうして。
これまで一目惚れをした事がないわけではない。もちろん、相手は歌鳥の男であることが多かった。将来、共に子を残したい相手として惚れこみ、そして様々な理由で破局した。既にその男に相手がいたり、わたしの心が変わってしまったりと様々だ。
それに、女に恋をしたことがないわけでもない。
子を残す事を考慮しなければ、同性同士で誓いの唄を捧げ合うことも想像し、それはそれで幸せなのだろうと思ってきたのも確かだ。
人間相手にいいなと思ったことだってある。
けれど、いつだってそれは一瞬の事で、相手が歌鳥でない以上、それっきりだった。同じような人が歌鳥でいたらと想像するに留まった。
それなのに、あの女主人は。
同じような人が歌鳥にいれば、だなんて思いもしない。わたしは彼女自身が歌鳥でない事を無念に思っているのだ。
こんな事は初めてだった。
――カナリア。
受け取ったペンダントを握りしめ、わたしはその名を呟いた。
違う。わたしの名前はちゃんとある。父母に貰った大切な名前がちゃんとある。その名前を蔑ろにするつもりなんて全くない。
なのに、わたしはこのペンダントを捨てる気どころか外す気にすらならないのだ。
あの女主人がもしも歌鳥だったら。そんな想像を働かせると、カナリアという名前すら受け入れたくなってしまうほどだった。
――なんて残酷なんだろう。
涙を流したい気持ちをこらえ、わたしは石壁の中で唸った。
どうして彼女は歌鳥でないのかと。